On Co-me Da U?(この7月にコウメ太夫のツイートを見なおして改めて驚いたのでしたためた長文。色々脱線を含む)

1.びっくりした

2021年7月17日のコウメ太夫の呟きを見た。衝撃を受けた。力を感じた。

まず卍や波括弧{}、波線符号~の使い方に面食らった。内容面でも、だしぬけに「牛とハナクソのあいびきハンバ~グのように」と不可解な物体が飛び出したと思ったらそれが空腹時につい一口(実際は「~口」と波線なので「ひとくち」なのかもうわからない)を誘われる料理の例として提示されたことに戸惑った。その上で、答えとして「牛の乳ソ~セ~ジ」(まだわかるが、……牛乳ではなく乳肉という意味か? よく考えると惑乱させられてくる)、「プ~ルの後だねヘドロパフェ」(ヘドロとパフェとの合成はハナクソと牛との合成の類例だと飲み込めるにしても、手前の「プ~ルの後だね」という呼びかけがなぜ修飾として付けられているのかわからない)、「にせプリン」(何?)が奇妙な段々の字下げを伴いつつ畳みかけられ「チクショー!!」で結ばれる。もはや「と思ったら」「でした」「チクショー!!」の形も崩れている※1。私は、実は、今までコウメ太夫の「まいにちチクショー」のそれほど熱心な読者ではなかったから、ほんとうにびっくりした。

※1お笑い芸人コウメ太夫(1972生)はTV番組『エンタの神様』に2005年頃から出演し(小梅太夫名義)、芸者風のいで立ちで「チャンチャンカチャンチャン……」と口遊みつつ「と思ったら」「でした」「チクショー!!」等の紋切型に代表される話芸(というより顔芸と絶叫芸?)を繰り出すことによって人々の耳目を集めていた。2016年頃からSNSのTwitterの自アカウント上で「#まいにちチクショー」とのハッシュタグをつけた投稿を開始か。

それでコウメ太夫のツイートをざっと読みかえしつつつくった長文がこれ。

2.話題だった

コウメ太夫のツイートに関しては、すでに繰り返し論じられており、ちょうど今年の6月に、長らく当人のツイートを注釈してきたアカウントがそれらの力の所在を論じていた。曰く、それらのツイートは、意外性によって笑いを生む小咄になり損ね、脈絡を欠いてしまっており「つまらない」が、ゆえにシュールである、と。記事は「まいにちチクショー」の力を、そのようなものとして、すくいあげようとしている(そういう仕方で批評している)。

私はこの書き手(コウ・メダユー)とは別の観点で「まいにちチクショー」の力がすくいあげられるのではないか、と思っている。……というのは言い過ぎなのだが(というのも現状、私はその観点を明示できないので)、漠然と、そういう予感はしている。例えば、自身のツイートを評する上記のnote記事ツイートをRTした後、コウメ太夫は以下のようなツイートをしている。

たしかに突拍子も無い。しかし、内的な一貫性のようなものは感じられる。コウメ太夫のツイートは「つまらない」ものも少なくはないが、しばしば、それらの形容には収まらぬものを含んでいるように感じる(これは私が哲学者コウ・メダユーと感性がずれているという話なのかもしれない)。このツイートを私なりに注釈するなら、1972年生まれ=2021年時点で49歳である者が「私は18歳」と断言する不条理さがこのネタの中核であり、それは歴史の重みを断ちカタカナで"ゲイシャ"と記した方がしっくりくるかのようなスタイルで割れかけた裏声で唄うというコウメ太夫の確立されたキャラクター像と相まって、"オッサン"が"青春"の記号をまとうという振る舞いを通して(「18歳」は実体を伴わない加工された青春の記号だ)、オッサンに限らぬ生身の人間一般が"芝居がかった"アバターを体現し続ける構造に不可避に伴う無理が醸しださせるような諸々、すなわち外野から見えるその滑稽さ、内側から滲むその悲哀、それを存続させる無情な機構、それら一切を背負いそこにある身や芸の切実さ、そういった悲喜交々※2をも、私に覚えさせるのではあるが、これがそれ自体で笑える意味内容かと訊かれれば、その水準では、笑いづらいというか何か頭を使った気分になってしまう(声音や表情が伴うと話は変わってくるのかもしれない)。だが表記の水準も交えると、私は簡単に"釣られる"。つまり私は括弧の不統一にトドメを刺されて笑いだしてしまうのである(メダユー注釈的「シュール」とは別様な気もする)。

