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「自分の中に他者がいない」という弱点。

40年以上も生きていると自分の弱点がはっきりしてきます。ぼくの場合は「自分の中に他者がいない」ということです。他者への好奇心はどちらかといえば強い方だと思いますが、それって観察対象であって同時存在ではないんですよね。自分の中に他者を同居させることがどうしてもできない。

それは家族であっても同じことで、基本的に誰も自分の中に入れない。自分の特徴ともいえるけれど、自分の中に他者を同居できている人を見ると自分は結果的に空っぽなんだなあ…と思います。今さら自己変革は難しいですが、何事も認識することからなので少しずつ変わっていきたいなあと思っています。

ある意味、心の歪みなんだと思うし、自分は歪んでいるだろうな…とは20代の頃から思っていたのですが、「自分の中に他者がいない」と言語化できたのは最近のことです。これでやっと足掛かりにできるから言語化って大切ですよね。自分のことすら全然わからないのに他者のことなんて何をか言わんや。

この特性が役に立つことがあるとしたら、人を観察するのが性に合っているという点です。BtoB企業のWeb活用支援において「ユーザーがどんなアクションをしたか/それはなぜか」と観察して考え、次の手を打つことには大いに役に立ちます。観察対象として好奇心があるので全然苦ではありません。わからないから知りたいと思うし。

でも、それって家族や職場や知人といった人間関係の場面ではちょっと違うんですよね。そもそも観察対象ではない。その線引きや相応しいアティチュードがぼくはほぼできない。

司馬遼太郎と堀田善衛が対談で「人間は度し難い」と頷き合ったそうですが 20年前にこの対談を初めて読んだとき、まるで自分に言われている気がしてドキッとしました。今でもドキッとします。人間は度し難いし、自分も度し難いんですよね。

心情的左翼だった自分が、経済繁栄と社会主義国の没落で自動的に転向し、続出する理想のない現実主義者の仲間にだけはなりたくありませんでした。自分がどこにいるのか、今この世界でどう選択して生きていくべきか、おふたりなら教えていただけると思いました。(略)
忘れられないのは、「人間は度し難い」と司馬さんがおっしゃった瞬間でした。堀田さんが坐りなおしつつ、「そうだ。人間は度し難い」と応えたのです。大きな元気な声でした。(略)
私事で申し訳ありませんが、死んだ母のことを思い出していました。「人間はしかたのないものだ」というのが彼女の口癖で、若い私と何度も激しくやりとりしたのです。戦後の文化人の変節について彼女が語るとき、不信のトゲは何かいたたまれないものがありました。(略)
もっと長いスタンスで、もっと遠くを見る目差しが欲しいとつくづく思います。

『時代の風音』宮崎駿 堀田善衛 司馬遼太郎

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