見出し画像

果たして達成しているのだろうか。映画『DAU.ナターシャ』

プロジェクトの概要
本プロジェクトは、2007年4月に撮影が始まり、当初は長編映画として計画されていたが、開始してすぐにロシア出身のイリヤ・フルジャノフスキー監督により映画、科学、パフォーマンス、精神性、社会性、芸術性、実験、文学、建築を組み合わせたユニークで壮大で学際的で絶え間なく変化するプロジェクトに変わった。

2009年9月、ウクライナ・ハリコフの廃墟となったプールの敷地内に「物理技術研究所」が建設された。実在したソヴィエトの研究機関にインスパイアされた、この広大な機能を備えた実験研究施設は、ヨーロッパに建設された最大の映画セットになった。アーティスト、ウェイター、秘密警察、普通の家族など、時間と空間から隔離された何百人もの厳選された意欲的な参加者たちが実際にセットの中で暮らし、科学者たちもそこに住みながら、自分の実験を続けることができた。

過去(1938年~1968年)に戻された参加者は当時のソ連の人々と同じように生活し、働き、当時の服を着て、愛し、互いを非難し、憎しみ合った。この台本のない人生は、2009年10月から2011年11月まで続き、その全期間にわたって断続的に撮影された。彼らが着ていた服から使用した言語まで、彼らの存在は研究所に設定された時間=1952年 、1953年、1956年のものに統一されていた。
http://www.transformer.co.jp/m/dau/project/

やりたいことは分かる。ムダだとも思わない。

でも、膨大な労力をかけたのに、想像以上の達成になれてないんじゃないだろうか。超魔球のつもりが意外と平凡な速球だったような。

努力は素晴らしいが、達成は疑問。ぼくの心の闇はノックもされず。残念。これなら演劇の方が全然暴力的だし、不愉快だし、見たくないものを無理矢理見せてくるし、触れられたくない所を平気な顔で鷲掴みしてくる。

なぜ勝手に演劇と比べると聞かれたら、この映画の達成目標がその辺にありそうな気がしたからです。

集合体の暴力の源泉は「凡庸な悪」という自分と代替可能な要素であり、主体性なき「凡庸な悪」の集合体が「愚の巨大化」の源泉であるという視点と状況に放り込まれる‘’居心地の悪さ‘’ の創造。

という達成を映画『DAU.ナターシャ』は目指していたのでは(でも到達しなかった)という個人的な感想です。

そうではなく、【2年間の「人工的な人生とフィクショナルな関係性」による人間性の赤裸々な発露と、「演技と非演技の狭間」が目的】ということであれば、やはりそれも想像以上ではないし、それに2年がいるのだろうかという疑問は残る。(半年と2年で差は出るのだろうか)

でも、映画『DAU.ナターシャ』が素晴らしいと思う人がいても不思議じゃないし、否定は全然しません。
むしろ、「ここが素晴らしかった」「あの場面は最高」という感想やレビューはぜひお聞きしたいので、よかったらぜひ教えてください。知りたいです。



この記事が参加している募集

#映画感想文

67,269件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?