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アートって世の中に必要?を考える。


1月21日〜2月5日の期間にKUMAMOTO CITY ARTIST WEEK」が開催される。
熊本市政令指定都市移行10周年を記念して、熊本市内各地のスポットで、文化芸術イベントを実施するといったものだ。
僕はありがたい事にこの2週間の間に3つのスポットで、それぞれライブをさせて貰っている。

それもあってか、今週は改めて「アートとは?」という事について思考を巡らせているので、良い機会にアウトプットしていこうと思う。


まず、アートとは何か?を先人達はどんな言葉を残しただろうか。
アンリ・マティスは「芸術は現実からの逃避である」と記した。
マティスの場合は滅びゆく身体に合わせて作風を変化させていったことから、何となく言ってることもわかる気がする。老いや病、死が現実なら、それを認めながらも創作の手を止めなかったことはある種の逃避かもしれない。
フランク・ザッパはアートを「無から有を生み出し、それを売ること」と言ったそうだが、芸術とは必ずしも経済と結びつくものだろうか。詩人のボードレールは「美しいものは常に奇妙である」と言った。これはまた価値基準が少し違って面白い。

岡本太郎の「芸術は爆発だ!」はとても頭に残るキャッチコピーであるが、派手な言葉の印象とは裏腹に『今日の芸術』という著書では「芸術は生きるよころびである」と書き、そして逆に"現代人は部品になった"と、人が社会的生産のため働き、何かを作るという生活の中に、"ほんとうに創っているというよろこび"が不在することを嘆きます。芸術は生活そのものの問題。中々に興味深い着眼点です。


さて、僕はどう思うか?

あまり悩まずに答えが出る。

「芸術は、日常だ」と。

僕も以前は「アーティストになってやる!」と思っていました。
それはどういう事かというと、わかりやすく有名になる事や、誰かの賞賛を得る事、自分の表現だけでお金を稼ぐこと(アートで食っていくこと)を成功とし、そこに向かって邁進していたということです。

でもその結果、自分自身や自分が作りだすものと他人のそれを比較して、自分を追い詰めたり、他者に認めてもらえないことに勝手な疎外感を感じて、世の中を斜に構えて見ていたように思います。
実に勿体ないことをしてしまった。もっと自分を認めてやればよかった。

さてさて、そんな風潮は僕の中にしかないものでしょうか。
現在の日本の一般社会におけるアートに対する感覚はやはり「特別視」であり、"常人"には出来ない表現や感覚を"非常人"と認識した上で、何やら「すごいモノ」にしてしまう部分がどこか存在するように感じてしまいます。

しかしアートを特別化し、"すごいモノ"にしてしまうのは、そのほとんどがメディアによってもたらされた印象だと思う。

熊本県には沢山の古墳があるのだけれど、例えば装飾古墳を見てみると、そのデザインや色彩はアートそのもののように見える。
しかしそれらは、果たして誰かにすごいと思ってもらうために存在したのだろうか。
その一つ一つを刻んだ人たちはすごい人として名前が残されているだろうか。
名も無い人たちの日常が、時代を超えて鈍く輝いているように見える。

こう思えば、アートも民藝や手仕事に通じるものがある気がしてくる。
例えば古くから残っているような焼き物にしてみれば、ある地方で作られた物だという事はわかっていても、誰が作ったかまではわからないものも沢山ある。
名のある物は高く売れるかもしれないが、名も無きものは見向きもされていないかもしれない。しかしそんな誰も気に留めないようなものが美しく見える時がある。そして、その作り手の事を想像する。
もしかすると、その名も無き誰かはこの器を作る時、只々楽しかったのではなかろうかと。ただその作るという作業が心地よかったのではなかろうかと。
勿論ただの妄想だが、目の前のそれが、誰かが心地よい時間を過ごした先に生まれた物だという可能性は十分にある。

その作り手の人生の、過ごした時間の豊かさを想像した時、これ以上のものがあると思えるだろうか。

僕にとって、アートはそういうものになってきたのかもしれない。
日常の、心地よい時間の延長線上にあるもの。
ただとめどなく、自分の内から溢れてくるもの。
ただそれを塞ぎ止めないようにしよう。自然に、自在に、受け流そう。
力を抜いて、自分らしく。



民藝や手仕事もアートだとするならば、だれにでも出来ることであるとも言えるだろう。
ただ心地よく、自分の思うままに手を、身体を動かせば良い。そこに何かが生まれただけで、それはまさしく表現であり芸術である。

特別なことをしなくても、ただ料理をする、着るものを手直しする、そんなことすらもアートになりうるものだと思う。アウトプットであり、表現そのもの。
日常にあって、誰でもできる。

表現する人が増えることこそ、アートを"すごいこと"にする以上の価値があると思う。
間違いなくみんなが心地よく暮らせるだろうし、表現者同士でお互いの表現や、その中にある自分とは異なる部分を、認めたり讃え合えるなら、その場所からとてつもないエネルギーが生まれてくるのではないだろうか。

みんな誰でもアーティスト。そんな気持ちが伝わればなと妄想しながら、今回のARTIST WEEKのステージに立っています。

タイトルの「世の中にアートは必要?」の僕なりの回答はこれ。
『自然に、湧いてくるものを止めることは出来ない。必要かどうかという価値基準で図ることは健全ではない。』

塞ぎ止めずにそのまま流していく。そんな気持ちで、やわらかくやわらかく。


最後に。

我々ホモ・サピエンスは歌を歌いますが、その他の生き物にとっての歌とは、そのほとんどが繁殖のためのアピールや情報の伝達の方法です。
しかし実は、同じ猿人類の仲間であるボノボやチンパンジー、そして最近はゴリラも、食事の際に鼻歌を歌っているという研究結果が発表されています。

興味深いものですね。

猿の仲間たちも我々人間も、さほど変わらないのかもしれません。彼らは特に、その歌が誰かから評価されることなど気にも留めないでしょう。

さて今日も、ゴリラのように気分良く音楽を紡いでいきたいと思います。

皆さまも良い一日を。

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