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内申点システムのズレと歪みと何か

私には 3 歳下の妹(中1)がいる。
兄である私は中学生活を 1/3 でドロップアウトしてしまったが、妹は今のところ元気に通えているらしい(もっとも、コロナ禍の影響で始業が 2 週間遅れ、完全授業に戻るまでプラス 1 ヶ月掛かったのでまともに授業ができたのは 7 月だけらしいが)。

さて、妹は昨日で 2 週間の短い夏休みが終わり、明日から通常授業だそう。
親が夏休みの振り返りシートの親の欄を書くのに迷っていたので、「割とそれっぽくてちょっと長めだけど中身はあまりない文」の例を適当に助言したりしていた。

振り返りシート

そこで、「振り返りシートは何のためにあったんだろう」とふと思う。
一応学校通っていた 1 年ちょっと、私も大量に振り返りを書かされたが、修学旅行や合唱コンなど大きなイベントならともかく、単なる 50 分間の 1 授業を受けた後に感想や振り返りを書けと言われても、特に書くことがない。
真面目なので授業はちゃんと聞いていたし、安そうな紙質のプリントの下の方に書いてある振り返り欄を「割とそれっぽくてちょっと長めだけど中身はあまりない文」で埋めたりしていたけれど、その行為に大して意味を見いだせなかった。

親が言うには、これは「生徒数が少なければ生徒がどれだけ熱心に取り組んでいるのか(いわゆる『関心意欲態度』)を把握できるが、(私の通っていたような)生徒数の多い学校になるとそうもいかず、振り返り欄がどれだけ書けているかが『関心意欲態度』の内申点を決める重要なパラメータになっているため、結果的にどんなことに対しても振り返りを書かされてるんじゃないか」とのこと。

関心意欲態度

そういや中学に通ってた頃も内申とかそのあたりのシステムに違和感を覚えてたよな…と考えていたら、徐々に中学時代の記憶が蘇ってきた。
たとえば、英語の授業で通常使うノートとは別に「単語をひたすら書くノート」があったのだが、「ノート回収日までに単語を 200 行書けてたら(ここの数字ははっきりと覚えていない)関心意欲態度の評価を A 以上にします、400行以上書けてたら A゜にします」のようなことを言っていた先生がいたこととか。

結局真面目なので 200 行全部書いて( 400 行は流石に無理だった記憶)提出していたと思うが、評価・点数を得るための勉強になっていて何か目的がズレているように感じたことは今でも覚えている。

数値化

私のいた学校が大規模だったのもあるだろうけど、

1.  学校全体での成績を数値化し「内申点」として算出しなければならない

2.  定期テストの結果は比較的数値化しやすい

3.  それに比べ、授業への「関心意欲態度」はそれ自体が数値化することが難しい(というか本来不可能なものを擬似的に算出している)

4.  原則クラス 1・教師 1 の小学校と違い、中学校では教科担当の先生が複数のクラスを回るため、担当する生徒の数が増える(実技科目は 1 人の先生で 1.5 学年を担当するような事もあった)

5.  担当する生徒全ての名前を覚えることすら困難なのに、全員の授業への関心や熱心さを一人一人測るのは確実に無理

6.  それでも「関心意欲態度」の評価は 5 段階の数値として算出しなければならないので、たとえば「振り返り欄」に授業の振り返りを書かせることでそれらを擬似的に基準化、数値化しやすい形で測ろうとする(文の質と量だけで判断できるので、生徒の名前と顔が一致しなくても評価をつけやすい)

7.  そうして効率化を進めていくうちに「評価 / 内申を算出するアルゴリズム」ができあがってしまい、評価がシステマチックに行われるようになる

8. その結果、評価を数値化しやすい宿題やら提出物やらプリントが多く出されるようになっていく(倫理的な問題はさておき、AI に学習させて「振り返り欄がこういうのなら評価 1 、こういうなら評価 5」みたいな事もできてしまいそう)

9.  評価算出がシステマチックになったことで、いつのまにか「評価を得るための勉強」「評価を得るための振り返り」になっていく(定期テストもシステマチックな評価算出の究極例なのだろう)

といった流れになっているように感じた(あくまで想像を含んだ仮説なので、実際の先生方がどういうプロセスで内申を算出しているのかは知らないし分からない)。

対価構造

こう考えると、明確に因果関係が明示されない(あと生徒の多くが高い評価を得ることを重要視していない)だけで、実際は「勉強をする」→「高い評価(数値)を得る」という単純な対価構造になっているように思える(名前あった気がしたけど忘れた)。
これは「動物がお手やおすわりをする」「飼い主から餌がもらえる」「ソシャゲのミッション(例:5 回戦闘する)を達成する」「運営からアイテムや石が貰える」とよく似ていて、最大の違いは「勉強をする」が有意義な活動であることだろう。

