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自動筆記のようなもの

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自動筆記のようなもの
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空中浮揚

寝落ちした朝、昨日が染み付いている。不意に終わった一日が、人生の終わりみたいな気がした。やり残したことがあるのに、時間は進んでゆく。昨日の記憶を今日の私が処理しているのだから、私はまだ昨日を生きている。後回しした分だけ過去を生きていて、だから、今を生きることができなくなる。睡眠が一日に境界線を与えてくれる、と思っていたけれど、大人になるとそれは曖昧なものでしかなくなる。時刻なんてもっと曖昧だ。12時超えたって、私の身体は日付変更線すら超えていない。抜け出すことのできない一日を

瀬戸際の助け船

久しぶりに会った友人が、私の知っている友人ではないように思えて、悲しくなることがあるけれど、それは傲慢でしかなく、身勝手な感情でしかない、と知っている。それでも、あの時のあの人の面影が一つも残っていないことが、時間とは何か、の答えのような気がした。好きだった人は、何年経っても同じままでいてほしい、なんて決して言えない。まして、家族とか親戚とか恋人とか婚約者とかでもない、赤の他人なのだから。だから、変わってゆくことを歓迎できる人間になりたい。それでも、あの人が間違っている道へ進

いつの日かの語べ

水だって、どこの水なのか書かれているんだから、その人が、どこの出身なのかなんて関係ない、という言葉なんて、今のところ偽善にしか思えない。 小学校の頃は、蛇口の水をそのまま飲んでいたけれど、今じゃ、水筒を持たせているようだから、時代は少しづつ変わっているんだろうな。とりあえず、お母さんは、水を買うのが当たり前の時代になるなんて、だとか、テレビに消費者ローンのCMが流れるなんて、と言っていたのを思い出した。そういう時代があって、今の時代があるんだな、と他人事のように思っていたけ

拡張現実的錯覚

小学一年生のとき、小学六年生が大人に見えたし、すごくちゃんとしているような感じがしたけれど、中学三年生のとき、小学六年生がまだまだ子供のように見えた。 幼稚園の時、おばあちゃんが住んでいる団地へ行くと、ものすごく高い建物だな、と思っていたけれど、10年ぶりに訪れたら、そんなに高くなかったので、驚いたのを覚えている。多分、身長が伸びたからなんだろうけど、それにしたって、ここまで印象が変わるんだろうか? 大人になると、急激に身体は変化してくれないから、肉体を鍛えようとする人がい

儚い夢舞台

いいな、と思う人に出会うと、二度見してしまうけれど、頭では、一目惚れした、と思うのだから、自分の思考なんて信用できないな。 言っていることと、やっていること違うじゃん、と文句を言う人がいるけれど、果たして、世の中にどれくらい有言実行している人がいるんだろうか? 大抵どこかしら違っているんだから、そこらへん大目に見ようじゃないか。寝ている間に冷蔵庫を開けて、何かを食べているのをテレビで観て、もしかして自分も寝ている間、何かしているんじゃないかと思ったりする。ぐっすり眠った日の

名前なき病名の名付け親

泣くために、泣けると謳っている映画を観る人にはなりたくなくて、現実で泣く人間になりたいと思っていたけれど、それって結構難しいことなのかもしれない。 泣ける映画だからいい映画なのだとしたら、泣けない人生はダメな人生なのだろうか。決してそういうことではないから、全米が泣いたという言葉には騙されないようにしようと思う。そもそも、なんで悲しみという感情が涙に移りゆくんだろうか? 喜びは笑顔になり、怒りは暴力になってゆくんだろうか? 喜怒哀楽という感情は、こうやって肉体と結びついてい

瞬間的審判者

電車に揺られていると、酔ったサラリーマンが隣に座ってきて、大声を出したり、椅子を叩きつけたりしていたので、みんなその人から離れるけれど、ここで自分が席を離れたら、負けのような気がして、なんとなくそのまま座っていた。 最近読んだ小説に、狂人は、満員電車なのに隣の席が空いてしまう、みたいなことが書いてあって、この人が狂人かどうかは、自分が席を離れるかどうかにかかっているのだろうか。自分が、この人の人生だとか、存在意義だとかに審判を下すかのようで嫌だった。たとえ、自分が席を離れて