※2生身が記号をまとうことに伴う悲喜交々に関して。例えば、コスプレのことを考えるとよい。ひとのコスプレを、あの年齢では痛々しい等と品評する仕草の悪さは凝り固まり有害になってしまったタイプの発達段階説にも相通ずる。そもそも地位年齢身の丈に相応の装い振る舞いとは全てコスプレの類いではないか(魅力的な物語のキャラクターのコスプレよりも面白くない場合が多いにせよ)。子供が大人のコスプレをしているとか、中年が若者のコスプレをしているとか言って、その子どもや中年の言うことやることを真に受けなくていいとするのは(年長者や幼少者への配慮や分別ではなくて)年功序列の規範をよしとしてしまいがちな世間の常套手段ではないだろうか(もっとも、そうした軽侮に妨げられる一方で、その油断を利用して一発かますのもまた子供や中年の常套手段だと言えなくもないが)。中二病や邪気眼という語は、この観点でも重要だ。すぐさま思い出されるであろうものは『中二病でも恋がしたい!』(2011年小説版第1巻刊行)や『STEINS;GATE』(2009年ファースト版リリース)のような「中二病」を意識的に演ずる所作が物語において重要な意義を帯びていた作品群だろうし、それらの嚆矢と言えるであろう田中ロミオ『AURA 〜魔竜院光牙最後の闘い〜』(2008年小説版刊行)であろうが、さらに遡れば、ハルヒ(2003年~)やブギーポップ(1998年~)自体が、役割を演ずること、引き受けることをめぐる自意識を、物語の(特に第1巻の)なかで中核的な主題の一つとしていた。同時代のアメリカでは離島での自分の人生自体がTV番組の企画だったと気づいてしまう映画『トゥルーマン・ショー』(1998年)などがあったわけだし、そうしたスペクタクル社会批判論(ドゥボール風の)めいた、悪しき上演劇としての日常世界の是非をめぐる自意識のドラマはこうしたオタク作品に限ったものでもない。思えば、日常の裏の(真実の?)世界が大衆に露見しないように苦心する人々の姿が描かれるという点に着目するなら、ハルヒやブギーポップが比較されるべきは映画の『メン・イン・ブラック』(第1作公開は1997年)なのかもしれない。……等々と現在でもよく名のあがる作品群をざっと挙げてみたが、とりわけ私がこの観点から熟読玩味してみたいと思ってきたのは、タレント志望の学生たちが織りなす青春模様自体が物語世界内で放映されているリアリティ・ショウとなっており、読者の目線で見ても物語世界内の虚構と現実(あるいは放映される内容のどこからどこまでがヤラセではないのか)の境が崩壊したまま進行するラブコメ作品である、山川進『学園カゲキ!』シリーズ(2007-2009)や、その他の様々なライトノベルやネット小説なのである。……が話がコウメ太夫から遠く離れてしまった。とはいえ、なにがしかのキャラを戯画的にまとうことと、それが喚起させるある種の自意識のモード(いわゆる"世界劇場"的な観念を背景にした日常脱出、あるいは日常保守管理――ケアやメンテンスの重視と身内贔屓=排外主義や生活保守の容認がここで混濁する-―などをめぐる強迫的なイメージ)が肝要である点ではコウメ太夫から学園カゲキまでの私の思考の流れは一連なのだが。

あれこれ書いたが、ともあれ、私はコウメ太夫のツイートがもよおす体験の質が、意味の水準で「意外性」を感じさせるかどうかに拠るものから(コウメ太夫自身が何かセオリーを意識して制作しているかはわからないが)表記の水準で(いってみれば問答無用で?)笑いを引き起こすある種のナンセンスへと変貌しつつあるのではないかと感じており、以下でそんな話をする。

3.「潰れました~」の5年間

意外な笑いから意味不明の笑いへ。コウメ太夫のツイート群における生成変化をとりあげてみよう。より解読不能で、よりタイポグラフィカルで、よりナンセンスな笑いへとひとを誘うものへの、である。

最初期の「まいにちチクショー」は例えば次のようなものだった。

これは、役柄「コウメ太夫」を受肉する生身の生活雑感を、年来の持ちネタ「チクショー」の型で報告したツイートと解せるし、その内容も、己が身の不運を笑いとして提示する「自虐ネタ」として、了解しやすい。発表時期的にも、同じくエンタの神様でゼロ年代にブレイクした芸人ヒロシが日めくりネタ帳によって再ブレイクしたのが2015年から2016年にかけてだったことが想起される(今ではその後のソロキャンプでヒロシは知られるはずだが)。

