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呪いへのカウンター、祝いへのアンサー/場づくりという冒険

先月「場づくりという冒険オンラインスクール」に登壇させていただく機会があり自分にとって場づくりって何だろうと、悶々と考えていたら梅雨が明けていた。夏ですね。

登壇の締め、自分にとっての場づくりをこのようにまとめた。

場づくりとは・・・

・人という呪いからのリアル脱出ゲーム

・人というお祝いへのアンサー

その2つが陰陽模様のように1つに織り成して
自分は場づくりと呼ばれる営みを行なっているのだろうとまとめた。

人という呪いからのリアル脱出ゲーム

「語りえないことについては、​沈黙しなければならない」とヴィトゲンシュタインは言った。「人となれば自在ならず、自在なれば人とならず」と南方熊楠は言った。

人という呪い。この世を知り得る限界の領域があらかじめ決められている。それは有刺鉄線が張り巡らされた境界というより、柔らかいシルクで作られたセーフティーネットのように思う。その境界があるから人は人として保っていられるのだ。

誰かが引いたやさしい線引き。その先を求めてしまうのはどうしてだろう。遺伝子による導きだろうか、熱力学による物理法則だろうか。

場は身体にフィードバックをもたらす。身体は場によって動いていると言っても良い。暑ければ汗がでるし、人が多けりゃ馬鹿になる。未だここにない場を体験すれば、未だ現れてない思考が生まれるのではないかという仮説。

そしてその思考は体験した場の常態化を試みはじめ、社会実装され文化と化し、その環境はやがて人間という生物を進化論に則って変化させるのではないか。

歴史というアーカイブが機能する限り、民主的な政治が運用され続ける限り、変化の数や幅だけ多様性を包括することができるであろうから、変化率を上げる発火点は、最大公約数的にあったほうが良いのだと思う。

この超克と変化のベクトルに対する制限を呪いとすれば、それに対するリアル脱出ゲームとして、自分は場づくりをしているのだと思う。

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人というお祝いへのアンサー


それと同時に、人とはお祝いである。

この世で最初に享ける言葉は、おめでとうかもしれない。

自らを俯瞰して自認できる意識があるから、全体を観察して意図を介入し調整ができる。言葉を用いて社会や文化を更新し多様な個体差が保障された。食べて寝て排泄して戦って逃げて生殖するだけでない、生き方を選ぶことができる。死に方を選ぶことができる。

すべての人類へ、おめでとう。

そんな気持ちもある。受精の段階で凄まじい競争を勝ち抜いて今ここにいるのだ。

だからこそ、人は人のために祝福したい本能があるように感じる。他者貢献は自らの幸福で、他者と繋がることは遺伝子に安心感を与える。

場は、人と人が、新たな選択肢が、異なる哲学が、必要な発想が、偶然の幸福が、楽しさと切なさが、怒りと高揚感が、悲しみと嬉しさが、異なる生物種が遭遇する。交わって、時にはぶつかる。時には1つになる。一生ものの出会いが生まれるかもしれないし、粒子加速器のように衝撃的な発見をもたらす可能性もある。

場づくりは、人というお祝いをうけた自分から、世界へのアンサーでもある。交わりを生んで1人でも多くの人に幸せとユリーカがあるように。感謝や、祈りの気持ちの表明だ。

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場、とは

そんな2つの思いが同居して、場づくりをしていると思う。
2つはどこか矛盾しているようにも見える。でも、本当のところって大体矛盾しているのだ。この世の概念はそうやって生まれているのだから、堂々と自己矛盾をして胸を張っていたいと思う。

さて、ここまで書いてきて更にもう1つの問いが生まれた。

「自分は本当に場づくりをしているのか?」

なぜなら「場」とは、すでにここにある。

宇宙全体が1つの場であり、体内の細胞1つ1つが場であり
未来に生まれ得る可能性もまた1つの場であり、失われた過去もまた1つの場である。渋谷という街1つにおいても人の数だけ何百の場が重なっていて、経年変化していくものでもある。見えないだけで、場は幾重にもここにある。

本当に自分は何かを創っているのだろうか。
もしかしたらただそこにある場に名前をつけて、大きな場から区分しているだけなのかもしれない。

文明の発展とは分け(隔て)ることであり、既に多くの区分けがなされている。例えば資本主義、ジェンダー、小学生、港区女子、ヒッピーなど。多くの人は何かしらの属性の上でカテゴライズされている。

ただそこが居心地の良い場所であるとは限らない。それでいいならそれでいいけど、少なくとも自分は「自分でつくらなきゃ居場所はないな」と思うようなことがあった。

だから場を名付けてきたし、その場に居心地の良さを感じてくれる人が集まってくれたから、より全体が安心な場となってきた。市場規範の上では分ける価値のない場づくり。10万人に1人のための居場所。何より自らのための逃げの区分け。

ちなみに場とコミュニティは近くて違くて、見知らぬ他者たちとグループを名付け共同体感覚を得ていくだけが場ではない。他者どころか人間以外の生物、未来の可能性、過去に生きていた人たち、実在しないキャラクター、神や精霊、空想の思考哲学、あの世、など形而上学的な概念まで包括する。

体内もまた場である。30億個以上の細胞全てに微生物が潜み、人由来のものからそうでない来訪者まで、多様な生態系のコロニーとして機械的に機能している。万物はエントロピーが増大する流れにある中で、細胞膜により領域を囲い場をつくることでその中だけは秩序が許され、生存の営みを行うことができている。

場は現象としてそこにできただけであって、自然の営みと観察の結果によるものしか過ぎないかもしれない。これまでつくってきたと錯覚してきたすべては、自然の営みや人とのご縁の結果あらかじめ生まれるべくして生まれてきた未来の足跡で、これからつくるものも実はもう全てここにあるのだろう。そういう意味では時代や芸術という観念と似ている。

(とはいえ「自分」や「創造」がないと物語は干からびたものになってしまう。想像力で水をつくり、物語を潤すからみずみずしい人生が送れるってものだ)

場のための場のための場のための場、、といった具合に入子構造が成り立つ場という概念の行き着く先は無の世界(=ゆらぎ)か、あるいは全宇宙の粒子配列がコントロール可能な全知全能な世界線か、どちらにせよ「良い場」ってなんだろうという問いは普遍的なものに思う。

良さの関数、これが難しい。人には人の、タコにはタコの、ひまわりにはひまわりのいい感じがあり、その中にも更に幾重にも個体別のいい感じがあり、場づくりとはそういった環世界にまで想像の手を伸ばしていく冒険なのかもしれない。






「こんな未来あったらどう?」という問いをフェスティバルを使ってつくってます。サポートいただけるとまた1つ未知の体験を、未踏の体感を、つくれる時間が生まれます。あとシンプルに嬉しいです。