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日露戦争で新たに獲得した新領土樺太の総鎮守であった樺太神社とはどういう神社であったのか


北海道の北に位置し、間宮海峡を挟んでロシアに接するサハリン島はロシア・清・日本との間で帰属が揺れ続けた領域であった。国境が画定する以前にも、日本の漁民が神社を多数建てていたことが確認されている。明治38(1905)年、日露戦争の作戦の一環でサハリン島を占領した。同年9月に結ばれたポーツマス条約によって北緯50度以南のサハリン島南部が日本領樺太となった。樺太領有時、島都は未定であったが、明治39(1906)年ウラジミロフカに決まり、2年後同地を豊原へと改称した。

樺太神社 建立  朝日 m42・8・23

大阪朝日新聞 明治42年8月23日


 日露戦争後すぐに間宮林蔵を祭神にした神社創建の意見をみることができる。明治39(1906)初代樺太民政署民政長官の熊谷喜一郎が上京し、神社創立の稟議を提出した。明治42(1909)年に市街東方の山の中腹に神社創建が決まり、樺太守備隊や町民が神社敷地の地均し工事に従事した。造営は翌年5月に始まり、明治44(1911)年8月22日に鎮座祭、樺太庁始政記念日の23日に奉告祭を行った。同年8月14日の読売新聞では、樺太神社の祭神が上野駅から出発する様を大きく報じており、この時点では外地での神社創建が報じるべき価値が出来事であったことがわかる。余談になるが、時代が下がるにつれ、植民地での神社創建が内地の新聞で報じられることは、ほとんどなくなってゆく。祭神には札幌神社に倣って開拓三神が祀られ、社殿には樺太産の木材や石材が使われていた。神社前には外苑的な存在として、公園や競馬場が作られた。初代宮司には阿蘇惟教が選ばれたが、その理由としては、彼が仏語を話し、ロシア人と交流できる唯一の宮司であるということであったが、戦後、樺太のロシア人のほとんどは強制退去になっており、語学力を生かす機会はほぼなかったかと思われる。この時代、西欧諸国から目をどれほど気にしていたのかということを、うかがうことができるエピソードである。鎮座祭直前、神社が鎮座する山は、市街から見ると朝日が昇る山であるという理由から、旭ヶ丘と呼ぶようになった。そして、境内からは豊原市街を一望することができた。この時、豊原の市街地は、旭ヶ丘の麓までは広がっておらず、駅前に造られつつある市街地と神社に間には、広大な原野が横たわっていた。


樺太神社 火事 樺太日日 S4・6・4

樺太日日新聞 昭和4年6月4日


 領有当初、樺太は原生林に覆われていた。この原生林を見境なく伐採することで、本邦のパルプ工業が勃興したのである。樺太神社が建った旭ヶ丘も鬱蒼とした原生林が広がり、神社の裏山には熊が出るから行かないようにと注意されるほどであった。しかし、過剰伐採や虫害、山火事などにより樺太の森林は急速に減っていき、旭ヶ丘も禿山になった。大正元(1911)年には神社参道両側に落葉松を植樹、大正14(1925)年皇太子(昭和天皇)が樺太に行啓した際には、神社に参拝し、エゾ松を記念植樹している。昭和4(1929)年にも神社裏山で山火事が発生し、神社への延焼を防ぐために樺太庁全職員が消火活動に動員されている。紀元二千六百年事業として、樺太の全神社に神社林を作ることが目標になるほど、森林の枯渇は深刻であった。

樺太神社 神籬 樺太日日 s13.10.25

樺太日日新聞 昭和13年10月25日

樺太神社 上津宮 樺太庁報 063


 昭和13(1938)年に紀元二千六百年記念の社殿造営と外苑造営が発表されると、内務省より角南隆が設計の為に派遣された。彼は、視察時に旭ヶ丘山頂付近の磐座を樺太神社の神籬とすることを助言し、樺太神社の奥の院として上津宮が整備された。

樺太神社 外苑 樺太日日 s14.5.31

翌年7月8日には外苑の地鎮祭が行なわれた。神社外苑には、樺太特有の動植物を集めた動植物園や、総合競技場をも作る計画で、樺太中から地均しの勤労奉仕の動員が行われた。新社殿は滋賀県に紀元二千六百年記念として造営された近江神宮にならったもので、角南隆が設計を担当し、昭和15(1940)年から建造を始め、昭和21年度に鎮座予定としていた。昭和17(1942)年5月10日に新社殿地鎮祭を行った。昭和18(1943)年、樺太神社造営資材の鉄道運賃割引の鉄道省告示が出ていることから、この時点では造営が続いていたことがわかる。最終的に神社及び外苑の造営がどこまで進んだのかは不明であるが、完成しなかったようである。昭和18(1943)年4月、樺太は内地に編入された。


1945年8月9日、ソ連は対日宣戦布告を行い、樺太でも戦闘が始まった。各都市への空襲、艦砲射撃が行われ、15日以降も戦闘は続いた。樺太神社では8月16日に終戦奉告祭を行い、17日樺太庁は重要書類の焼却や御神体奉遷の指示を出した。県社は樺太神社に、無格社は豊原神社に移すようにという指示で、恵須取神社や敷香神社の御神体が樺太神社に移された。18日に北海道長官より、樺太の神社を札幌神社に受け入れるという申し出があり祭神を奉遷することにしたが、戦争の激化によって北海道への避難船が22日に停止し、奉遷はかなわなかった。22日豊原に大規模な空襲があり、同日に停戦、23日ソ連軍が豊原に進駐した。25日に大泊を占領することで、樺太の戦争は終結した。9月3日、樺太庁長官の命令で御神体を焼却した。


ソ連軍政下、天皇に関する一部行事以外は、宗教の自由が許されており、樺太神社では祭祀を継続することにした。例祭にはソ連軍高官が出席することもあった。宗教者は特別扱いとなり、労役を免除された上で、特別配給も実施された。しかしながら、ソ連兵による略奪も多くあった。1946年豊原はユジノ・サハリンスクと改名され、樺太はソ連領サハリン島になった。同年元旦までは神社への参拝者がいたのだが、それ以降訪れる者がほとんどいなくなり、樺太神社は6月には活動を停止することになった。引揚げ後、樺太神社社殿を博物館に転用する話があったようだが、これは実現しなかった。邦人の引揚は1946年12月に始まり、49年7月までに29万2590人が引揚げた。帰国後、元樺太住民は、敗戦直後の約束通り、樺太神社を北海道神宮に祀るよう運動したが、かなえられず、昭和48(1973)年8月23日に北海道神宮境内社の開拓神社境内に樺太開拓記念碑が作られた。


樺太神社跡012


樺太神社跡008


神社跡地には遺構が多く残り、当時の様子をうかがうことができる。本殿へと続く参道の両側には大正時代に植えた並木が残り、参道脇にあった灯籠の基壇、本殿前の階段、山の斜面を削った本殿敷地は当時のままである。本殿があった場所は空き地となっており、奥に湧き水を汲むための小さな小屋がある。本殿敷地の左上方にはコンクリート製の神器庫が残っている。私が行った後、日本人観光客の誘致をめざして、跡地の整備が行われ、本殿跡地を取り囲むようにフェンスが設置され、落書きだらけの神器庫はきれいに塗装され、説明プレートが設置された。灯籠なども置きなおされているようである。

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