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【イタリア文学】美しきアルトゥーロ

イタリアの女流小説家アマリア・グリエルミネッティAmalia Guglielminetti(1818−1941)が1919年に発表した短編集「無益な時間(Le ore inutili)」より、「 美しきアルトゥーロ Il Bell'Arturo」を訳してみました。
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美しきアルトゥーロ

 工学士のアルトゥーロ・デルニがはじめてそれを耳にしたのは、ある満月の夜の海水浴場だった。「美しいアルトゥーロ」そう呼ばれていると知ったのだ。

 そのころアルトゥーロは、イギリス留学を終えて帰ってきたばかりだった。彼にとっては不毛かつ退屈な勉強ではあったが、会社を経営する野心家の父親が決めたことだけに(そのあと父親は急死してしまったが)、無駄なことだと思いながら数字や公式、難解な理論を機械のように頭に詰め込み、不承不承かじりついてきたのだ。

 そして今、アルトゥーロ・デルニは、知り合いがひとりもいないティレニア海沿いの小さな町で、母親を待っていた。その到着はもう八日も遅れていて、神経質で気ぜわしそうな手紙をなんどか送ってくるものの、アルトゥーロは見通しの立たない不安でいっぱいになっていた。しかし、その満月の夜に、決定的な手紙が届いた。そこには、心配事がありすぎて街から離れられないので、ずっと彼女のために押えてあったホテルの並びの部屋をキャンセルしてほしい、と書かれていた。続けて、長男のジョルジオがツーリング・リムジンを手にいれて、たくさんの友だちを引き連れ長距離ドライブをしていること、そして結びには、感情あらわな挨拶と、こまめに手紙を書いてほしいとあった。

 母からの手紙は、淡いヘリオトロープ色に深紫色の内貼りがほどこされた、エレガントな女性ならではのものだった。アルトゥーロは、それを腹立ちまぎれの指でくしゃくしゃにしながら、白いフランネルのシャツにサンダル履きといういでたちのまま、湿った細かい砂の浜辺をうろついていた。夕食にあわせて着替えることも、ホテルの食堂に降りていくこともしなかった。自分と憂鬱な気持ちのほかに誰とも顔を合わせたくなかったのだ。彼には、母親を街に引き止めている心配事というのが、よくよくわかっていた。ジョルジオは、彼女の人生における情熱と苦悩そのもので、彼の気まぐれからくる止まることをしらない奇行に、母親はもうずっとがんじがらめになっている。だから今だって、遊び好きの仲間に囲まれたままのジョルジオを、油断のならない街にひとり置いて行きたくはないのだ。母親の愛情をもってすれば、この病んだ放蕩息子を多少なりとも統治できると、いまだにそんな幻想を抱いているのだろう。

 それにひきかえアルトゥーロは、このとおりしっかりしていて、物静かで、思慮深く、母親についていてもらわなくてもよかった。この健康と、活気ある容貌、そして精神と肉体を鍛えてくれたイギリスでの教育をもって、ひとりで生きていける。だからこそ、アルトゥーロは海から満月がのぼるなか、海辺の細かい砂のうえをサンダルのまま、うろついているのだった。腹立ちまぎれの指先でヘリオトロープ色の手紙をくしゃくしゃにしながら。

 「美しいアルトゥーロは、今夜、夕食にあらわれなかったわね」オルタノ侯爵令嬢のすこしハスキーな声が言った。彼女は三十歳で、まなざしの炎で焼けたように褐色のまぶたをして、その美しい瞳にあらゆる欲望を秘めていた。

 オルタノ嬢はフサーリ姉妹の腕をとりながらホテルの庭のステップを降り、三人そろって銀色にゆらめく水面へと向かっていった。アルトゥーロがすんでのところで物陰に隠れたのは、夜にふさわしくない服装が恥ずかしかったのと、なによりも、こんな出で立ちでさえ、険のある思わせぶりな愛想でおべっかを使われるのが耐えられなかったのだ。

