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【イタリア文学】パステルの肖像画

イタリアの女流小説家アマリア・グリエルミネッティamalia guglielminetti(1818−1941)が1919年に発表した短編集「無益な時間(Le ore inutili)」より、「パステルの肖像画 Il Ritratto A Pastello」を訳してみました。
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パステルの肖像画

 あいまいな言葉ではぐらかす若い男と、次第に苛立ちをおぼえ執拗に問いつめる女の口論はもう半時間にもなっていた。ようやく男がこう告げた。



 「きみの言うとおりだ。今日こそぼくは変わらないとね。今日こそ、そうとう真面目な話をきみにしなくちゃいけない。なのに、いまの今までそうする勇気がなかったんだ。きみならその勇気をくれるはずだね、若いのにしっかり者で、人生にも、話の通じないどんな敵にも、ひとりで立ち向えるきみなら。言い出す勇気をわけてくれよ、オッターヴィア。きみの哀れな男友達は怯えて、きみのことを怖がってるんだぜ? 情けをもって大目に見るって言ってくれよ」

 オッターヴィア・ディマウロは黄金色のソファの端にゆったりと座って、話を聞いていた。その黒髪はまるで陰鬱な蛇がからまりあうように背もたれの上にほどけ、あらわな肩と、腰は淡いスミレ色の絹地がぴったりと巻きつき、そこから真珠が刺繍されたオリエンタル風バブーシュをはく薔薇色の足がのぞいていた。オッターヴィアは黄金色のソファの反対の端に肩を並べて座っているディーノ・アルタヴィッラを見つめるように体の向きを変え、おもわず失笑した。あざ笑うとまではいかないまでも、もはや愉快な笑いとはとてもいえなかった。

 

 「哀れわが友よ! わたしが怖いですって? 知り合ってもう二年半になるけど、これが初めてよ。あなたがそんなに震えるほど繊細だって知ったのも、わたしがこんなに恐ろしい力を持ってるって気づいたのも。どれだけとんでもないことが起きるっていうのかしら?」

 「とんでもないこと?」ディーノ・アルタヴィッラは鼻で笑って言葉をかえした。「大げさにいうのはやめようじゃないか。ぼくが言わんとしたのはただ、ものすごく大切な話というだけだよ。とはいえ、なにも目新しい話じゃない、すくなくとも六ヶ月も前からそれはわかっていたんだ。しかも、わるい話じゃない。ただ印象がね。きみがそれで受けうるであろう第一印象を思うと。このシンプルな現実をきみに告白しようと心に決めるまでに、きみを前にしたらこうも躊躇せざるを得ないんだよ」

 オッターヴィアはディーノの話を最後まで聞いて、訝しむ視線をむけながらもそのシンプルな現実の告白をもう数分まってみることにした。しかし新事実のときがまだやってこないと見抜くや、肩をすくめて蔑むような表情をちらりとみせ、それから立ち上がると、広々とした黄色い部屋の床に敷き詰められた分厚いペルシャ絨毯のうえを歩きだした。

 黄色いブロケードの乱れたベッドカバー。そして黄色いヴェネツィアン・レースのかざり、黄色いふたつの高窓のシルクのカーテン。あかるく黄色がかった杉材の家具、ティーテーブルのわきに二つある低いひじかけ椅子。そして、するどく黄金色を跳ね返しているのは、ソファうえの壁を占める大きなオーバル型をした銅の額縁だった。凝ったつくりの額で、なかには優美なパステル画がおさめられている。オッターヴィア・ディマウロの肖像画だった。

 彼女は視線を上げ、もうひとりの自分自身のまえで立ち止まった。ぼんやりとくすんだ色のなかにあって、埃や経年の薄いヴェールがかかった古い鏡の奥をのぞきこんだような、あるいは黄昏どきの光によどむ水の奥深くを見ているかのような、それほどよく似ていた。

 暮れはじめの影が、窓ガラスから薄いカーテン越しにちょうど落ちるところだった。そしてオッターヴィアのアンダルシア人のような黒髪と白肌の美しさをことさら引き立てていた激しく燃えあがる色も、いまではずっと控えめとなって落ち着きをとりもどした調和のなかにやさしく溶けこんでいた。

