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[短編小説]選手の思いコーチの想い①(ユウジ編)


自分の中の最も古い記憶を掘り起こしても、ユウジは何かに飛びついていた。親父が出した腕だったり、兄貴が冗談半分で投げてきたスポンジのボールだったり、時にはただ絨毯の上に置いてある絵本にも飛びついていた。とにかく何かに飛びつくことが大好きで、着地のことなど考えていないことも数多く、アスファルトの上でスライディングして擦り剥くことなどしょっちゅうだった。

親の影響でテニスを始ても、とにかく届かないボールに飛びつくのが好きで、小学1年の頃から父親に取れないところにボールを打ってもらい、子供用の小さいラケットを目一杯伸ばすのが好きだった。そのボールを返せてなくても、例え触れなくても、ユウジにとってはどちらでも良かった。

両親のテニスについて行って毎週末のようにボールを打っていたら、いつの間にかテニススクールの選手コースに入っていた。ユウジ自身が強く望んで入会したわけではないが、年に2回、4月と9月にしかチャンスがない入会テストを親の勧めで受けてみたら、倍率8倍を勝ち抜いて受かってしまった。有名なコーチがヘッドコーチを務める、全国大会常連選手ばかりが通うスクールらしい。そこに小学低学年から通えば、かなりの確率で全国大会に出られるようだ。小3のユウジはまずまずの存在だった。

通い始めて3ヶ月、今日もユウジは怒られている。とにかく基本練習が嫌いなのだ。特にストロークが嫌いなのだが、このスクールでは時間をかけて「ミスをしないストローク」を練習させられる。コーチの球出しによる基本練習の時間が長く、ユウジには退屈な時間が続く。よく同じ練習チームになるシンタロウは、基本練習が大好きなようで、とにかく毎球毎球、声を出してコーチの教え通り打っている。ユウジは、それを見て、お前が一生懸命やり過ぎるから、俺がやってないように見えるんだよ。と一人ゴチる毎日だった。

練習は毎回3時間。その練習時間が残りわずかになると試合形式が始まる。ユウジにとって、やっと基本練習というテニスコートに繋がれた冷淡な足枷を取ることができる時間だ。とにかくネットに出る。ボレーなんてまだほとんど習ってないし、練習もしていない。でも届かないところにボールが飛んできて、それに飛び付けるだけで十分だった。頭で右か左かわかってから反応るのではなく、相手が打ってくるタイミングで小さくジャンプする。それは次に大きく飛ぶための反動をつけているような感じで、その小さなジャンプをするだけで右か左か頭でわかる前に、手が勝手に伸びていくような気がした。空中に自分がいて、踏ん張る地面もないのに腕だけでなくラケットも身体の一部になってストレッチされるような感覚で、自分の横をすり抜けていく黄色い球体を追いかけるのが楽しかった。その瞬間だけは、誰にも否定されない自分だけの時間のような気がした。

人数が多いので、2ポイント交代でシングルス形式。ユウジはどちらかというと、本番と同じカウントで行う試合の形式が好きだった。30-30など、重要な局面でネットに出て相手にプレッシャーをかけるのが好きだから。たとえパッシングを抜かれたとしても、そのボールに飛びついている瞬間があれば満足できたし、両足が宙に浮き、空中でバランスをとるように両腕を広げた状態で、自分の左右をかすめていくボールを見るのは、ある意味でポイントを取ることよりもテニスを楽しんでいる実感があった。

「今のはネットに出てはいけない、もっと浅いボールが来るのを待つんだ。」

今日の担当のヨシキコーチが、腕組みした左手にラケット持ち、その先っぽをブラブラさせながら話しかけてきた。今年、大学を卒業したらしいそのコーチは、オフコートでは冗談を言うくだけたキャラなのだが、テニスになると厳しく指導してくる。重箱の隅を突くような嫌な感じではないが、卒なく仕事をこなしている感じで重圧を感じていた。ヘッドコーチの元、一貫したシステムで指導して全国大会に選手を多く送り込むこのスクールでは、新人コーチは徹底的に研修を受けるようだ。自分が気づいことをそのまま安易に言葉にのせてアドバイスすることは禁じられているらしい。

「はい。」

返事は、必ず身体の左側でラケットを持ってするように言われている。年配のコーチになればなるほど、その時の姿勢にうるさいが、ヨシキコーチは、なんとなくの姿勢でも怒らない。ヘッドコーチの考え方に少し違和感を持ちながら働いているのではないだろうか?ユウジは子供とはいえ、はその辺は本当によく見抜いていた。ユウジはこのスクールのコーチの中で、なんとなくこのヨシキコーチだけには好感を持っていた。

