高畑勲『平成狸合戦ぽんぽこ』

長野ロキシー高畑勲特集で『平成狸合戦ぽんぽこ』を。
こんなにすごい映画だったか…とちょっと呆然としてしまった。劇場でも観ていて、そのあとビデオやテレビで何度か観ていたはずなのに全然気づきませんでした。

何といっても高畑勲の観客の突き放し方がすごい。
狸の変化シーンでファンタジー的に一瞬気持ちをふわっとさせても、その直後に「だからって解決なんかしないでしょ」とばかりに現実の地平をすっと戻す。もちろん解決なんかしていない。

狸の心情にも徹底して同情させない。狸の悪戦苦闘をユーモラスに描くけれどシリアスにせず、距離を保ちさせ続けることで観る側(ぼく)を気楽な見物人・感動人にすることを拒み、たえず当事者としてのポジションに座らせる。

狸の闘争運動的な集団的愚かさや弱さ、ジリ貧さもフラットに扱いながら、「そうせざるを得ないのだ」という状況を淡々と描いていく。

狸たちがそうせざるを得ない状況を淡々と描き、その外側にぼくたち人間を置く。
それを観ている観客を当事者として座らせる。
その徹底さがすごい。
狸と人間を様々なことに置き換え可能な構造にしている。

これだけ書くといやな映画のようだけれど、それを支えているのが圧倒的な文化バックボーンと軽やかさで。
妖怪大作戦も里山の景色も歌われる小唄も古今亭志ん朝の気持ちのいいリズムも、ぼくの教養が足りないだけで、その一つひとつに膨大な文献や歴史的背景や見識といった骨太な文化があるだろうことがスクリーンから伝わってくる。

何ていえばいいんだろう。小手先じゃない文化の流用が観客の潜在的な居心地の悪さを(これは恐らくこの作品の大切な本質だと思う)救い、商業作品としてのバランスを生み出している。
こういうことをさせたら高畑勲は天下一品なんじゃないだろうかと思う。
最後は『火垂るの墓』とも呼応しているようで。そういえばあれも居心地の悪い映画だった。

いやあ、すごい映画でした。
なぜ当時は気づけないのか。

高畑勲の映画はこちらが年を経る度にその凄さが明瞭になっていく気がする。特に『となりの山田くん』なんてその代表格なんだけれど。『となりの山田くん』もこの特集で観たかったなあ。

(二〇一七年七月)

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