 オッターヴィアの大きな黒い瞳が、薄明かりのなか、果てしない深淵のようにみえる肖像画の大きな黒い瞳をみつめていた。

 この果てしない深淵のまなざしこそ、突然のようにふたりの運命を、人生を混乱と激しさで満たしながらかれこれ二年以上もつづく愛へと引き合わせたものだった。描いたのは、今はもう亡くなっているが地味ながらも優れた画家で、そのまなざしをパステルの素早いタッチでとらえていた。

 その絵が展覧会に出品されていたとき、ディーノ・アルタヴィッラはすっかり釘付けになり、ながいこと見入って、いったいこの人は誰だろうと思いあぐね、あれこれ尋ねてもみた。絵の購入を決意したのは、それから数日後のことで、面差しにあの瞳がかがやく美しいひとがもしほんとうに存在するのであれば、知り合いになりたいとおもってのことだった。

 その美しいひとは存在していた。夫と別れて暮らすまだ若い貴婦人で、ちいさな田舎町のとある屋敷に住んでいた。魅力的な肖像画は、その町に夏の保養で滞在していた画家が、手慰みに、パステルで彼女を描いたものだった。

 肖像画家は見知らぬ愛好者に作品を販売する許可をもとめて女性に文書をおくり、彼女はこころよく承諾し、つづいてアルタヴィッラは手紙で感謝をしたためた。それで彼は礼儀正しくも手紙をかわす機会を得て、ほどなく二人は対面した。さらに数週間後、この新しい男友達は、肖像画をぜひ見に来て欲しいと乞うまでになった。そうして、額装はもちろんのこと美しい芸術作品にふさわしい、とりわけ彼曰く美しいひとにふさわしい環境におかれたという自身の肖像画を鑑賞するため、オッターヴィア・ディマウロはミステリアスで豪奢な彼のアパートメントに迎えられた。そこは郊外の庭つき屋敷のワンフロアで、ありとあらゆるものが趣味よく選び抜かれていた。

 それ以来、彼女は毎週そこへ通うようになり、ときには何日も、何夜も過ごした。生まれも卑しく下品な男だった夫と離れて、ひとり身であるからこそ叶うまぎれもない自由だっだ。

 「わたしと、この上にいる、もう一人のわたしは──」金色の額縁のなかにいるパステル画をさして、オッターヴィアが言った。「ここで、このなかで過ごしてきたのよ、存在そのものとしても、心のあり方としても。もう二年半になるわ。だけど、いまこの時になって気づいたのよ、ディーノ。あなたの唇とわたしの唇は幾度となく重ね合わされてきたというのに、わたしたちの魂って、どうしようもなく離れたままよね」

 「それはちがう、ちがうよ。なぜそんなこと言うんだ?」男はさも不服そうに言うと、彼女のウエストに手を回し、ためらう彼女を自分のほうへぐいと引き寄せた。「二年半以上も、ぼくのすべてを捧げてきたじゃないか?」

 「すべて? そうね、あなたの信用のなさと隠し事をのぞけば」オッターヴィアは身をこわばらせ、彼が触れてくるのを初めて拒みながら答えた。「もう何ヶ月も前から、あなたの人生にはすごく重要ななにかがあって、でもわたしが不機嫌になるのを恐れて、隠してきた。それをあなたは『ぼくのすべて捧げてきた』って言うの?」

 「オッターヴィア。頼むから、そんなにつんけんした物言いはやめてくれよ」男は、彼女の拒む手を貪るようにキスを浴びせ、へりくだるように頼み込んだ。



 オッターヴィアは笑いだした。冷ややかな言葉より愉快をよそおうのはなにより辛辣な気持ちからだった。そして戸棚の三面鏡のところへ行きながらも、伏せたまつげのしたの淀む瞳で、ソファの端ですっかり沈み込んでいる男の一挙手一投足を追っていた。男は両の手のひらで頭を押さえて額にしわを寄せながら、沈んだまなざしで床を見つめていた。そして、ふいに名案でも思いついたかのように飛び上がると、彼女のそばにやってきた。



 「聞いてくれ」

 オッターヴィアはティーテーブル脇の低い肘掛椅子に座ると、緑色のクリスタルグラスに挿してあった萎れたスミレの花束をわざとらしいまでにうっとりと嗅ぐった。そしてディーノがそばに来ても動かず、彼がぎこちなさいっぱいに優しい笑みを浮かべながら足元にひざまづいても、まだ動こうとはしなかった。

