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「朝鮮の奈良」にあった慶州神社のこと


慶州は新羅の王都があった古都で、植民地時代には「朝鮮の奈良」とも言われていた。慶州には新羅の遺跡が多くあり、総督府の古蹟調査事業などで発掘が進められ、多くの遺跡や遺物 が発掘された。住民が古墳の土盛りを建築に使ったり、市街地工事で古墳を削るなどが日常であったが、金冠の発見などで文化財が保護されるようになり、古都慶州が形成されていった。大正に入ってから慶州古蹟保存会が結成され、昭和2(1926)年の朝鮮総督府博物館慶州分館設立の基礎となった。大正末頃からは修学旅行の定番の目的地にもなった。

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大正元(1912)年頃より、慶州の城壁が撤去され始め、市街地に行政施設などが建てられるようになった。大正12(1923)年5月まだ残っていた城壁に隣接して慶州神祠が鎮座、翌年6月に創建となった。昭和9(1934)年出版の『慶州郡』には、慶州邑内大神宮慶州遥拝所の写真が掲載されているが、これが神祠ではないかと思われる。

慶州神祠 釜山日報 s14.4.6

昭和14(1939)年4月紀元二千六百年記念事業として慶州神祠を遷座し、神殿・拝殿を新規造営することを決めた。8月には神祠を神社に格上げすることを決め、慶州繁栄会は慶州神社造営奉賛会を結成した。

慶州神社 寄付 釜山日報 s14.9.27

造営には寄付と勤労奉仕を動員することにして、大地主で日本への留学経験がある奉賛会副会長崔海弼は3万円もの寄付をしている。自発的とは書いてあるが、本当の意味で自発的な寄付ではなかったであろう。
 

慶州 曾戸茂梨 釜山日報 s14.9.4

一方、昭和14(1939)年に慶州繁栄会は、慶州に官幣社曾尸茂梨神社を創建するよう総督に陳情を行った。曾尸茂梨は素戔嗚が高天原から追放された後にたどり着いた地のことで、新羅のことを指すと言われ、その位置は、慶州・春川・伽耶など諸説あった。曾尸茂梨伝説は素戔嗚=檀君という日鮮同祖論の根拠となり、さらには新羅の始祖王赫居世や4世王脱解も邦人であったとする主張までもあった。ついには「朝鮮は神国」という論までもが登場したのである。大日本は神国、を敷衍していけば、朝鮮であれ、南洋であれ、樺太であれ、神国になるのではあるが、この論理についていける人は多くはなかったのではないだろうか?
 同年11月総督府内務局の技手が神社造営候補地を視察し、慶州神祠・半月城跡・慶州公園地の3候補から、慶州公園地を最適地に選んだ。ここは慶州北方の鎮め山として、地元住民が崇敬してきた場所であった。視察後、校村里前方にある松が鬱蒼と茂った山は、将来大工事をやるのに最適なので山も付近も絶対に荒らさないようにと、意味深に助言をしたのであったが、これは総督府としても前述の曾尸茂梨神社創建の腹案が存在していたことを示すものなのかもしれない。翌年7月半月城一帯や慶州邑城が古跡名勝に指定された。

慶州神社  釜山日報 s15.2.29

 昭和15(1940)年4月3日慶州公園で地鎮祭を行った。同年11月10日紀元二千六百年奉祝祭典を慶州神祠で行い、翌日には神祠より旗行列を行った。昭和18(1943)年7月29日に慶州神社上棟式があり、式典後には餅撒きを行った。以上、少ない新聞記事をつぎ足して慶州神社の足跡をたどってみた。神社の歴史をたどってみると、どこであれ、各地の居留邦人がかなりの熱情をもって神社造営に励んでいたことを痛感する。

敗戦後、神社社殿の鍵が壊され、放火の痕跡もあったが、社殿は無事であった。1949年10月、神社建物を使って皇城小学校が開校した。現在神社跡地一帯は皇城公園になり、社殿があった場所には忠魂塔が建っている。慶州は新羅時代の遺跡が世界遺産に登録され、世界中から観光客が訪れるようになった。なお、慶州市と奈良市は、1970年から姉妹都市になっている。


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