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料理本は、作らなくても意味がある。


 料理雑誌の「dancyu」が好きで、本屋さんにいくといつも買ってしまう。載っている料理が美味しそうなのもあるし、レシピだけでなくコラムや料理についての考え方、食材に関するストーリーなどの様々な面が載っているのが嬉しい。特集があまりにも自分に合っていないとき以外は、絶対に買ってしまう雑誌の一つだ。

 しかし、実際に買ってもほとんど読まないし、レシピが載っている料理も作らない。バックナンバーがキッチンの棚に並んで行くのを、淡々と楽しんでいる感じだ。

 これはこれでいいのだが、せっかく買ったのならしっかり読んで作るべきではないか。自分でもそう思うのだが、「そういえばこれは私の母も同じようなことをしていたなあ」ふと思った。

 母は料理がうまかった。父が諸事情で別居していた関係で、小学校4年生ぐらいから、母は私と姉をほとんど女手一つで育ててくれていた。パートで忙しい中でも常に料理は作ってくれたし、弁当の中身もほとんど手作りだった。

 そして、何を食べても美味しかった。得意なレシピなどほとんど思い出せないのだが、とにかく作ってくれたものはなんでも美味しかった。誕生日などの記念日は「何が食べたい?」と外食に誘ってくれるのだが、私はいつも母の手料理の方を好んでいたほどだった。

 そんな母は、とにかくよく本を買う女性だった。ファッション誌や趣味のアンティークドール関係、スピリチュアル系の本が多かったが、特に料理本はよく買っていた。

 だが、そうした料理本を読んでいる姿はほとんど見なかったし、いつも綺麗な状態で本棚にしまわれていく。私がパラパラ読んでも、そこに載っているレシピを作ってくれたことはほとんどなかった。いつも「こんなに買ってどうするのか」と呆れていたものだった。
 
 しかし、今では私も母の気持ちがわかる。あれは、料理に対するイメージを膨らませていたのだ。

 母はよく「レストランで食べた料理も、一口食べればどう作ればいいのか大体わかる」と言っていたが、あれは料理本による日ごろからのイメージトレーニングの賜物だったのではないかと思う。

 ナスを揚げて出汁に漬け込めばだいたいこんな味、それにお酢と刻んだネギを加えてさらに加熱すればこんな味。自分の好みにするなら、さらに砂糖と塩も入れればいいかな、など。料理本をめくっていると、そうしたイメージが頭の中に浮かんでくる。これをやるだけで、そのレシピ通りに作らなくても十分学びがあるのだ。

 料理本を買うことは、こうしたイメージトレーニングを無意識に行うことにもつながる。眺めているだけでイメージが膨らんできて、自分なりの料理の美的感覚が磨かれるのだ。そんな思いで、私は今日も積読になっているdancyuの背表紙を眺める。さて、今日はどんな料理を作ろうかな?

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