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鉛筆の話をしよう ~ep.2 キセキ~

真庭市余野(よの)地域に住んでいます。
ここには、カバー写真のような大きな鉛筆の看板があります。
3月21日、地元を盛り上げたい中高生のグループ、「余野盛り上げ隊」を中心に、この看板の塗り直しを実行しました。

断片的にfacebookやtwitterで投稿していたため、どんな取組だったか伝わっていないと思いますが、
この一連の取組には、ど〜しても伝えたいバックグランドがあるので、
久々に書き綴ってみました。

なんだかんだとまとめていったら、
長くなったので、いくつかに分けました。
少しずつ読んでいただけると嬉しいです。

3月18日に全てが動いた

方向性は見えたものの、まだ不確定要素がいっぱいだった。

塗り直しを行うことを地元に告知する方法は2つある。

1つは、地元の小学校に案内を送ること。
もう1つは、地元の青年団「みそぎ会」のLINEグループに投げる方法。

小学校は地域活動に積極的に協力してくれるので、
案内を送れば大抵は反対されることなく協力してくれる、というのは今まで一緒に活動させてもらってわかっていた。

みそぎ会グループも、地域活動には協力的なので、投げかけると何名かは呼応して協力してくれるだろうと感じていた。

問題なのは、「協力してくれるかどうか」ではなく、「協力してよかったと思えるか」だと思っていた。
たくさんの人に関わってもらえる、意味のある取組にしないといけない!
という思いがあったので、
そのための文脈を考えた時には圧倒的に準備が足りていなかった。

実行日は余裕を持って2ヶ月先に決めた。
それは早めに告知することで地元の人たちの予定を抑えることができ、
結果多くの人に関わってもらうことができるからだ。
ところが、その取組の中身が伴っていないことに不安感が拭えず、なかなか告知できずにいた。
作成した小学校への案内の最初の日付は2月20日だったが、
実際に配布できたのはそこから20日も経った、3月10日だった。

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上が初稿。矢古橋間違えてる(汗
で、下が最終稿。

ヨノ鉛筆

矢古橋また間違えている(涙

単なる「塗り直し」ではなく、「美化活動」にタイトルを変え、
塗る意外に子供たちの関わり代を増やすべく、植栽活動も追加した。
さらに、子供たちに、地元の身近な歴史を知ってもらう、という地域愛を育んでもらうためのアクションも取り入れた。
ここまで来ても、実はグズグズ悩みつつ、21日の決行日に迫られて、
えいや!で案内を提出した。
(矢古橋の誤植は相当数印刷した後に指摘してもらって、正しく刷りなおしましたw)

告知はした。
けれどまだ深みが足りない。。。

そう思いながらも、地元の人に会うたびに、21日の作業の話をしてまわった。
しっかりした詳細は決まらないまま、だったが、
とにかく地元に会う人には鉛筆の塗り直しをしようと思うことを告げていった。
確定しない状態で、口に出せば出すほど、不安が増していった。
そして、ありがたいことに、話を聞いてくださる方の反応がおおむねよかったので、逆にそれもまたプレッシャーになっていった。

ある日、
地元の子ども会が、なつつばきを利用してくれた日のこと。
一人のお父さん(Iさん)が声をかけてくれた。

子どもが学校から持って帰ってきた鉛筆の塗り直し案内を見ました。
あれ、高車(高所作業車)使ってやるんですか?
もしそうなら、僕免許持ってるんで手伝いますよ。

これが実施一週間前のこと。

全くもって、思いも寄らない方向からの申し出だった。
奇跡といえば安っぽくなるかもしれないけれど、この偶然には心底しびれた。
たまたま、その子供会の準備で早くこられたIさんと、
その時間、予定が変わってその場に居合わせた僕が会ってなかったら、
こんな申出をしてくださることはなかったし、
今回の取組はどうなっていたか考えられない!
それまでの不安感が一気に拭えたこの瞬間の出来事を、
うまく伝えられず、置いてけぼりにしているのなら申し訳ないが、
とにかく、この瞬間は飛び上がるほどの嬉しさと安堵感が全身を走った。

それからIさんとLINE交換して、レンタルの手順を教えてもらった。
使用日が日曜なので、土曜のうちに車を借りておかないといけないかもしれないとのこと。
車体を運転するのも中型の免許が必要なのでIさんが引取りも協力してくれるとのこと。

とりあえず、リース会社に電話してみると、土曜が祭日のため金曜までに借りておかないといけないのが判明したので、なんとか調整してもらって、
3月18日(木)には高車を手配することができた。

また、製作者のAさんにもその日、直接話を伺うことができ、当時の経緯や余野の歴史との絡み、関わった地元の人たちの様子がわかってきた。

こんな感じで、経緯と歴史がわかった。

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今から27年前、テレビで「日本一の鉛筆」というのが放送されていたそうだ。
それを見たAさんは、これなら余野でもできる!と閃いて、実行に移したそうだ。


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その日の夜、盛り上げ隊とも最終の打合せ。

これは今振り返っても、今までにないくらいの無茶振りだったように思うが、
結果的に当日の進行から地元メディアの取材対応まで、見事にやりきってくれた。
この役割分担で当日の進行やらほとんどを丸投げしたおかげで裏準備に専念することができた。


堰をきったかのように、大きな流れがドドドーっと一気にうごめいた。
決行日3日前、3月18日のことだった。

続く。。。

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