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自動筆記のようなもの

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自動筆記のようなもの
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#随筆

現実的フェイク

まだ言葉が話せない頃、嘘なんてありえなかったことを知る。 初めて、嘘をついたり、嘘つかれたことを憶えている。幼稚園の先生に怒られて嘘泣きしたことや、ピカピカの泥団子を壊してないと嘘をついた。英会話や歯医者に嘘つかれて連れていかれたし、おもちゃを買うと嘘つかれたりもした。いつの間にか、世の中には嘘が溢れていた。でも、あの頃、嘘なんかどうでもよかった。日本は世界で一番小さい国なんだよ、とか、ベルトがあれば変身できるんだよ、とか、たとえ嘘であっても、純粋に会話を楽しんでいたんだ。

未知への歓喜

街中を歩いていると、みんな服を着ていて、その服を買った日が存在していて、そういう選択の積み重なりによって、今のコーディネートがあるんだなと思うし、そういう日々を誰しもが持っているのかと思うと、気が遠くなるような気がした。 それが生きてきた証拠みたいなものであって、そこの木だって誰かが埋めたんだろうし、そこの建物だって誰かが建てたんだろうし、そこには必ず人間臭さがあるんだね、そこには手に負えない複雑さがあるんだね。それでも人間の手が加えられているのだから、不思議としか思えない

有限ノスタルジア

6歳の頃、昔ってそんなにいいものなのかな、という映画のセリフを聞いて、意味すら分からなかった。 なんで昔に懐かしむことができるんだろう、と思っていた。まだ6年間しか生きていないんだから、しょうがないんだけれど、分からないことがなんだか悔しかったのを憶えている。昭和の名曲が流れてきても、大人たちは懐かしむようなリアクションを取っているのに、自分自身は何も思えなくて、大人と子供に境界線が引かれているように思えた。単に、古くて時代遅れだよね、とは片付けることができないものが、過去

無気力浮遊力

トレンドを追うために雑誌を買っていたはずなのに、最近買うこともなくなり、それでもトレンドを追おうとしている。 面白いのか分からない映画館の映画より、話題になっていた映画をNetflixで観ている。でも、映画館が好き。芥川賞を受賞した単行本は買うけれど、興味ある初耳の作家は、文庫本が出るまで待とうとする。でも、たまに買っちゃうけどね。自分の直感は信じないけれど、自分の感性は素晴らしいと思いたいがために、同じ作品を何度も観ようとする。みんなからつまらないと言われている新作には手

抜き出しの誘惑

セールとか、バーゲンは嬉しいに決まっているけれど、よくよく考えてみると、なんで安くなっているのかといえば、つまり、売れ残っているから、なんだろう。 それでも、安くすれば売れるかもね、とお店側が思っているから、セールとかバーゲンがあるのであって、だから、私は試されているんだ。お前のセンスは、薄っぺらいものなんだよ、と。定価で買わないくせに、安くなると買ってしまうなんて、自分のセンスはお金で左右されてしまうんだね、と失望したい気もするけれど、だからといって、定価で服を買おうなん

アヒルが死んだ後

失われた30年だとか、まるで日本が絶望的なように報道されているのを、よく耳にしたけれど、でも、宮崎駿が「もののけ姫」や「千と千尋の神隠し」を生み出して、錦織圭や本田圭佑が活躍して、映画の興行収入だって何度か塗り替えられているし、最年少で芥川賞を受賞した作家がいて、将棋界にスターが生まれて、NBAドラフトで一巡目指名された人がいて、だからさ、報道されているよりも絶望的ではないような気がしているけれど、これを能天気と言うのだろうか? 確かに、バルブは弾けたし、年金問題とか、国

無条件幸福

周りにいる五人が自分自身の平均だよ、ということを聞くけれど、だから、友達自慢する人がいるんだろうか? 友達が起業したんだよ、とか、友達がモデルやっているんだよ、とか自分のことのように話していて、これは本当に応援しているのか、それとも、自分ってすごいですよアピールしているだけなのか、疑心暗鬼になるけれど、そういうことを考えている自分自身が嫌いになる。友達のことより、自分のことを話している方が気楽なのかもしれないけれど、でもさ、自分のことを話さなければ相手に理解してもらなくな

