ハナシ、キキマス

「事故死できるなら喜んで人生を捧げる、ってお前な、それは成立せえへんで。」
「すみません…」という相槌を返すと、彼は私を見つめながら続ける。「ええか?事故死する、つまり死ぬってことにはな、人生を捧げるって事が内包されてるねん。つまりやな、含まれてるねん。イコールみたいなもんや。」
「はあ」
「だからな、お前の事故死と人生では交換できません、何かもっと別のもん捧げてください、っちゅうわけや。他にないんかいな、欲しいもんが。」
「なるほど…そうですね、ないですかね…」と言いつつ私はこうも説教されるならやめておけば良かったと、少し前の自分を後悔していた。

 20分くらい前だったろうか。私は日雇いの仕事を終えて、電車で自宅の最寄り駅まで帰ってきた。改札を出て左に曲がると、その少し先で路肩に座るおじさんが目に留まった。日が暮れたこの時間帯にはいつもそこにいるおじさんだ。瓶ビールの黄色いケースに座り、ケースの横には「ハナシ キキマス」と書かれた木の板が立てかけられている。彼の前には大人一人座れるくらいのブルーシートが敷かれているが、そこで彼に話しかける人を見たことはない。
 彼は厚手のコートを着てフードをかぶり、いかにもホームレスですという風貌で俯いて座っていた。いつもそこにある駅前モニュメントのような存在だから、前を歩く人達は彼に見向きもせず、慣れたようにブルーシートを避けて歩いていく。
 ちょうど給料を受け取ってきたばかりの私は、多少の無駄な出費でもしてやるかくらいの気持ちになって、声をかけることにした。聞いてほしい話がないわけでもなかった。

 おそるおそる近づいて止まると、おじさんは私に気づきこちらを見上げた。髭でもたっぷり生やしてるだろうと思い込んでいた私は、口髭も顎髭もなく皺すらない顔を見て驚いた。ホームレスではないのかもしれない。
 彼が「座りい」と言うので、ヒールを脱いでブルーシートに正座すると、私が彼を見上げるような形になった。彼は「ハナシキキマス」の板を裏返して、もう一度彼の椅子に立て掛けると、フードを外して私を見た。白髪混じりの天然パーマが露わになって、私は彼の年齢が分からなくなった。
「で、どないしたんや?」
「えー、あの、夢が見つからないんです」
 こういう類いの相談は聞き慣れているだろうし、ホームレスのおじさん──今はそうとは思えないおじさんがどういう答えを返してくるのか興味もあった。
「お前いくつや」
「20です」
「夢ないて、それは嘘やろ」
「いや、ないんです、夢って呼べるものが」「それはお前が夢ってかっこよーて綺麗なもんやと思とるからや。あるやろ、今一番こうしたいとか、これ叶ったらもう人生いらんわ、みたいな。それ言うてみ。」容赦なく捲し立てる彼に、私は意地になって、もうひとつ難しそうな相談をぶつけてみた。
「事故死、ですかね」
「事故死?事故って死にたいちゅうことか!?」
 あまり大きい声で言わないでほしいなと、後ろを通りすぎる人達の耳が気になった。
「はい、事故死できるなら、喜んでこの人生捧げてもいいですね」
   ここからはほとんどおじさんが喋るだけだった。事故死と人生では交換が成立しないことを熱心に語り、人生を捧げてでも欲しいものが他にないのか、事故死と引き換えに捨てたいものが他にないのか、などと問うてきた。希死念慮を止めることもなければ、その理由すら聞いてこない人は初めてで新鮮な体験ではあったものの、ほとんど説教のようなものだったので私はうんざりしていた。
「あんたは酒飲んでフラフラになって橋から落ちたら、とか、スマホを取ろうとしてベランダから落ちたら、とかそう思とるやろ?第一あんたはそこまで酒飲めへんし、あんたん家のベランダから落ちたところで死ねやせんやろ?」
「あんたはほんまは落ちたいんやない、飛びたいんや。飛んでみたら落ちれるで。バンジージャンプでも行ってきたらどうや?スカイダイビングでもええな。わしは絶対やりたないけどな。」
 そういうことじゃないんだけどな、と思いつつ、先ほど裏返された板に目をやると、そこには「ハナシマス」と書かれていた。おいおい、詐欺じゃないか。今や話聞いてくれるどころか、こちらがおじさんの話を聞かされている。

「……っちゅうわけや、分かったか?」
おじさんは満足そうに笑ったので、それが終わりの合図と思った私はヒールを履いた。
「はあ。ありがとうございます。」

 逃げるように歩きながらも私はおじさんの話を思い出していた。なんで、私の事故死が飛び降りって決めつけてるのよ。私だって高層マンションに住んでるかもしれないでしょ。バンジーに行って本当に事故死したらどうしてくれるのよ。それにバンジーもスカイダイビングも飛ぶっていうより、落ちるようなもんでしょうが。

 スーパーの前まで歩いたところで、お金を払っていないことに気がついた。おじさん、いくらかも言ってくれなかったな。財布の中に千円札があることを確認し、今来た道を戻った。
 そこにはもうおじさんは居なかった。黄色いビール箱だけが残され、駅を使う人達のゴミ箱代わりになっている。そこに私は千円札を放り込もうかと思ったけれど、明日直接渡そうと思った。

 

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