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ウズベク旅行② タシュケント

スマートフォンの海外ローミングがうまくいかず、日本のお客様センターに電話したりなんだりと対処に時間がかかる。現地の提携先携帯電話会社の電波は入るので、ナビゲーションアプリなどを街中で使うのに支障はない。なぜか電話だけが使えぬ。こういう地味なライフライントラブルが一番ストレスフルである。結局よくわからんままだが、LINE電話は使えることが発覚し、なあなあでことをおさめた。

ドルとスムの交換はホテルのそとにあるATMで一瞬だった。便利。1円≒100スムくらいで、いくら物価が安いとはいえちょっと飲み食いしただけで10万の桁に突入してしまう。10万=hundred thousandの変換が苦手な私は毎回レジ前でえーとどのお札かな、ともたつき、店員さんにこれ、と勝手に財布からお札を抜き取られる羽目になる。ありがとう店員さん。後ろのお客さん遅くてごめんね。

さて街に出よう。タシュケントは山が近いせいもあって水が豊富なのか、街中に緑が多い。広い道には街路樹が多いし、大きな公園が至る所にある。しかし照りつける太陽は強烈で、公園ではずっとスプリンクラーが水を撒き続けていた。たまに避け損ねて水がかかるが、なにせ紫外線が強烈で気温も40℃近いのだから、すぐ乾く。植物は気を抜けばすぐに枯れそうだが、人間も水を切らせば瞬く間に干からびそうだ。8月に来るのが悪い。しかし(暑すぎて)オフシーズンなので観光地がすいているのは大きなメリットでもある。

ティムール像

とにかく大きい。見上げると首が痛くなった。ティムールは精悍に、政府の中心機関の目の前で号令をかけ続けている。遊牧ウズベクはティムール朝を滅ぼしたのに、ソ連崩壊後ウズベキスタンの英雄として祭り上げられており(注:現在のウズベキスタンと16世紀くらいの遊牧ウズベクとの間には単純に連結できない歴史の紆余曲折がある)、ついでに初代大統領イスラム・カリモフの「俺がやったんだぜ!」宣言もおいてある。像はともかく周りの花壇が綺麗でよい公園だった。

雲一つない青空にティムール像が映える

思ったよりもタシュケント市内ではロシア語をよく聞く。もう全く聞き取れないし話せないしごく簡単な文以外読めないくらいロシア語能力は落ちてしまったけれど、看板や注意書きなど文字は3言語(ウズ・露・英)表示のことも多いのでありがたい。市内で見かける文字はウズベク語の割合が高いような気がするが、人々が話す言葉はロシア語のことも多く、いくら政策で脱ロシア語脱キリル文字をやったところで人々の口まで思い通りにすることはできないと改めて感じた。

国立図書館

気まぐれで寄ったら、中に本の博物館があるそうで、入り込んでみた。入口に荷物チェックと身体検査があり、貴重品以外は預けなければいけないのがやや面倒くさい。本の博物館と称してはいるが10メートル四方程度の空間に30点ほどの写本が並べてあるだけだった。しかしそのほとんどは16〜18世紀の写本で、私が専門にしようとしている科学史の本もあった。思わぬ収穫に欣喜雀躍する私、ハイテンションな怪しいアジア人に怪訝な目を向ける司書さん。写真撮影NGだったのが残念でならない。

図書館に人々が吸い込まれていく。

国立歴史博物館

チケットを買う際、学生証を忘れたので一悶着あった。結局安くしてくれたのでありがたや(割引がなくても入館料は600円くらいなんですけど)。展示撮影料を律儀に支払ったのでトントン。
大層な見た目に反し、コンセプトのない博物館だったことは否めない。ウズベキスタンの歴史を時系列に扱った展示ではなんと恐竜時代から説明が始まり、高校世界史でみんなが苦しんだクシャーナ朝やホラズム・シャー朝の展示が次々と登場する。やはりティムールは大仰に褒め称えられている一方、ソ連時代の展示は異様に薄っぺらく、政策の反映が垣間見える。

