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祈る手に、花びらとアノマロカリス

金原ひとみさんのエッセイ『パリの砂漠、東京の蜃気楼』(2020年/ホーム社)に「フェス」という章がある。心身ともにぼろぼろの時期に偶然あるバンドに出会い、傾倒し、救われ、一時は出産やフランス移住で音楽のない生活を送っていたものの、帰国後12年ぶりにライブを観て再び音楽に生かされる。そんな体験が綴られた章だ。

わかる。わかりすぎるくらいわかるよ、その気持ち。

なぜか情緒がぐんと振り切れて、一文ずつ泣きながら読んだ。同い年の金原さんが20歳で芥川賞を受賞したときは、敬意と羨望と嫉妬でその存在を甚だ遠く感じたが、いまでは彼女のことを一方的にソウルメイトと呼ばせていただいている。

音楽の聴きかたは人それぞれ。音楽好きを名乗るのに定義や条件はない。その自由さが音楽の魅力でもあると重々わかっていながら、それでも、音楽や小説に救われたことのない人をすごく遠く感じることがある、というエッセイの一節にわたしは深く頷いてしまう。だれかの創作物に依存せずとも生きていける強靭な精神に憧れ、そうなれるよう努めたこともあったが、どうしてもできない。つくづく、音楽がないと生きることさえ危うい人種って、なんて不器用で脆くて愛おしいんだろう、と思う。

スキな3曲を熱く語る。
好きな曲は山ほどあって絞れそうもないので、自分の人生の節目になくてはならなかった曲を選んでみる。

「Anomarokaris」(2002年)
sleepy.ab

ライブという魔物に取り憑かれた瞬間のことをよく憶えている。

中学時代に地元札幌のアリーナでライブデビューしたわたしが、いわゆるライブハウスという場所に足を踏み入れるようになったのは高校生のころ。当時はバンドブームで、バンドを組んでいた友人が何人もいたので、友人のライブを観るために市内に点在する小さなライブハウスへよく行っていた。フライヤーで埋め尽くされた壁、むせるほどの煙草のにおい、バーカウンターのタトゥーだらけのお姉さん、機材でぎゅうぎゅうの狭いステージ。内心ドキドキしながらもその場に居合わせている自分が大人びて見えたし、世界一カッコいい職業だと思っていたバンドマン(ちなみにいまも思っている)に少し近づけたような高揚感が心地よかった。

その日は、別のインディーズバンドが目当てで友人と札幌BESSIE HALLに詰めていた。現サカナクションの山口一郎と岩寺基晴が組んでいたバンドも出演予定のイベントだった。名前も知らないsleepy.abスリーピー(当時はSleepy Head)が1バンド目と聞き、思いっきり気を抜いていたわたしは、彼らがステージに出てきて音を奏でたほんの数小節で異次元に連れ去られることになる。

And why should I believe myself
And why should I believe yourself
But you don't want to know
And you don't want to see
And now I think,
I'm proving my own ends

5億年前の古生物の名を冠した全英語詞の楽曲「Anomarokaris」は、深海の底に捨てられたオルゴールのようなギターから始まる。やがて深海に不思議なリズムがこだまし、ジェンダーニュートラルな歌声がアノマロカリスのように妖しく遊泳する。わたしはたぶん、この日はじめて、生の音が全身を支配する感覚に襲われた。夢と現実の境がどんどん曖昧になり、迫りくる神秘的な古生物に気づけば飲み込まれていた。

ライブ後、Vo./Gt.成山剛に友人と話しかけにいき、同い年くらいだと思っていた童顔の彼が7歳上だったことに驚いた。その日以来、幾度もsleepy.abのライブに通い、対バンしていたほかのインディーズバンドもたくさん好きになった。上京後はますますライブ欲が増し、なんなら30代のいまもライブ至上主義の精神はまったく変わっていない。コロナ禍でVR技術の進化が加速し、生の音が肌をつんざく感覚まで再現されたとしても、わたしはライブに行きつづけるだろう。

sleepy.abは2009〜2011年までメジャーで活動し、昨年7年ぶりの新作アルバムをリリースした。UKロック色の強かった当時よりやさしく幻想的な曲たちを携えて、コロナ状況に配慮しながらいまもステージに立ちつづけている。

「鼎の問」(2012年)
BRAHMAN

あの日、わたしは西新宿の高層ビルの33階にいた。勤めていた会社のオフィスで、金曜の昼下がり独特のわずかに浮き足立った空気のなか、いつもどおり自分のパソコンに向かって原稿を書いていた。

あの日の記憶は色褪せぬままわたしを苦しめたけれど、それでもわたしは家族も友人も家も仕事もなくしていない。14:46になると息苦しくて涙が出たけれど、そんなことでだれかが救われるわけではない。気持ちの処理のしかたがずっとわからなかった。

かなえとい」は、翌年BRAHMANがリリースしたシングル『露命』に収録されている。震災後いち早く行動を起こしたミュージシャンたちのなかでも、茨城出身のVo.TOSHI-LOWの行動力は群を抜いていた。支援物資輸送、現地でのライブ、幡ヶ谷再生大学復興再生部の活動をはじめ、多くの人に希望を与えたHi-STANDARD復活やAIR JAM 2011、東北ライブハウス大作戦の立役者でもある。震災以前のライブではほとんどやらなかったMCを通じて復興を祈り、魂を込めた日本語詞の楽曲を多く生み出すようになった、そのうちの1曲が「鼎の問」だ。