 「お願いだから、聞いておくれよ」

 「シンプルな現実とやらを話す気になったかしら?」

 オッターヴィアは萎れたスミレから顔をあげて嘲笑った。そして、夢から目覚めたかのようにまつ毛をぱちぱちとさせながら、長い息をついた。ひざまづき俯く若い男は、欲望と憤りがないまぜになったように動揺しつつも、そのまなざしにある艶のある困惑の色は、嘲笑うオッターヴィアの冷ややかさとあまりに対照的だった。

 「つまりね──」男はいつわりのシンプルさをもってとうとう告げた。「あと十日したら、妻をもらうんだよ」

 オッターヴィアはもういちどスミレの花に顔を伏せ、黙り込んだ。

 ようやくあげた顔は、奇妙なまでにパステルの肖像画とよく似ていた。頬や唇のくすんだ色、目のくぼみを満たす影、そして血の気の失せた口元には、さっきまでとおなじ微笑みが描かれていたものの、もはや一本の不快な皺となって歪みはじめていた。

 「ほんとうなの?」彼女は肩をちいさく震わせて言った。

 「ああ」ディーノ・アルタヴィッラは彼女の手首をとりながら、ささやくように答えた。「きみに言う勇気がなかったって話はこれなんだ。でも思ってたほどびっくりする話じゃなかっただろう?違うかい?」


 「そうなのね……」オッターヴィアはどちらつかずにつぶやき、彼に掴まれている自分の手首をみつめた。彼の指が、取り逃すまいとするかのように締めつけているのだ。



 「そうなんだよ」男はくり返した。「でもぼくたちのいままでも、これからも、なにも変わらないから。ぼくが結婚するのは従姉妹で、つまりよくある従姉妹を、よくある従順でおとなしい品行方正な、つまりぼくみたいな息子に押し付けようっていう、おせっかいな両親の意向なんだ。従姉妹は若くて、裕福だし、彼女の手をこばむほど、とりたてて不細工なところもないんだ」

 「それじゃあなたは、当然、断ったりしないわね」彼女は、いくども頭を振りながら、このゆるぎない真実の切っ先を、彼に、そして自分自身に突きつけるように締めくくった。

 「むろんそうだよ」男は認めて、ゆっくりと肩をすくめた。これほどの従順さと穏やかさをもってすれば、課せられたくびきもこのぐらいの軽さだと見積もっているかのようだった。



 「従姉妹との縁談を受け入れたら、永遠にわたしを失うことになるけど、それでもなのね?」

 考えあぐね黙り込んでいたオッターヴィアが投げかけた言葉は、ディーノにとっては思いもよらず、驚きをかくせないまま、こんどは彼が黙り込んだ。

 「きみの言うことは馬鹿げてる」男は女をみつめた。はたから見るよりもずっと取り乱していた。

 「馬鹿げてるかもね。でもなによりシンプルな感想だし、わたしのほんとうの気持ちを言ったまでよ」女はきっぱりと落ち着きはらって言い返した。「二年以上、あなたはわたしだけのものだった。そうね、少なくとも、わたしだけのもだって絶対的確信をもっていたわ。だから、あなたの従姉妹だろうが、両親が押し付けてきた妻だろうが、あなたをあからさまにほかの女と共有するなんて出来やしないし、したくもない。お願いだから・・・いいえ、これは命令よ、彼女かわたしか選んで。つまり、こちらか、あちらかをすっぱり諦めてちょうだい」


 棒立ちになって彼女の話を聞いていたディーノ・アルタヴィッラは、眉をしかめ、うんざりと苛立ちをあらわすように口元を歪めた。

 「この手の最後通牒を突きつける必要性って、ぼくはまったく感じないけどね」すこしばかり皮肉を込めて、男は軽口をたたくように言った。「こんなシンプルな状況をドラマチックに仕立てる必要もないだろう。寛容な妻と愛すべき愛人の両方をもつ男なんて、星の数ほどいるんだぜ。どっちかを諦めろなんて強いられることもない。現代社会においてこれはごくありふれた話じゃないか」

 「あらそう。現代社会におけるごくありふれた話だろうが、わたしには通用しないの。お断りだわ」オッターヴィアは激しさがほとばしる物言いで、すっくと立ち上がり、鏡のまえでいらだたしげに髪をととのえ始めた。