ただし、この「勉強をする」も結局評価を得るための内容になっているので、先ほどの例で言うならば「英語の『関心意欲態度』の評価を上げるため(だけ)に不必要なまでの単語の羅列を 200 行文書き殴る単純作業」が発生したりする。
よって、一概に「勉強をする」からと言って、かならずしも身についているとは言えない。定期テストの一夜漬けなんてテストが終わったらすぐ忘れてしまうだろうし、「テストでいい点を取る」という目的を除くととても有意義な活動とは思えない。

内申点システム

「勉強した努力の結果として評価が出る」からいつの間にか「評価を上げるために勉強する」に変わってしまっている内申点システムは、私はどこか本末転倒というか、ズレているというか、歪んでいるように感じる。

それで(他の諸々も含め)ストレスを抱え込んでドロップアウトしてしまったのだが、どうやら「一般」の生徒は歪んだそのシステムに疑問を感じないどころか、半分くらいは学校の勉強をまともにやろうとしていない(友達との雑談と部活がメイン?)。
真面目にやろうとしている生徒も定期テストや提出物さえきっちり出しとけば確実に高い評価貰えるのでむしろラッキー、と思っている人の方が多そうだ(あくまで体験に基づく想像なので実際にどう思ってるかは知らないけれど、少なくとも不登校になるまでは私も後者のように思っていた部分がある)。

「私はソシャゲのミッションを期限時間内に全部完璧にコンプリートしようとして疲れ切ってそのゲームを辞めてしまったが、他のユーザーはミッションを全部こなそうなんて思っていないのでいつまでも続けている」とたとえるとわかりやすいだろうか。
ただ、真面目で要領の良い人なら「ソシャゲのミッションを期限時間内に全部完璧にコンプリートする」を無事達成できるかもしれない。ただ、私はそこまで要領が良くなかった(というか、学校に行って集団行動するだけで相当にストレスだった)。

無理ゲー

私は明らかに内申点システムはどこかズレているし歪んでいると思うが、先生の立場に立ってみると、これまた「無理ゲー」である。
先述したが、定期テストも振り返り欄も「大量の生徒を一人一人見てられない中どうにか(擬似的にでも)生徒を数値で評価するために結果的にそうなったもの」だろうし、そもそも人間の活動を数値を推し量ろうとする事自体が根本的に無理がある。

人を評価する事自体、評価する人の主観・バイアスによって大きく左右されてしまうので、公正な評価自体が難しい。先生に忖度すればその生徒に対する印象は良くなるかもしれないし、私のようにテストで良い点を取りまくっていた生徒は褒められる。
その点、定期テストや振り返り欄のような提出物での評価算出は、合理的でかつバイアスに左右されないので、わかりやすくて公平だ。
その代わり、擬似的に数値で評価する以上シビアになる部分もある。
そう考えると、もし現状を変えたいとしても、内申点を算出しなければならない教育システムな以上、変える選択肢が存在しない。

もちろん、定期テストや提出物が無意味とは言わない。「定期テストがあるから」「提出物があるから」勉強している生徒は多いだろうし、それが勉強のモチベーションにもなっているだろう。
私は(自分で言うのもあれだが)地頭が良かったのか、授業をしっかり聞いているだけで授業の内容が頭に入ってくるタイプだった。睡魔に負けて途中で寝てしまったときは、聞きそびれた部分の教科書を見て必死に追いつこうとしていたと思う。それもあって、提出物やプリント諸々をやることへ意味を見出すことができなかった。

結局、「内申点」という制度が存在する以上、今の内申点システム・評価システムは合理的でかつ生徒の大半を占める一般人に最適化されており、その代わりとなるいいシステムも、おそらくない。システムが数十年続いているのにはそれなりの理由がある。
いろいろな意味で「一般」人ではなかった私は脱落したが、多数決が基本である民主主義社会において少数派が切り捨てられるのも、また仕方ないことなのかもしれない。

内申点の必要性?