宮城で開催されるAIR JAM 2012に仲間たちと東京からハイエースで弾丸参戦すべく、友人の家に前乗りしていたわたしは、そこで『露命』初回限定盤DVDに収録された「鼎の問」のMVを観て衝撃を受ける。福島第一原発で命を賭けて働く作業員の方々の顔写真が、原発への本心や作業員としての意志を綴ったテロップとともに流れていくのだ。古事成語「鼎の軽重を問う」は、権力者の実力を疑い地位を奪うという意味をもつ。これほどまでに日本のいまを炙り出し、疑問を直球で投げかける彼らに畏れを抱いて、しばらくのあいだこの曲ばかり聴いていた。

街中の灯が落ちて
握る手に残された
参道に影はなく
祈る手に血の滲む

街中の灯が灯り
参道に人溢れ


目の前の何度目の
祈りを超えて何度でも

YouTubeでも公開されたMVはほどなくして削除されたが(なにごとかと思ったら肖像権の問題らしい)、ライブで「鼎の問」を演奏する際にはスクリーンにMVが映し出される。作業員の方々のまなざしと、静から動へと向かうステージ上の4人のエネルギーに触れ、一度は傷ついたまちが命を吹き返していく光景がありありと目に浮かぶ。涙をこらえることはできないが、そこには未来が見える。音楽をやめるつもりだったTOSHI-LOWが3.11を経て再び音楽に生き、己のメッセージを発信しつづける、その覚悟としなやかな強さにわたしは勇気づけられる。

「花びら」(2003年)
THE BACK HORN

5月、三重県の熊野古道をひとりで歩いていた。馬越峠という初心者向けルートとはいえ、近くのカフェでスーツケースを預かってもらい普段着のまま入山した自分の無計画さを、わずかに悔やみはじめていた。

新卒で入社して7年勤めた会社をやめた理由は、いまでもうまく説明できない。いろんな理由が複合的に絡み合ってはいたが、原因不明の目眩に襲われ、眠れなくなり、帰りの電車で無意識に涙があふれるようになってようやく、昼夜働き詰めでも楽しいと思えていた仕事がいつしか義務になっていた事実に気づいた。「仕事を心から楽しんでいる」という自身最大の存在価値を失ったわたしは、フリーランスになるという表向きの理由でなんとか己を保ち、実態は心身ともに限界を迎えていたのだと思う。

退職後、MacBookと着替えを携えて旅に出た。熊野古道を歩こうと思い立ったはいいが、ハイキング感覚で歩くにはいささか険しい山道。平日だからか人影もまったくない。徐々に息があがり、軽く滑らせた足のすぐ先が崖下であることに気づいたわたしは、ふと「もしここで滑落してこの世から消えても、だれも気がつかないままなのではないか」と空想した。物心ついて以来、どこにも属さない自分ははじめてだった。果たしていま、わたしは社会に存在しているのだろうか。

心が闇に引っ張られそうになり、あわてて歌を歌うことにした。高校時代から大好きなTHE BACK HORNならだいたいソラで歌える。〈さよなら もう会わない気がするよ〉(冬のミルク)は山奥だと孤独感が助長されそうで、〈脱落者 今日は 自分かもしれない〉(ゲーム)は状況に合いすぎてつらい。〈神様は救わない 壊れたおもちゃなど〉(風船)は、いま歌ったら心がどうにかなりそうだ。できるだけメジャーコードの明るい曲を探してぱっと思い浮かんだのが、アルバム『イキルサイノウ』に収録されている「花びら」だった。

花びらが落ちて季節が過ぎて
行く宛てもないまま旅に出たよ
(中略)
人生という名の長いレール
ゴールなんて何処にあるのだろう
立ち止まる事がとても恐くて
いつも走り続けてきたけれど
(中略)
ああ 僕等 遠回りしたって
時には立ち止まればいいさ
こんなにも世界を感じてる
新しい季節がすぐそこに来ていた

ハーモニカからはじまる軽やかなメロディ。歌ってみて驚いた。まるで、わたしのために書いてくれた曲じゃないか。遠回りしたって、立ち止まったっていいという当たり前のことを、わたしはそれまで知らなかった。小説を一日中読んだり、平日の美術館に行ったり、目的も決めずに気ままに旅をする時間が、いまの自分の人生には必要だったのだ。

間奏やアウトロまで完璧に口ずさんで、大きく深呼吸した。会社をやめると決めてからはじめて、自分の決断を心から肯定できた気がした。

「キズナソング」(2005年)
THE BACK HORN

「想いがあふれた結果、3曲以上になってもいい」というSpotify様のご厚意に甘えて、最後に1曲だけ。最後ながら最愛の曲という確信犯。

誰もがみんな幸せなら歌なんて生まれないさ
だから世界よもっと鮮やかな悲しみに染まれ
(中略)
苦しくたってつらくたって誰にも話せないなら
あなたのその心を歌にして僕が歌ってあげるよ
(中略)
だけど時が過ぎて悲しみは巡る
そして歌が生まれ 僕ら綺麗になってゆく

日射しの中で

Gt.菅波栄純が渋谷の路上に寝泊まりして書きあげたというこの曲は、わたしが知る限り、この世でもっともやさしい曲だ。苦しみをことばで表すことさえも苦しいとき、「助けてあげるよ」でも「話を聞いてあげるよ」でもない彼のやさしさにどれほど救われたことか。

だれかの苦しみや悲しみは歌になり、音になり、ほかのだれかの苦しみや悲しみを癒す。その音楽の連鎖がつづく限り、わたしは前を向いて生きていける。

(文・三橋温子)
(カバー撮影・髙田みづほ)

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