優しくなる途中

1000年経っても共感できる和歌があって、人間の心なんてそんなに変わらないんだな、と思うけれど、SNSには共感できない文章がツイートされている。 なんで、同時代の人に厳しくて、先人には優しくなれるのだろうか? 人を理解するのに、いつ生きていたのか、なんて関係ないのかもしれない。共感されなかった言葉は、いいねもリツートもされず、どこかへ追いやられてしまうように、共感されなかった和歌も、みんなに無視されたんだろうな。その時、作者はどんなことを思ったのだろうか? 先人を尊敬しても

辞書による苦痛を超えて

没頭する対象を間違えただけで、人生とやかく言われるなんて、不平等すぎる。 もし、勉強に没頭できたら、褒められることが多いのに、ゲームに没頭したら、文句言われるのだから。本当は、それがどんな対象であっても、尊重されるべきなんだ。偶然、勉強に没頭できた生徒だけが、優等生だと思われるなんて、残酷すぎるでしょ? でも、アイドルを好きになっても握手会には行かないし、サッカーのテレビ中継は見るけれど、スタジアムで観戦しようとしない、そういう中途半端な態度に嫌気が差す。それで、ぐずぐず没

ちっぽけな足掻き

残す、という言葉は、ものすごく傲慢な言葉なのかもしれない。 誰か一人が残そうとしても、心に残るものは、人ぞれぞれ違う。災害を忘れないようにしましょう、と言ったところで、忘れない人は忘れるわけないし、もしかしたら、それよりも違うことを忘れたくない人だっているわけで、だから、残るものは、否応なく自然と残ってしまうもの。もしかして、残そうとする行為は、人間の心に反している行為なのかもしれない。化石みたいな偶然残ったものを保存しようとすることと、アートを保存しようとすることには、ま

剥奪できない想像力

車の窓から、月を眺めていると、こちらを追いかけてくるようで怖かった。 それは明らかに目の錯覚だけれど、錯覚という言葉がない時代に生まれていたら、どんなことを思っていたのだろうか? 間違いなく、月に様々な想いを重ねていて、だから、百人一首には、月という言葉がたくさん出てくるんだろう。小さい頃、月には見守られているような安心感があると同時に、常に監視されているような緊張感もあった。なんだか、神様とか宗教ができた理由がわかるような気がした。知識は、人類を豊かし、その分だけ、想像力

普遍的速度

食べるのが遅いと怒られて、起きるのが遅いと遅刻して、歩くのが遅いと誰かとぶつかってしまう。 いつの間にか、遅いだけで責められてしまう世界に生きていた。だから、どんどん遅いを切り捨てることで、効率を最大限まで高めようとしてみる。学校で現代文をやっていると、なんで試験時間内に、この文章を読み切らないといけないのか、いつも納得いかなかった。文章を文章として扱っていないような気がして嫌だった。速読という言葉に憧れたこともあるけれど、はやく読もうとも、はやく読むこともできなかった。映

凍結した感性

この人面白いかも、とフォローした人のフォロワーを見ると、一万人超えていて、肯定されたような感じがする。 あなたの感性は間違ってないですよと、SNSから言われているようだった。でも、そんなところで感性を肯定されても意味なくて、それよりフォロワー数で自分の感性は正しいのか判断している自分の感性が嫌になった。その作品が好きだから好きなのか、みんなが好きと言っているから好きなのか、そういう境界線をあえて曖昧にして、毎日をやり過ごしている。曖昧にしておくことで現実逃避するようになった

一万年後の一括り

五十歩百歩という言葉があるけれど、いつまで経っても、その言葉は腑に落ちない。 どう考えても、五十歩より百歩の方が、二倍の差があるわけだし、似たり寄ったりではないと思う。四捨五入すれば同じだと言われても、その切り捨てられたところが大切なのであって、ウサインボルトの世界記録だって、四捨五入されたら10秒になってしまうし、そんなことしたら、北京オリンピックの100メートル走を見て、感動した自分がバカらしくなる。そもそも、五十歩百歩は、敗者が作った言葉のような気がする。もしそうなの