 男が灯りのスイッチをひねって、黄色い部屋は真昼の太陽の明るさで満たされたようになった。その灯りに照らされた女の情熱的な美しさは、まばゆく、眼を見張るほどに強調され、男がまた余計な言葉で永遠に彼女を失うと怯むにはじゅうぶんだった。

 「この話はもうおしまいにしよう、オッターヴィア。面白くもないこんな話はもうやめだ。ぼくはちょっと出かけるよ、そして明日また、もっと落ち着いて会うのがいい」彼女の首もとにささやき、くちづけようとしたが、それは叶わなかった。「とにかく明日だ。さようなら」

 オッターヴィアは振りかえりさえしなかった。歯にくわえたべっ甲のヘアピンを髪にさしつづけ、最後のピンを手に取ると、くちびるは苦々しい嘲笑いにひきつった。そして恋人のあいさつを消え入るこだまのようにくり返した。



 「さようなら」

 彼が黄色いダマスク織りのドアカーテンの向こうに消えるのを見てから、オッターヴィアは全身をばったりとソファに投げ出した。そして発作のように襲いかかる絶望のなか目をとじた。

 「さようなら さようなら さようなら」オッターヴィアは激しい苦しみに身をよじり、こわばる手を張り裂けそうな胸に押しつけながら、しゃくりあげては呻き声をもらした。「さようなら さようなら」

 それから飛び起きると、茫然とあたりを見回した。この愛のよき理解者であり、長いこと温かく見守ってくれていた家のなかの見慣れた物たちへ最後の別れをするかのようだった。

 パステルの肖像画も、オッターヴィアと悲しみのまなざしを交わしていた。そっくりな、まさにそのものとも言える果てしない深淵の瞳でオッターヴィアを見つめ、静かに苦しみながらこう言っているかのようだった───あなたがどこか遠くにいってしまっても、わたしはひとりこのまま。もう一人のあなた自身はここに残って、きっと、もうあなたのものではない愛をみるでしょう。あなたが知るのことない悦びや悲しみを目の当たりにするでしょう。ごまかしや裏切りに耐えながら。でも見ないわけにはいかない。果てしない深淵の瞳を閉じることはできないんだもの。見るしかない、知るしかないの。見るのも、知るのも、つまりあなたなのよ。

 それからオッターヴィア・ディマウロは黄金色のソファのうえにあがると、絵を壁につるしていた金色の紐をほどいて、ゆっくりと絵をおろした。そしてゆっくりと、床のペルシャ絨毯のうえにおいた。

 照明のするどい灯りのもと、絵を保護する透きとおった薄いガラスが輝いていた。オッターヴィアは、いまだ見つめかえすその瞳のうえに足を置くと、全体重をのせて力のかぎり踏み込んだ。軋みながらガラスが割れて、その割れ目は放射状に額縁まで広がっていった。そして女はひざまずくと、小刀のように長くするどい破片をひとつ取り出した。それからふたつめ、三つめと外した。くすんだ淡いパステルの色をじかに見ながら、踏みつけられ皺くちゃになった肖像画をすっかりむき出しにして、いまなおオッターヴィアを咎めるように見つめるその瞳も、透明な保護から解き放った。

 しかし、破壊活動はこれに止まらなかった。いまは亡き名画家の手跡がのこるオーバル型の画紙を額縁から外すと、オッターヴィアは絨毯のうえにひざまずいたまま、ひきつる指で絵を引き裂いた。まっぷたつに、四つに、さらにちいさな紙片にして、床にばらまいた。辛辣なよろこびと、顔にひろがる軽やかな狂気の笑み、そして胸とこめかみを打つ激しい鼓動があった。

 それから立ち上がるとソファへ倒れこむようにすわり、引き裂かれた心から涙がうねりとなって湧きあがるほど、この愛を、自分自身を激しく憐れみながら、破壊の痕を眺めた。

 しかし、顔を覆って涙でやけつくまぶたを押さえようと手をあげたそのとき、オッターヴィアは指がガラスのとがったかけらで傷つき血だらけになっていることに気づいた。絨毯の淡い模様に、ソファの黄色いブロケードに、スミレ色の絹のガウンに、彼女の血の鮮やかな朱の滴りが落ちていることに気がついたのだった。まるで彼女の苦しみを目に見える形にした、たくさんのちいさな痕跡のようにも、彼女の痛みをまざまざとしるす刻印にもみえた。

 そして、悲しみに沈みながらオッターヴィアは思った。血の滴りはここに残るのだと。