これと同じ「潰れました~」型のネタが、約5年を経て、こうなっている。

時事ネタを取り込んでいるのだが(ワクチン接種に伴って報道されたいくつかの不正や不備のニュースを踏まえているのだろう)、おそらくパチンコの広告の「打ち放題」やコウメ太夫を象徴する「チクショー」や「白塗り」などがミーム汚染とでもいうべき形で文面に入り込んでおり、字面過剰すぎてヘンな笑いが出てくる感じになっている。ちなみに上のツイートはまだ読み上げ可能であり、比較的"やさしい"。"やさしくない"と以下のようになる。

読み上げ困難でなくとも、もう指示対象がわけわからなくなってしまっているツイートはほかにもいくつかある。以下は、発音可能だが、対象不明だ。

名詞の合成だとはわかるのだが、そんなものないというか自由連想だろというかその予測変換暴走剛速球やめてくれえ的な気分にさせられる例もある。

ちなみに、さっきの「白塗りチクチン」の先行例と思しきものもある。

もっとも、やはり意味は不明だ(ただし、いわゆる文字化けではない。またランダムな文字列と言うには、あまりに紋切り型的に秩序だっている)。

先に掲げた最初期と現在とのあいだには、こんな過渡期たちがあった。

元は実景を踏まえていたのかもしれないネタは、その形式だけが遊離し、自律し、暴走していく。コウメ太夫のネタとそれを弄る人々の麗しい(?)フィードバックループがあったというわけだ。さながら空欄を埋められるならどんな単語でも用いるバグったロボのように(?)、いくつかの型が次々と語を交換しつつ反復させられる。

それが「まいにちチクショー」だったのであり、その反復の果てに(外野からの弄りという)砂粒の入り込んだオルゴールが途中で爆発四散して中からビオランテが出てきたかのごとき生成変化がこうして招来していたのだ(うわついた形容をどうかゆるしてほしい)。

私は「まいにちチクショー」のような、紋切り型が重なるうち何周か回ってというか回りすぎて結果なんだか言語実験なんじゃないかみたいな心地にさせられてしまう瞬間に病みつきになっており、それは政治的で美的な体験の契機だとすら思っていて(……という放言は、さすがに諸学知をないがしろにしすぎであることは自省する。筆が滑った。とはいえ)、例えば以下のようなツイートが発せられておりウケてしまう以上、笑いを(失笑や嘲笑も含め)催すナンセンスや紋切り型を政治的美的なものをめぐる学知に即して考えるべきと本当に思っている。

いまや行政機関ですらナンセンスギャグ作品を広報で援用する時代だ。笑いと動員の関係は言うまでもなく、個々の気分の軽重を誘導できるなら、それが薬理学的手法であれ修辞学的手法であれ美と政治の話なのは確かだ※3

※3言語のナンセンスな使用と政治と美に関しては、例えば、幸村燕「文学者・小泉進G郎の崩壊」(2021)といった作品がうまく形にしていると思う。権力者や公人やインフルエンサー(に代表される主義や組織や風潮)を批判する一手段として、それらを戯画化して茶化すという行為は日常的に実践されているが、本作は笑われる対象自体を(この小説の作者を含むであろう)文学者のひとりとして造形したことで、そうした戯画化や茶化しが陥りがちな他人事的嘲笑(あるいは自分事的悲憤慷慨)へと読者を安住させることなく、失言や詭弁の愚劣さに憤り批判する所作が言語能力の低劣さをおちょくり笑い飛ばす所作と交差する境界で、うまく思考を走らせることに成功している。また、いわゆる「進次郎構文」などを扱き下ろしの具以上の何かとして血肉化したこの小説は、たぶん矢野利裕「言葉のままならなさに向き合う」(2021)が問題とするような「一義性の時代の文学」の問題意識に照らして読みうる一作だと思う。この関連で私自身が特に取り組みたいのは政治談議における迷言とミステリにおける迷推理の比較である。以前、私は道端さっと『明智少年のこじつけ』第1巻(2012)における「こじつけ」の質に、推理談義を続けること自体が(真相解明とは)別の目的に使用されているという点から注目しそこにおける言語使用の政治性に関して論じたことがあるのだが(「閉じた日常のつくりかた:道端さっと『明智少年のこじつけ1』(2012)評」)、この作品に見られた類のナンセンスな言語使用の政治性は、例えば「募集」と「募る」の差異を強弁するような言語使用の政治性とも相通ずるものだったのではないか、と私は思いなおしつつある。自己諷刺すれば、それは言葉遊びだと断ずれば茶番を悪魔払いできる社会にもはや生きられずある私はいまや魅力の乏しい不思議の国で狂ったお茶会に否応なく興じさせられていることになるのかもしれない。これが私の進めたい考え事だ。