「基本練習のドリル7番でやっただろう。ボレーには、必ずベースラインの中に入ってしっかり打ってから行くんだ。そしてそのためには、浅いボールを相手に打たせるためのドリル2番でやった粘り強いストロークが必要になる。」

「はい。」

入って3ヶ月、全部で10個しかないドリルの内容は嫌というほど身体で覚えたし、叩き込まれた。でも試合形式は、その足枷を外して好きにプレイしてもいい時ではないのか?とりあえずルールだから返事はしているが、正直なところ、アタックゾーンで打ってネットを取ろうとしたら、短いポイント練習の時間内に1回ネットに行ければ良い方。楽しくもなんともない。入会当初は、好きなようにやっててもあまり注意されなかったが、ここ最近はネットの出方について色々と突っ込まれるようになった。その次の2、3ポイントは我慢するが、コーチの目が別の選手のプレイに移った頃、ユウジはまたネットラッシュをかけた。

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たった15分しかないポイント練習が終わり、全員で集合する。小学1年生から高校生まで総勢70人ほどいる大きなスクールだが練習終わりは必ず、前列から年齢順に並びヘッドコーチの声が届くように整列する。いつも不機嫌そうなのはなぜだろう?ユウジは最前列で直立不動のまま、今日最後に決めたドロップボレーを思い出して悦に入っていた。かなり強引にネットについたが、パッシングを打つシンタロウは、生真面目に一生懸命打ってくるのでコースが読める。コーチに教えてもらった通りにラケットヘッドを落とした瞬間、ショートクロスだとわかったので、打つ前に動いてやった。

「テニスは基本が全てだ。このスクールの10個の基本ドリルには、それを余すことなく詰め込んでいる。ここ20年の間で基本も少しずつ変わり、それによってドリルの内容もブラッシュアップされている。とにかく信じて日々行うように。これまでたくさんの先輩達がこのドリルで全国大会に行った。プロになった者もいる。まぐれのドロップボレーで勝てるほど勝負は甘くない。」

そういうと、ユウジの方に視線を落とした。顔は前を向いたまま、その両方の黒目だけをストンと左下に落とした。あえてわかりにくく行うことで、そこにいる全員にそれを気づかせるような、そんな動きだった。

「あれ、俺の最後のミラクルドロップボレーのこと言ってたのかな?」

自分自身が入れそうなほど大きなラケットバッグを背負ったユウジは、同じようになんとかバランスをとって歩いているシンタロウに話しかけた。

「あんなでたらめな動きするからだよ。」

「ちょっとくらいいいじゃん。」

ユウジは、飛びついてボールをコントロールする動きをしながら続けた。

「打つ瞬間もボールを見てるのか、見てないのか、その感じが楽しいんだよね。」

「ボールは当たる瞬間まで見ろって言われてるだろ。でもあのボレーは上手かった。さすがユウジって感じだったよ。」

そう言うと、シンタロウは次は俺が勝つからと笑顔で手を振って迎えに来た母親の車に乗り込んだ。
ユウジは家が近いので自転車で通っている。練習が終わる21時は遅いので、いつもお母さんが自転車で迎えに来てくれて一緒に帰る。待ち合わせ場所に行くと、お母さんが誰かと話をしているのが見えた。いつも目にする井戸端会議的な楽しそうな雰囲気はなく、何やら怒られているかのような雰囲気だった。ユウジが来たのがわかると話し相手は、軽く会釈をして去って行った。ヘドコーチだった。

「何話してたの?」

6月の湿度が高い重く動かない空気を自転車でかき分けると、練習後のベタついた身体になんとも言えない不快感がつきまとった。

「お母さん、テニスのことはよくわからないんだけど、ユウジがコーチの言う通りに練習しないって。不真面目にやっている訳ではないって言ってたけどね。」

じっとりした空気を唇でもかき分けているからか、いつもは軽口で返事をするユウジも思わず黙ってしまっっていた。頭の中をいろんな思いが駆け巡り、やがて整理されて同じ言葉がグルグルと回った。」

「大人って自分の頭で考えろとか、自分を強く持てって言う割に、実際そうすると逆のこと言ってくるよね。」

母親は、兄と違って自己主張が強く、思った瞬間行動するところはユウジの良さであり、そのまま成長して欲しいと思っていた。生きていけばそれが認められない状況も当然あるし、その時はしっかり悩んで答えを出せばいいと思っていたが、こんなに早く「その時」が訪れるとは思ってもみなかった。

「今夜はユウくんの大好きな唐揚げよ、お風呂入ってしっかり食べて寝て、また明日頑張りなさい。」

ユウジは重たい空気に支配されたペダルが、スッと軽くなった気がした。

(続く)

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