ふと、小学校時代のことを思い出してみる。
小学校でも通知表(だいたい「あゆみ」とかいう名前)はあるし、評価も(中学以降よりも大幅に緩めだが)一応あった。
さすがに小学校の頃なのであまり覚えていないが、少なくとも中学校の頃のようなストレスは抱えていなかったように思う。

もともと、私はテストの点数を見せびらかさないタイプだった。特に中学校だと何かと周りから点数を訊かれるが、どうにかはぐらかしていた。
その理由は、「点数や評価はあくまで自分の活動に対する目安であり、他人と比較するものではない」という考えからだ。この考えは今でも変わっていない。

当然定期テストでオール 90 点以上を取ったときは嬉しかったし、数学で 78 点を取ったときはちょっと落ち込んだが、そのときはミスったところを復習して自分の中でけりを付けていた。
自分の努力がわかりやすい結果として出ること自体の抵抗はないし、むしろモチベーションにもなった。でもそれはあくまで自分の中でとどめておくべきで、本来は他人に自慢するべきではないんだろうなと思っていた。
誰かに点数を比較されたくもないし、競争されたくも、したくもなかった。

多くの一般生徒が高い内申点を求めるのは、内申点が高いほどいい高校にに受かりやすくなるからだ。私も、中学に行っていた頃は当たり前のように高い偏差値の高校を目指していたし、「テストで良い点取らないと内申が落ちる」「学校を休むと内申が落ちる」のように、半ば自分の背後にいる「内申」に脅されながら学校に行っていた。

では、「いい高校」って何だろう。教育レベルの高い高校?部活が強い学校?トップ大学への進学率が高い学校?
私の考えだと学校での評価・内申はあくまで「自分が頑張ったことに対する目安・結果」なのだが、それが高校の選考理由に使われるし、その結果高い内申点が求められるようになる。
これも制度自体は非常に合理的で、中学校での成績を受験に使うことで、高校側は受験しにくる生徒の人物像を知らなくても合否を判定することができる。

もし定期テストが力試しテスト・実力テストのようなものだったら、内申点自体が存在せず、成績が単に通知表に載るだけのものだったら、もっと通いやすかっただろう。もっと気楽に通えたかもしれない。プレッシャーに押し潰されることもなかったかもしれない。
でも、それだと高校側が合否を判定できないし、一般生徒に取っては定期テストを全力でやる意義を失う。

高校入試がテストと面接だけで結果が決まる制度だったなら、私はその方が良かったかもしれない。でも、中には「内申点として既に点を取っていれば不確定要素を減らせる」なんて思う人もいるかもしれないし、そういう意見も存在していていいと思う。

本来は、生徒が自分の行きたい、思い思いの高校へ、道へ行けるのが理想なんだろう。でも現実問題、そういった人全員を収容できるようなキャパシティはない。レベルの高い教育を行っている学校なら、勉強ができない人を省きたい気持ちも理解できる。

結局、それら全ての折衷案が内申点制度であり、「様々な面で歪みが起きているが、他に良い制度が見つからなかったからこうなっている」のだろう。

いい高校、いい大学

一般生徒がいい高校を目指す理由の多くは、いい大学に入るためだ。
でも、いい大学に入った先、何がしたいのだろう。
親いわく、文系の大学は多くが遊び呆けているらしい。いい大学に入った理由もいい高校に入った理由も、中学で高い成績を取りに行った理由も全部大学で遊ぶためなのだとしたら、少なくとも私は虚しいと思う。

何か目的があるなら全く問題ないし、その目的のためにその大学に行く必要があるのなら、私も勉強して入ろうとするだろう。
でも、必ずしもいい大学に行く必要はない。大学は義務教育ではないからだ。

目標

結局、この歪な内申点システムをどうにか改善するとするなら、学歴至上主義をなくし、生徒が明確な目標を持って進学していくようにするべきなのかな、と思ったりした。
でも、中学生のうちから明確な目標を持つのは難しいだろう。かくいう私も、「エンジニアとして IT 系の職に就きたい」ということ以外は何も決まっていないし、将来は未だに雲の中だ。

私は学生だし教育者でもないので、数時間の思考実験では何かがズレて歪んだ大規模システムを現実的にどうにかする方法は見つけられなかった。もし見つけられていたら、とっくに世の中が変わっているのだろう。

こうしてレールに敷かれた人生から早々と転落してしまったが、奇跡的に Techford という学校、居場所に出会えたのは本当に幸運だと思う。
気づくのがかなり遅れて AO 入試もギリギリだったので、もし入学できていなかったら今頃どうなっていたのか、想像したくもない。

とりあえず「エンジニアとして IT 系の職に就きたい」という方向性は不登校の期間を経ていくうちに決まったので、今はぼんやりとしているそれに向かって日々を過ごしている。何より、Techford の仲間と出会えたのが私にとって、大きな財産になっていると思う。


……… ほとんどの日本人を敵に回すような事を書いているような気がしてならないが、そんな事を考えていたりした。
話がまとまらないし結論も出ていないけれど、書いているときりがないのでこの辺で収めておく。

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