見出し画像

五代友厚の沈殿藍事業(1)

 以前の記事(明治期、阿波藍ギルド崩壊の意味 (1))で触れた五代友厚の沈殿藍事業について、改めてもう少し深掘りしてみようと思います。
 なぜ五代さんの沈殿藍作りにこんなにこだわるかというと、彼を取り巻いた当時の藍事情を通して世界と日本の産業や国の在り方としてのせめぎ合いを眺めると、今の私たちが考えなければならないことの道筋が見えてきそうな気がするからです。五代さんの取り組みそのものにも考えさせられることが多いです。
 それからなぜナチュラルに「五代さん」呼びなのかというと、個人的に明治時代1番の「推し」で、常に「さん」づけで呼ばせていただいているからです。
 それでは参りましょう。


輸出商品の目玉に日本の藍を

 明治維新直前の開国によって開かれた横浜港から、木藍を原料とした「インド藍」が輸入された最も古い記録は1859年(安政6年)。その10年後の1869年(明治2年)には全国の藩主の支配権が返上され、藩の後ろ盾はもちろん諸々の「縛り」が無効化される流れの中で、藍商人の株仲間が解散。ほぼ徳島藩の独占商材だった蒅(すくも)が全国どこででも作れるようになりました。これによって藍の栽培面積も蒅の生産量も各地で増えている最中に、五代さんが動きます。

 この当時、インドなどから欧州各国への藍の輸出額が現地価格で年に数千万円に上り、インド藍のビジネスの覇権を握っていたイギリス・ロンドンで取引されているインド藍の売買価格は日本円で3億3500万円を超えていることが新聞で報じられ、その記事を彼が「見た」と報告しています。
 国内では、阿波藍を中心とした蒅と輸入インド藍の国内シェアをめぐる競り合いの最中でしたが、五代さんの視線はその外に向けられていました。
 今、蒅とインド藍が競り合っているように見えても、質量ともに蒅を凌駕する規模で動いているインド藍にいずれ飲み込まれる可能性は高い。それでは国体を支える産業が弱体化してしまうだけだから、いっそのことインド藍を越える沈殿藍を作って世界のマーケットに乗り出し、国内からインド藍を駆逐するだけでなく世界で取引される目玉商品に育てよう。そうなればこれまで藍産業に携わってきた人の生きる道筋も新たに確保できる。そんな目論見があったのではなかろうかと推測しています。

 当時の日本からの輸出品は生糸と茶が主だったものとなっており、目玉となる商品が更に必要とされていました。五代さんは先の新聞記事を根拠にして、輸出品として国産沈殿藍を作ることを目標にし、個人の負担で様々な研究を4年ほどあらかじめ積んだ上で、政府から50万円を借り入れ沈殿藍の製造工場「朝陽館」を大阪に設立した(1876年)ことは以前に述べたとおりです。
 阿波藍の本拠地である徳島県内にも、そんな意気込みに活路を見出す一派がいて、4年の研究の間の1874年(明治7年)徳島県内に沈殿藍の工業化試験に取り組むための仮製造所ができていました。蒅に取り組んできた地域の矜持とインド藍に感じる脅威とのせめぎ合いの中で、「新しいこと」に一歩踏み出してみようとした人がいたのです。

 入念な研究ののち、朝陽館の設立にあたって組まれた予算に占める藍葉の額は莫大でした。大阪の朝陽館建設費用3万円、東京製造所建設費用5千円、藍葉の仕入れに42万円と記録されています。
 いきなりトップスピードで走ろうとしていた印象を受けます。実は朝陽館設立前年に当たる1875年(明治8年)に、既にフランスの商社に輸出品として国産沈殿藍を打診し、サンプルを送っていたのです。商談成立とはなりませんでしたが、イギリスが取り仕切るインド藍と渡り合うなら取扱量がものをいうことは明白で、サンプル段階ではなく本製造で作り込めば道は開けると見込んでいたのではないでしょうか。とにかく、朝陽館設立当時の五代さんは自信満々だったという印象です。

ここから先は

2,646字
他では書けない藍の専門的な(というかオタクな)記事をここにまとめています。

藍染めの歴史・効能・応用方法を調査・検証しているうちに、脱出不可能なほどハマってしまった藍の沼。この甘美な沼は、歴史や自然科学などの思わぬ…

よろしければ、サポートをお願いいたします。いただいたサポートは藍農園維持と良質な藍顔料精製作業に活用させていただきます。