歴史博物館
ガレノス(2c)、アヴィセンナ(11c)、ヒポクラテス(B.C.4-5c)による夢の共演(本当に夢)
『医学典範』ラテン語訳版の挿画とよく似た構図

地下鉄
一回券(1400スム)を毎度買うかICカード(15000スム)を買うか。ソ連時代の名残でいたる所に警官がいて物々しい。地下鉄はソ連時代の車両がほとんどで車内は大変に騒々しく、車内放送を聞き取ることすら困難。
アミール・ティムール・ヒヨボニ、ムスタキリク・マイドニ、パフタコル、アリシェール・ナヴォイ、ガフル・ギュラム、チョルスーの駅内装を堪能。いつか全駅制覇してやりたい。

綿花模様のパフタコル駅

Muyi Muborak Madrasah(※表記揺れが多い)

チョルスー駅から炎天下を歩くこと1kmちょい。紫外線が肌をいじめているのは明白で、愚かしいことをしたと我ながら思う。
モスクの手前でぐうたらしていたガイドの親父が絡んでくるが、ロシア語で説明されたところでわからないので丁重にお断り申し上げた。道端のレモネード屋も声をかけてくる。とかくみんな声をかけてくる。大抵「アンニョンハセヨ」か「コンニチハ」で、「ニーハオ」がないのが不思議だった。確かにウズベキスタンに来てからというもの、東アジアな顔立ちから発せられる言葉は多くがロシア語、ついで朝鮮語、たまに日本語で、中国語は全然聞こえない。まだ中国にとってメジャーな観光地ではないのかもしれない。

話を戻そう。ここでは、クルアーンのウスマーン写本を見られる。ウスマーン写本というのは第3代カリフ・ウスマーンがクルアーンの内容を口承から文字に起こして公定化した時に作られたと伝えられるクルアーンである。本当にウスマーンの時代の作品かはかなり怪しいが、少なくとも8世紀ごろに編まれたであろう最古のクルアーン写本の一つだ。
写真撮影は禁止で、クーフィー体(アラビア文字で子音を区別するための点々すら省略された古い時代の字体。読めない。)だし接触禁止でめくれないし何が書いてあるかは何もわからなかったが、静かかつ小さな空間でゆったりできた。クルアーン注釈本やペルシア語の歴史書などその他も重要な資料が特に時代やジャンルなどの分類なしに並べられている。背が低い人間は上の方の展示が読めず悲しい。
この一帯はイスラーム復興重点地域なのか、モスク、資料館、宗務局、土産物屋などが集中していて、巨大なイスラームセンターも絶賛建設中だった。
土産物屋では職人の兄さんの上手なセールストークにのせられ、書見台(兼iPad台兼スマホ台)と隠し小箱を購入。あとで各地を回ったが、似たようなものはどこにでも売っていた。こういうのは思い出を買ったのだから、よいのである。

右手前の建物が博物館

チョルスーバザール

まさに想像した通りのバザール。美しい青い丸屋根の下に円状に店が並び、香辛料や野菜、果物、乳製品、ドライフルーツ、肉などがこれでもかと山盛りになっている。野菜はどれも巨大で、スイカなど私の頭2〜3個分くらいのサイズ。屋外テントには服や靴もたくさん掛かっているし、入り口付近にはプロフやシャシリクが湯気を立てている飲食店コーナーもあった。薄茶色でスリムなハトが羽ばたき、常におこぼれを掠め取っている。店番たちから「アンニョンハセヨ」「コンニチハ」などと声をかけられまくるが、疲れていたので結局水くらいしか買わずに出てきた。私の年齢を聞いてきたおっさんは相当上に見積もって「18歳くらいか」と言ったが、残念、二十歳をとうに過ぎている。悪かったな童顔で。
紫外線に晒され疲れていたのでバザールの写真は撮り損ねた。しまった。

待望のナン

グルテンスキー(小麦粉好きの意)としては、各地のナンは外せない。チョルスーバザールで買い忘れたので、ホテル付近の24時間営業スーパー(首都圏でいうとまいばすけっと、神戸ならミニコープくらいのサイズ感)で買ってきた。周りはふかふか、真ん中はパリパリで塩味がきいていてとても美味しい。ずっしり重く、お腹にもたまる。ご満悦である。

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