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高橋源一郎『ぼくらの民主主義なんだぜ』

書店で見かけてまだ読んでなかったんだと気づいた高橋源一郎『ぼくらの民主主義なんだぜ』。震災直後に朝日新聞で始まった論壇時評。
2011年から2015年までの連載が本にまとまっている。

この五年でぼくたちはだいぶひどいことになった。
『ぼくらの民主主義なんだぜ』を読むと、五年前はまだマシだったんだと愕然とする。
まさか原発問題が参院選挙の争点にならないなんて五年前の誰が思っただろう?

問題は「敵」や「悪」や「怪物」が外部に存在しているのではなく、どうやらぼくたちに内在している何かに起因するということなのだ。
それが東日本大震災でマグマのように噴出し、ぼくたちは右往左往している。

基本的人権すら否定しようとする自民党の右傾化、安保問題、ヘイトスピーチ、バッシング、原発賛成反対の対立構造。それらはどれも根っ子が同じように思える。東日本大震災は契機に過ぎない。
それはそれまでもぼくたちの足元にあったのだ。なかったことにしてきただけで。

この国は/ぼくたちは、過去を総括し、傷を引き受け、新しいビジョンに向かうという能力が致命的に欠けているらしい。という実感と命題。

つきつめて考えると、どうもそれは戦後七十年のぼくたちそのものみたいだ。たぶん。
ぼくたちは敗戦から七十年分のツケをいよいよ払わなくてはいけないらしい。

起きてしまったことを総括し、原因と責任を明確にし、言葉を共有するということは誰かを吊し上げるということではないとぼくは思う。
それは「自分は/ぼくたちは何者であるのか?」という問いそのもののはずだ。

ぼくは何者であるのか?

それは「今」のぼくから「過去」を見ることでしか答えを得ることはできない。未来のぼくは今のぼくから作られる。

『ぼくらの民主主義なんだぜ』でこんな一節があった。

「慰安婦問題」に関して、この国では、「強制性」があったかどうかが議論になっている。またその裏側には、当時の社会情勢の中で「慰安所」の設置そのものは否定できないという考え方もある。だが、あるアメリカ人は、東郷にこう言う。建国の頃アメリカは奴隷制を受け入れていたのだから、歴史的には奴隷制は当然の制度だ、という議論は、今のアメリカではまったく受け入れられない。過去は常に現在からの審判に向かい合わねばならないのだ、と。

過去は常に現在からの審判に向かい合わねばならない。

ぼくたちは何者であるのか?
それを決めるのは今のぼくたちであるし、老人のノスタルジーを押しつけようとする政府与党ではない。

(2017年7月)

追記(2021年7月)

このnoteを書いた5年後、こんな追記を書くとは思ってもいませんでした。世界的なコロナ禍により、この数十年、ずーっと蓋をして見ないふりをしてきたことが東京オリンピックを期に全部ぶち撒けられた感じ。

見ないふりを続けるよりマシなのでその点では良かったと思うが、やっぱり痛みを伴う。自分も加害者であり被害者である混沌さがより辛い。辛いが、この痛みは大人が引き受けなくてはいけない。


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