太陽の憧憬

博物館へ行っても、何をどう見れば良いのかよく分からなかったので、とりあえず、陶器の傷だったり、失敗して塗りつぶされている文字だったり、を見ていた。 それを見ていると、自分と、昔の人は、そんなに変わらないんじゃないか、という親しみを感じた。人間味を感じるときは、いつだって不完全なもので、太陽とか、季節の移り変わりとかに人間味を感じることは、これからもないんだろう。そういう不完全な人間味のせいで、法律があって、警察がいて、刑務所があるんだろうし、だから、人間味を排除しようとして

鏡の視線のようなもの

あれ?この瞬間見たことある、というデジャブに襲われることがあるけれど、これって本当に夢で見た瞬間なのだろうか? 確かに、いつの日か見たような気がするんだけれど、もしそうなのだとしたら、夢の中で未来を予知していたことになるんだろうか? そんな特殊能力よりも、運命はすでに決められていて、人生は操られているだけなんだ、という陰謀論を考えてしまう。もし、この人生が決められているんだとしたら、自分だけはそういうレールからはみ出てやろう、と思うけれど、定期的にデジャブに襲われるので、

いつの日かの語べ

水だって、どこの水なのか書かれているんだから、その人が、どこの出身なのかなんて関係ない、という言葉なんて、今のところ偽善にしか思えない。 小学校の頃は、蛇口の水をそのまま飲んでいたけれど、今じゃ、水筒を持たせているようだから、時代は少しづつ変わっているんだろうな。とりあえず、お母さんは、水を買うのが当たり前の時代になるなんて、だとか、テレビに消費者ローンのCMが流れるなんて、と言っていたのを思い出した。そういう時代があって、今の時代があるんだな、と他人事のように思っていたけ

拡張現実的錯覚

小学一年生のとき、小学六年生が大人に見えたし、すごくちゃんとしているような感じがしたけれど、中学三年生のとき、小学六年生がまだまだ子供のように見えた。 幼稚園の時、おばあちゃんが住んでいる団地へ行くと、ものすごく高い建物だな、と思っていたけれど、10年ぶりに訪れたら、そんなに高くなかったので、驚いたのを覚えている。多分、身長が伸びたからなんだろうけど、それにしたって、ここまで印象が変わるんだろうか? 大人になると、急激に身体は変化してくれないから、肉体を鍛えようとする人がい

儚い夢舞台

いいな、と思う人に出会うと、二度見してしまうけれど、頭では、一目惚れした、と思うのだから、自分の思考なんて信用できないな。 言っていることと、やっていること違うじゃん、と文句を言う人がいるけれど、果たして、世の中にどれくらい有言実行している人がいるんだろうか? 大抵どこかしら違っているんだから、そこらへん大目に見ようじゃないか。寝ている間に冷蔵庫を開けて、何かを食べているのをテレビで観て、もしかして自分も寝ている間、何かしているんじゃないかと思ったりする。ぐっすり眠った日の

身の程あらず

純喫茶に行って、自分の身をその環境の馴染ませれば、なんだか良い人物になれるんじゃないか、と毎回期待している。 1杯1000円のコーヒーを飲みながら、自分を誤魔化すように過ごしている。でも、ファミレスに行ったら行ったで、自分より若い人が店内に溢れていて、そのエネルギーに圧倒されてしまう。身の程知らずという言葉があるが、純喫茶も、ファミレスも、自分の身に合っているとは思えない。自分の身の程ってなんだろうか、と真剣に考えても無駄で、確かなことは、信じた人さえたくさん集まってしまえ

優しくなる途中

1000年経っても共感できる和歌があって、人間の心なんてそんなに変わらないんだな、と思うけれど、SNSには共感できない文章がツイートされている。 なんで、同時代の人に厳しくて、先人には優しくなれるのだろうか? 人を理解するのに、いつ生きていたのか、なんて関係ないのかもしれない。共感されなかった言葉は、いいねもリツートもされず、どこかへ追いやられてしまうように、共感されなかった和歌も、みんなに無視されたんだろうな。その時、作者はどんなことを思ったのだろうか? 先人を尊敬しても