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誰かの「好き」や「カッコいい」という気持ちを断罪しない。

「兵器をカッコいいと感じてしまうのは戦争の肯定とゼロ距離」的なツイートを見て、うーむと思う。

趣旨は分かるが、誰かの「好き」や「カッコいい」という気持ちをリトマス試験紙のように断罪するのはどんな文脈であれ好きになれない。

そこにまずあるのは「人間の業」であって、業の存在を否定すると碌なことにならないという怖さが肌感覚でまずある。

好きとかカッコいいとか面白いとかは、「思ってしまう」のだ。乱暴にいえば、それは性欲に似ている。ぼくは人並みに性欲があるし、Hなことも大好きだし、偏った性癖もあるけれど、大切なのはそれを否定するのではなく、「そういう人間である」という自己認識と、「他者の尊厳を尊重する」の2点を両立させることだと思う。

矛盾を否定すると碌なことにならない。

「矛盾を成立させる」ことが大人になることだし、社会を営むことだとぼくは思っている。様々な業をもつ人間が、様々な欲望の中で、共同体を営むこと自体がそもそも大きな矛盾を抱えている。

具体的にいえば、ぼくは中世ヨーロッパの拷問器具にとても興味がある。(原書房『拷問全書』も持っていたが紛失してしまった。悲しい)

人間の探求心の業と情熱の暗部が拷問器具の「形」にそのまま投影されてるようでとても興味深い。でも、もちろん拷問なんてされたくない。

拷問器具を見る度に、「もし自分が中世ヨーロッパにいたら」「太平洋戦争で特高に拷問されたら」と想像して身震いする。

ぼくは人一番恐怖や痛みに弱い人間なので、「拷問するぞ…」と囁かれただけで全ての友人知人を裏切る自信が100%ある。だからこそ、憲法や人権について知らんぷりでいられない。そんな怖いことできない。

ずいぶん個人的な話にいったけれど、そもそもが個人的なものなのだ。好きとかカッコいいとか面白いとかは。
そして、ぼくたちはそもそもが、暗く、淫靡な、暴力的で、残忍な、くだらないもの「すらも」好むのだ。人間の業として。そこを否定したら歪んで闇に隠れるだけだ。

人間の業を否定はしない。でも、乗り越える。それが大切で。

平山夢明の『異常快楽殺人』なんてめちゃくちゃ面白いですよ。めちゃくちゃ怖いけれど。(連続殺人鬼6人の人生を取り上げ、彼らの深い闇を検証する傑作ノンフィクション)
ぼくはこれを数日かけて読んだけれど、その間はずーっと悪夢を見ていた。めちゃくちゃ怖かった。

話は行ったり来たりしましたが、この方がツイートした宮崎駿の漫画に賛同します。ということでした。

「軍事一般は人間の暗部から来るものなのだ。人類の恥部。文明の闇。ウンコだ。ゲロだ」

そして、人間はそのウンコやゲロすらにも興味を抱く存在なんです。それをロジックやべき論で否定すると録なことにならない。

ぼくはそう思う。

追記

根源的な恐怖と、甘美で背徳的で黒い渦のような欲望という矛盾した感覚について過去に書いていました。よかったらこちらもご覧ください。

蓮の花なんてぜんぜん怖くないよと思う人は(ぼくもそうだ)「蓮コラ」で画像検索してみるときっと驚くと思う。
そこには確かにゾワッとさせるものがある。たぶんほとんどの人が。
蓮の花が怖い人はこの感覚をぼくよりもっと早くからキャッチしているのだろうか。連なるものから感じる恐怖。それはとても本能的なものだ。

「目をそらせ!」という信号。
「次のページをめくれよ」という欲望。

本能的な恐怖特有の相反する二つの力が交差する。
ぼくを守ろうとする恐怖と、甘美で背徳的で黒い渦のような欲望。
もしかしたら、甘美さを知っているからこそぼくたちはそこから走って逃げようとするのかもしれない。甘美さに捕まってしまわないように。

でも、この欲望もまたぼくの内に眠っているのだ。泥の中に。


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