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南興神社、または写真に写っているものの意味

サイパン島の下の方、チャランカのマウントカーメル教会の墓地に南興神社の遺構が残っている。観光ガイドに載るくらい有名な神社遺構である。行ったことがある人も、そこそこいるかと思う。


サイパン製糖 南興神社 南洋写真集002

南洋群島の占領後すぐに、製糖産業を目当てに西村拓植と南洋殖産が設立され、サイパン島南部を西村拓植が、北部を南洋殖産が開墾した。事業は順調に始まったが、第一次大戦後に砂糖価格が暴落し、行き詰まった。台湾の新高製糖常務であった松江春次は、朝鮮の国策開発会社東洋拓殖の出資を受け、2社を引き継ぐ形で南洋興発を設立した。そして、大正12(1923)年にサイパン製糖工場、大正15(1926)年にはサイパン酒精工場を完成させた。


サイパン島南部のチャランカ町は、南洋興発の製糖工場・酒精工場・桟橋などが集まる南興の企業城下町であった。南興は「北の満鉄、南の南興」と呼ばれる程に成長し、南洋群島は日本政府からの補助金を必要としない植民地となった。南興の製糖工場に隣接して、南興神社が昭和12(1937)年11月29日に創立された。祭神は、天照大神・大国主命・経津主神・罔像女神の4柱。立地場所からすると、製糖工場の構内神社であり、チャランカ町の鎮守でもあったと思われる。

下の地図は、私が見つけることができた唯一のチャランカの詳細な地図である。戦後、元住民たちによって描かれた。真ん中に南興の製糖工場があり、その右側に南興神社とある。


サイパン 南興 神社082


下の写真は戦時中に米軍が撮影したチャランカの様子である。ハワイ大学のアーカイブに、米軍が戦前から戦後にかけて撮影した南洋群島の膨大な量の空撮写真がデジタル化されており、その中の一枚。写真のあちこちに分析の書き込みがあり、侵攻前に撮った偵察写真であったのであろう。こうした鮮明な写真を撮ることができるほど、米軍機は自由に空を飛べた訳である。

saipan チャランカ 1944

さて、上の写真の市街地を拡大したのが下の写真。地図とピタリと一致する。拡大写真の中ほどにある大きな工場が南興の製糖工場であり、工場に向かって砂糖黍を運び込む鉄道のレールが伸びている。レールの奥には、同じサイズの住宅が並んでいるのが判る。肝心の南興神社は赤点を撃った場所にあった。工場と隣接した森がそれである。森の中の白い点が見えるが、これは社殿の屋根かもしれない。太平洋の島に造る神社であれ、神社には森を作るべきであるという当時の「常識」がいかに強固なものであったのかがよくわかる写真である。南興は精神綱領を定めており、その中に「皇室を敬い国体を重んずべし」「純忠至誠の大和魂を以て南洋産業の興隆に努むべし」という条文もあったので、そうしたことも神社造営に影響を与えたと思われる。

saipan チャランカ 1944 1_LI

さて、ここで記事の初めに載せた写真に戻る。普通に見ていると、ああこういう工場があったんだな、という程度の写真である。写真に写り込んだ木々のことなど、誰も関心を抱かない。ところが、上に載せた地図・空撮写真を見た後、この写真を見直すと、右の木々は南興神社の境内林であったことがわかる。この写真は何度も見てきたのだけれども、まさか自分が必死になって探している神社が写っておりとは想像したこともなかった。見てはいるけど、判らなかった。まぁ、海外神社に興味がある人以外、だから何だ、という話ではあるのだけれど。


サイパン製糖 南興神社 南洋写真集002


昭和19(1944)年4月より南興は全社的に軍に徴発され、戦争準備に動員されるようなった。6月15日米軍がチャランカ町あたりからサイパン島に上陸、激しい戦闘が全島で繰り広げられた。海軍は同月19、20日のマリアナ沖海戦で大敗北を喫し。24日に大本営はサイパン放棄を決定。7月7日に日本軍は無謀な突撃を行った上に、司令官らは自殺、米軍は10日に占領を宣言した。サイパンの民間人2万数千人の半数以上が戦闘に巻き込まれ、また逃亡の末に集団自決をするなどして死亡した。

下は米軍が戦闘中に撮った一枚。南興神社の戦前の様子を伝える、多分、唯一の写真。社額を拡大すると、戦闘で破損しているものの、南興神社と読むことができる。

d 南興神社 ネット


1949年12月南興神社跡地にカトリックのマウントカーメル教会が建てられた。神社跡地は教会墓地になっているが、遺構は多く残っている。旧参道には白く塗られた鳥居が立ち「奉進 昭和十二年丁丑長月吉日 松江春次」とある。参道沿いに何個かの石灯籠が残っており、中には上にマリア像がのった灯籠もある。写真は崩れた灯籠の一つである。参道奥には神社基壇があり、以前は基壇上に十字架が立っていたが、今はない。基壇前にはキリスト像が横たわっている。

下は『外地に残る日本の戦歴〈南方編〉』毎日新聞社(1970)掲載の一枚。サイパン神社とあるが、南興神社の誤り。

南興神社018


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