 「そういえば」フサーリ姉妹の姉が、気をひくように言った。「美しいアルトゥーロは、きょうの夜もあのモーヴ色の手紙を受け取っていたわね」

 「心の糧を得たから、晩御飯はいらなかったのよ」妹が落ちをつけると、三人は笑い声をあげた。

 「彼のとなりの部屋を、八日前からずっととっていたのはご存知?」

 「モーヴ色のご婦人のために?」
 
 「でも、来るのはやめたそうよ」

 「あらまあ!」

 彼女たちの声は波音に混ざり、アルトゥーロは身をひそめていた陰から出ると走るように部屋へ向かった。蚊をよせつけないように電気のスイッチはいれず、窓に寄りかかって煙草を吸いながら、楽しんでいいものか腹を立てるべきかわからないまま、いましがたの会話をふりかえった──美しいアルトゥーロ、となりの部屋、モーヴ色の方……どれもこれも滑稽で、くだらない道化芝居《ファルサ》の登場人物にさせられたようで、次第に笑いがこみ上げた。それから窓をしめると灯りをつけて、母親への返事の手紙にとりかかった。愛情をこめて残念におもう気持ちと長々としたため、文末にはモーヴ色の方うんぬんという笑い話を添えて……。

 翌日、となりの部屋はすでに熟年のリウマチをわずらう男性がはいっていた。アルトゥーロがロビーに降りると、そこにはオルタノ侯爵令嬢がいて、彼女は絵入りのポストカードを扇のように広げて、そのかなめにあたるところを親指のするどい爪で押さえながら、にこやかにアルトゥーロに話しかけた。

 「慈善活動ですの。ええと……」オルタノ嬢はさぐるように、そこで言葉をひきのばした。

 「デルニといいます。工学士のアルトゥーロ・デルニです」彼は会釈しながら言葉をつぐと、ポストカードには目もくれず、銀貨を数枚さしだした。

 「ありがとうございます」オルタノ嬢は言った。「幼稚園への支援なんですよ。どちらのカードになさいます?」

 「どういたしまして。そちらは結構です」

 彼女はすこし機嫌をそこねたように肩をすくめると、足早にロビーを出て行った。しかし敷居を超えるところで掲げていた腕が柱に当たり、扇がばらけるように、緑がかった哀れな月暦のカード十二枚を床にまき散らしてしまった。アルトゥーロがひざまずいてカードを拾い集め、また扇のかたちに戻そうとしているのをみながら、オルタノ嬢は頭をかかえたまま、戸惑っているのか楽しんでいるのか、笑いながら言い続けた。

 「ありがとう、ありがとうございます、ごめんなさいね……」

 こうしてアルトゥーロは、なんとも気がすすまないままに、八日前から彼の目の色や、口のかたち、胸のラインなどあれこれ噂をしては「美しいアルトゥーロ」とあだ名までつけていた暇人たちの輪に引きずり込まれてしまった。


 オルタノ侯爵令嬢は、夕暮れの光と陰ですっかり銀色にきらめく美しい海でボートに乗ることができたのは初めてだとアルトゥーロに語った。彼女の辛辣なウィットによれば、それは文明化における権利のためなのだという。

 「男にとって、それは侮辱的だな」褐色の頭をうしろに投げ出してボートを漕ぎながら、アルトゥーロは笑った。波打つ髪は、せまりくる夜のとばりに溶けて、もうはっきりとは見えなくなっている。

 「ぜんぜん違うわ。賞賛しているのよ」彼女は答えた。その大きな瞳で食い入るようにアルトゥーロを見つめていた。

 「ずいぶんと皮肉がきいた褒め言葉ですよ」若者はおだやかに話した。

 彼女はもうなにも答えなかった。ただ大きく見開いた瞳でアルトゥーロを見つめつづけ、そのうち顔色がどんどん悪くなっていった。そして急に身を屈めると、みじめなこみ上げる吐き気の苦しみをひた隠しながら小さな声で言った。

 「岸につれてって」

 岸にたどり着いたときには真っ青な顔と落ち込んだまぶたをしていたオルタノ嬢だったが、神経質な女性によくある極端な自意識がそうさせるのか、ボートを降りるときには気を奮いたたせ、ほほえみさえ見せていた。

