獅子舞のお金にまつわる話
資本主義の原理では、お金が儲かるか否か?という意味で投資が行われ、ビジネスが成長していく。必要性と緊急性が高いものほど短期的にお金は儲かりやすいし、価値が見えやすい。それは人間の衣食住など生活に最も密接なことかもしれない。個人の欲求はとても見えやすいけれども、公の欲求は時として見えづらい。環境問題に配慮しようと言っても、地球の反対側にある島の海面上昇のことや気温が1度上がるくらいの変化に、自らが貢献できている実感は薄い。そのため、なかなか自分ごと化されないのだ。それでは、獅子舞を始めとしたお祭り文化はどうであろうか?環境問題に比べれば、お祭りのためにお金を出すことは見えやすい公に対する貢献のようではあるけれど、ビジネスと比較すると時として曖昧さを残すものであると思う。
獅子舞により収入を得る
獅子舞がある町において、担い手不足にも関わらず「獅子舞は町の収入になるからこのまま継続させたい」という声を聞くことがある。確かに地域の家を回る門付け型の獅子舞が100軒の家を回った場合、ご祝儀の収入が平均5000円だったとしたら50万円の収入になり、これは町内会の収入としては他のどの出し物よりもお金が集まりやすいという側面がある。この集まったお金は祭りの運営者側が飲み会をしたり、獅子頭の修繕に使ったりと役立てられる。
獅子舞が可視化する格差
ご祝儀の額はその町の経済状況に依るところが多い。例えば江戸時代に北前線の貿易で儲けた港町では、トップの富豪たちが少しお金を出すだけで祭り道具が揃うばかりか、大きな山車が登場したり、豪華な神輿が出たりと華やかな祭りになる。それだけ祭りを華やかにできるのだからご祝儀も羽振りが良く、例えば富山県新湊などではご祝儀が10万円出ることも珍しくない。やはり港町の経済の潤いは時に桁違いであると感じる。一方で、貧しくて修理をロクにしないボロボロの獅子を乞食獅子と呼ぶこともあるし、ご祝儀を500円しか出さない場合に青タンなどと呼ぶ場合もある。このように獅子舞の経済的な格差が存在しているのが現状だ。
見栄の張り合いが獅子舞の価値を高める
ただし、一概に経済状況の良し悪しによって、ご祝儀の額が決まるというわけでもない。獅子舞に対する熱量や近隣地域の影響を受けて、自然とご祝儀が高くなっていく場合もある。また、農村部の町の区役につくと見栄の張り合いで徐々にご祝儀を高くしていくケースが見られる。ご祝儀の一般の価格が5000円の地域は区役が1万円払うという場合が圧倒的に多いが、たまに3万円を出すという区役(とりわけ区長さん)に出会うことがある。これは区長になったのだからたくさんご祝儀を払わねばならないという意識がある一方で、家柄やお金がないと区役になることができなかったという背景も関係しているだろう。少なくとも一昔前には、区役になることが名誉を授かるという意識すら持っている町もあったのだ。
獅子頭寄贈は地域に入るきっかけ
このように地域の人間関係の中で優位に立ちたいという意識が、お祭り文化への課金に繋がっている側面はある。例えば、石川県加賀市某町では昔、引っ越してきた移住者が100万円以上する獅子頭を購入し町に寄贈したことをきっかけに、その獅子頭を祭り本番に使うようになったという話を聞いた。獅子頭を購入することが粗品を持って挨拶回りするかのように、地域に入っていくきっかけづくりになっているという側面もあったわけだ。
獅子舞を介して交流は生まれる
このように、獅子舞は地域の人間関係の中で、金銭的なやりとりと経済的な活性化を促すものであった。これは獅子舞に何らかの形で関わることで、知らず知らずのうちに自然と助け合いや交流が生まれるという点で不思議な装置とも言える。一方で、獅子舞の経済的価値は地域の中で決まる。それゆえ、他の地域と比較することはナンセンスだし、一概に獅子舞の価値を数値化することは難しい。経済的に裕福な家が多いからといって、獅子舞の価値が相対的に高まるものでもない。獅子舞は時に人間の欲望やプライド、熱量すらも可視化する。獅子舞の経済的価値を高めるものは何か?という視点で見てみると、地域の人が何に対してしゃかりきになり、まちづくりをしているのかが見えてくる。
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