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小説:冷徹メガネと天職探しの旅 第6話

第6話 PIPプログラム
 谷口さんがいつもより体を丸くして席に座っていた。目は少し虚ろでパソコンに置かれた手は動いていない。
「谷口さん、大丈夫ですか」
「荒田さん…」
谷口さんは泣きそうな顔をしている。いったい何があったんだろう。
「荒田、今時間あるか?」
後ろを振り向くと藤原マネージャーが立っていた。こちらの席に来て話しかけてくることは滅多に無いので少し驚いた。
「大丈夫です」
藤原マネージャーは仏教面でうなずくと
「ちょっとルームSで待っていて欲しい」
ルームSは商談などで使用する4人用の小部屋だ。商談以外で使う場合は他の人に聞かれたくない話をする場所だ。ルームSで話すということは何か他の人に聞かれてはならないことを話すのだろう。1on1ミーティングなどもやらないので藤原マネージャーとルームSで話したことはほとんど無い。例の組織編成の話だろうか。もしかしたら藤原マネージャーと離れられるかもしれないと少しワクワクしながら僕はルームSへ向かった。
ルームSにはすでに明かりがついていた。
「失礼します」
ドアを開けるとそこには人事の多田さんが座っていた。予想外だった。てっきり藤原マネージャーと2人で話すと思っていたからだ。
「荒田さん、忙しい中お時間を頂きありがとうございます」
多田さんは笑顔で僕を招きいれた。多田さんと話すことはあまり無いので少し緊張した。
「藤原マネージャーはもう少しで来ると思います」
人事の多田さんはアメリカの大学院で人事関連の学位を取った人で最近ヘッドハンティングでうちの会社に入社をしたと噂で聞いている。薄茶色のジャケットをビシッと着ており、仕事ができる女性の雰囲気を醸し出している。
ドアがノックされた。
「どうぞ」
「失礼」
藤原マネジャーが脇腹に書類を抱え部屋に入ってきた。
「えー今日は人事の多田さんと、荒田君に説明することがある」
藤原マネジャーが脇に抱えていた書類を多田さんに渡す。
多田さんは書類を机に広げた。書類にはエクセルで作成された計画票が印刷されていた。内容は目標値と行動、振り返りだ。目標値にはすでに数字が記載がされており、行動と振り返りは空白だった。
「今回荒田さんにはPIPプログラムに参加して頂ければと思っています」
「PIPプログラム?」
藤原マネージャーは腕を組んで何も言わない。
多田さんの流暢な英語で
「Performance Improvement Program、つまり業務改善計画のことです」
と笑顔で僕に説明をした。
「具体的な目標を設定して、1週間ごとに目標を達成できているか否かの確認を行います。今回は3ヶ月間のプログラムになります」
多田さんは慣れた口調で説明をしていく。
僕は手元に置かれた資料に目を通した。そこに書かれていた売上は現在よりも120%を超える目標値だった。
「この目標かなり高くないですか」
「Noprogram!一緒に指導をしながらプログラムは進めていくので安心して下さい」
いくら指導をしながらやっていくといってもかなり難しい数字に思えた。
「もしこのプログラムの数字を達成できない場合はどうなりますか」
「Umm残念ながら自主退職となります」
「えっ?」
僕は一瞬言葉の意味を理解することができなかった。自主退職、それはクビということだ。目標達成できなくても賞与が引かれるぐらいかと思っていたのでショックが大きかった。
「自主退職…」
自分でも血の気が引いてくるのを感じた。指が自然と震えていた。
「あくまでも目標達成できなかったらですので」
多田さんは落ち着いた口調だ。口元には薄く笑みが浮かんでいる。壁にかけられた時計の秒針が嫌な音をたてて進んでいく。喉がカラカラだ。
「この目標値を3ヶ月で達成するのはかなり難しいと思うのですが」
僕はやっとのことで言葉を絞り出した。
「いつも言っているだろ。顧客数と単価を最大にできる方法を取れと。それができればこの目標も達成できるだろう」
藤原マネージャーは口元に薄く笑みを浮かべていた。いくら顧客数と単価を最大にしてもこの目標数値への達成はギリギリだ。
「OK、もしこのプログラムの参加に不安がある場合は違う道もあります」
「違う道?」
「YES!今自主退職をして3か月分の給与を受け取るという選択です」
「今すぐに?」
僕は頭がより混乱した。まさか今日仕事が無くなるとは思わなかったからだ。どちらの道を取っても辞めることを避けるのは難しいみたいだ。黒い沈殿物が心に溜まっていく。
「それではPIPプログラムの内容をもう一度しっかり読んで、理解ができたら一番下にsignをしてください」
多田さんはPIPプログラムが書かれた紙を僕に渡した。混乱をしていて上手く文章を読むことが出来ない。今すぐに仕事を無くして無職になるわけにはいかないという気持ちが強く、僕は震える手でPIPプログラムにサインをした。
「Thank you。これから一緒に頑張っていきましょう」
多田さんは満足そうにPIPプログラムの紙を回収して鞄にしまった。藤原マネージャーも笑顔だ。
「話は終わりだ。戻ってもらって大丈夫」
藤原マネジャーと多田さんは席を立ち手で僕をドアへ誘導した。僕は踏ん張らないと足に力が入らない状態だった。
「しっかりこの目標値をみてどうすれば達成できるか来週の月曜日までに考えてくるように」
藤原マネージャーが僕に到底できそうにない目標の書かれた紙を僕に手渡した。僕はその紙を両手で握りしめた。
「PIPprogramは1週間に1度このように面談をします。私も同席をするので安心してくださいね」
多田さんは笑顔で優しく僕に語り掛けた。
「はい」
僕はルームSの扉をゆっくりと開けて出ていった。部屋を出た後に悔しさと悲しさと恥ずかしさと絶望で頭がいっぱいになった。ルームSから二人の談笑している声が聞こえてくる。僕はその声を背にルームSを後にした。
席までどう戻ったかわからない。時計は19時を回っており半分以上の社員が帰っていた。谷口さんもいなかった。パソコンのタイピング音だけが響いている。いつの間にか窓の外は日が落ちて暗くなっており、東京駅のネオンがいつもよりやけに綺麗に光っていた。


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