 「船に酔ってしまった?」彼女の友人たちは、とまどいがちに微笑みを浮かべながら、彼女をとりかこむように声をかけた。

 「ちっとも、ぜんぜん平気よ!最高の気分!」

 しかし、彼女は自分の部屋にかけこむと崩れるようにベッドに伏せ、腹立たしく呻き声をあげながら、この間の抜けた船酔いを呪うしかなかった。二人だけの甘い企みという、センチメンタルな文明化における権利の行使を阻まれてしまったのだ。 

 そのころアルトゥーロは、砂浜に寝そべって、例のヘリオトロープ色の手紙のひとつを読んでいた。その手紙が彼に届けられた当時、ある熟年の女性が、となりの若い女性に耳打ちをしていた。それは彼女ならではの心理学的かつ審美的な深い洞察によって導かれた結論を一言に要約したものだった。

 「あれは危険な男ね」

 しかし、その若い女性も(ちょうど一年前に結婚していた)、ある夜「危険な男」にボートで連れ出してもらう機会を見いだしていた。

 アルトゥーロがその既婚女性に、ロンドンのことやイギリスの慣習、日光浴、凍えるようなシャワーなど話して聞かせ、そのあいだ彼女は船酔いこそしなかったが、やはりアルトゥーロをじっと見つめて、なにも答わずにいた。遠回りしながら小さな島をめぐり、そのあいだも彼女が黙りこくったまま彼に見入っていたのは、恐怖のためなのか予期せぬことを期待してなのか、待っているようにも、警戒しているようにもみえた。結局なにも起こらぬまま半時間ほどして陸に上がったが、そこにちょうど車でやってきた彼女の夫と出くわしてしまった。鎖でつながれた獣のように熱り立った夫は、オテロのような眼差しで美しきアルトゥーロを睨みつけ、それから妻を奪い返すと部屋に押しみ、荷造りをさせ、激しい言い争いのあと夜中のうちに彼女をつれて宿を出ていってしまった。

 「かわいそうな御婦人!なんてお気の毒なんだ」。その翌日、アルトゥーロ・デルニは、ドラマチックな夫の登場シーンと地下活動のごとき夜中の出立について事細かに聞かされ、彼女に同情してしまった。そして遠くをみつめて、まるで安息日の若き神といったその顔をしばし曇らせたあと、イギリスの雑誌を読むことに没頭した。

 秋になり、アルトゥーロはようやく母親のところに戻った。故郷から出ているあいだに積もりつもった郷愁が癒されてゆくにつれ、年頃なりの楽しみ方にしりごみしていた気持ちや、じぶんの穏健な気質を変えてみようと思いはじめていた。友だちも女友だちもいる、思い切っていつもとは違う冒険もスマートにできるのではないだろうか。危険な魅力のニックネームを気負わず受け入れることさえ、エレガントにできるのではないだろうか。

 しかし冬が来ると、母親はジョルジオを追ってコートダジュールに行ってしまい、アルトゥーロはだれもいない大きな家にひとり残されてしまった。ある朝、目が覚めて、ふと妻をもらおうと閃いたはきっとそのせいで、すっかり、すばらしいアイディアだと思えたのだ。

 一、二週間ほどそのことについて空想にふけり、とりとめのない想像に疲れはじめてきたある夜、オペラ座に出向いたアルトゥーロは、ボックス席にみえる男性が母方の遠い親戚だとわかった。彼には孤児院から引き取ったふたりの孫娘がいる。ためらいを払いのけ、その年老いた親族が孫娘のひとりを連れてきているのを確認すると、声をかけるべくあがっていった。可憐な少女だった。その孫娘のピンク色の歯茎とアーチ状の美しい歯の口元が、アルトゥーロを見とめて微笑むと、彼も持てるかぎりの手堅い肩書きで身を飾った。それはもはや、うるさ型の人間に見せるための盛装でしかなかったが、年老いた親族の厳しい目には、このスパンコールや羽根飾りのごとき華やかさが好ましく映っているとわかった。アルトゥーロはふたりをホテルまで送ってゆき、翌日の昼食に招かれることとなった。彼のことを孫娘も好ましく思っているように感じられたので、老人がしつこく聞いてくる聞き取り調査といえるものにも、愛想よく耐えることにした。アルトゥーロの年齢や教養からすれば、なぜこうも無為に人生を過ごしているのかその理由を知りたがっているのだ。

 翌朝、ホテルのあたりを歩いていると、あの可憐な娘がいるのに気がついた。流しの花売りの花かごから、真剣な顔つきで薔薇をえらんでいるところだった。アルトゥーロは、あふれる喜びと驚きをおさえきれずに娘のもとへ挨拶に駆け寄る自分を認めないわけにはいかなかった。おはようの言葉に彼女は十八歳の顔を赤く染め、あふれる朝の光がまぶしいかのように、ぱちぱちとまばたきをしている。若者は、薔薇をぜんぶ買い占めて彼女の両手に差し出し、こうしている貴女はまさに春そのものだと褒め讃えた。娘も、今朝はまさしく春のような気持ちだと答えたものの、この薔薇の咲きほこる時のようにわたしの幸せは短いのではないかしらと言うのだった。

 「フランカさん、人生においてずっと幸せがつづくかどうか、それは貴方次第にほかありませんよ」アルトゥーロは抑えた声でほのめかすように言った。彼女は言葉では答えなかったものの、きらめくまなざしは、燃えあがる思いと愛への期待をものがたっていた。

 二日後、アルトゥーロはふたりを駅まで送り、フランカの小さな右手を熱くにぎりしめ、その日の夜のうちに母親に宛てて、将来ありうる彼女との結婚について助言を求める手紙をしたためた。そして、受け取った返信に温かい賛同と励ましがあったのをうけて、彼はもう思いを巡らすのはやめにして、親族の老人に宛てて、孫娘であるフランカ嬢との結婚を正式に申し込む手紙を出した。返事を待つあいだ、のしかかる落ち着かない不安な気持ちは、頑丈で均整のとれた体をもつ彼にとって、まず縁のないものだったが、永遠とも思える日々のなか、アルトゥーロは家具のカタログをみたり、寄り道をしてウィンドウをながめて時間を潰した──闇夜にかがやく星座のようにガラスケースの漆黒のビロードに並ぶ宝石、隠れ家に潜む猛獣のように抜け目なくウィンドウの向こうに横たわる高価な毛皮、そして女性が結った髪を巻きつけたときにかぶる教皇冠のような大きいゆったりした帽子。アルトゥーロは、自分にふさわしい光に満ちた幸福が、いよいよやってくると感じていた。

 十日後、返事が届いた。アルトゥーロは石のように重苦しい心で手紙の封を切ると、書き出しの数行を読んでソファに崩れ落ちてしまった。礼儀正しくも冷ややかなその手紙には、返信の遅れを詫びつつ、慎重な情報調査員がこのデリケートな任務を引き受けるにあたり、冷静に落ち着いて判断する時間が必要だったためだと書かれていた。続けて、こうして得られた情報は、心苦しくも貴殿の好意や申し出に応えるにあたって好ましいものだとは到底言えず、フランカの保護者であり祖父としての道義的正当性においても義務においても、断らざるを得ないとあった。それから長々と忠告がつづき、こうした言葉で手紙はしめくくられていた────「もし貴殿が『美しきアルトゥーロ』と呼ばれ、そして女性にとって危険な男だと思われているとするならば、それは華やかな社会にいる華やかな若者にとって名誉ある肩書きと言えましょう。しかしそれが、わたくしが思うに、ひとりの妻を確実に幸せにするために役立つかといえば、かなり心許ないと言わざるを得ません。彼女が踏み出したいとおもっている一歩はじつに真剣なものであり、それにはより多くの経験を必要とするでしょうが、火遊びの機会はより少なくてかまわないのです」

 アルトゥーロ・デルニは手紙から視線をあげた。鏡のなかから、古いアート・ギャラリーにあればさぞ目を惹くような、苦悶にゆがむ美しい顔がこちらを見ていた。

 アルトゥーロはその顔を嫌悪した。