次はコウ・メダユーと板垣退助とドゥルーズ+ガタリなどを参照した読解。

4.「この世とあの世もいってかえって扇風機」

私はコウ・メダユー記事に従えば「つまらない」に括られそうなツイートでも笑ってしまうタチ(記事に従えば"一般的"ではない感性)なのもあり、記事で言われているタイプのシュールさとは別様のポイントをコウメツイートから引き出して語れないかと思って試行錯誤しているわけだが、とはいえ、コウ・メダユー的な仕方で解すと深みを覚えるネタもある。例えば、これ。

それに対するコウ・メダユーの注釈は以下のとおり。

もちろんメダユーの注釈のスタンスとは褒め殺しであり、そこでコウメ太夫は、言ってみれば『魔法科高校の劣等生』におけるお兄様(司波達也)のポジションに置かれているわけで、ネット小説によくみられる「勘違いもの」の主人公キャラと解説キャラのような関係性がここで形成されているわけであり、「コウメ太夫」のツイートの「哲学者コウ・メダユー」による注釈とは、いうなれば、手間をかけた「さすおに」なのであって※4(だから笑える、という話になっているのだろう)、だからそれは真に受けるよりそんなん考慮しとらんやろと一笑に付すべき"大予言"的注釈(滑稽化した星占い)なのだが、少なくとも今回のこの注釈は、真に受けても味わい深いと思う。

※4なお「魔法科」を用いた説明がピンとこないひとは『オーバーロード』のアインズ様とか『乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…』(略称「はめふら」)のカタリナお嬢様とかを想起してもらえればよい。主人公の言動がやたら深読みされてしまい、それでなぜか状況が進展して、主人公の歪像がますます膨らんでいく、みたいな物語世界内での一連のドタバタを読者が滑稽に面白がる物語ジャンルのことを念頭に置いて私は「勘違いもの」と言っている。まだアニメ化されていないけれど、もっとわかりやすい形の作品だと槻影『嘆きの亡霊は引退したい』とかがそれにあたると思う。主人公の言動が周囲に大袈裟に(天才=天災的に!)受け取られドタバタのなかで嘘が真になってしまうような様子を外野として楽しむこの「勘違いもの」ジャンルは、その淵源を辿れば、原作世界の疑問に無粋なツッコミや高度な邪推などを交えるタイプの無数の二次創作小説群に辿りつく。例えば『幼女戦記』はこの「勘違いもの」の土壌から花開いた一作だし、「原作知識」ゆえの行動が裏目に出るもなぜか好意的に解釈され状況が思いがけずよく変わるという「はめふら」的物語の先駆的形態と言えるはずのゼロ使二次創作の傑作「幸福な結末を求めて」なども「勘違いもの」に属するが、詳細は他日に期す。ともあれ「勘違いもの」とは繰り返される主人公の褒め殺しを外野=読者がアイロニックに眺めるのを基本形としている。

先のメダユー注釈は当該コウメツイートを「コウメ太夫」の自己言及と解しており、「扇風機」に「輪廻思想」を重ねるなかでキャラクター「小梅氏」が「チクショウ」と叫びながら死んだり生き返ったり死んだり生き返ったり循環する様子をイメージさせることで読み手に笑いを催させるのだが、まさしくこれはキャラクター論における「死なない身体」の問題に即した範例的イメージになっている(WEBで読める関連論考として以下を掲げてておく。徳久倫康「死なない身体の殺しかた」2011)。紋切り型のスローガンやミームは、それを口にする生身の人の個別性を捨象させ、ある「死なない身体」つまりキャラクターの容れ物に過ぎないかのように思わせてくる。例えばこの筋で、労働における人間疎外というものを、キャラクター化を強いられて個々人の"素”が抑圧される弊と解しうるだろう。また政治談議で対立する双方が相手を人とも思わないように扱う場合があるのも、この筋で解せるだろう。敵キャラ役をやっている相手であれば、その個々の半生や事情など、どうでもよくなるわけだ。ここで展開されているのは(ゼロ年代批評などが扱ってきた)キャラクター論を政治的なものの次元で展開した諸イメージだ。

現在は(SNSが象徴する)汎キャラクター化、汎アカウント化の時代だと見られがちであり(この方向で捉えれば分人主義とは別アカ使い分けの話になる)、そこでは誰もが政治家や芸人のようにキャラを演じさせられ、ミームに乗っ取られたように紋切り型で(あるいは話題を取り扱う際のドレスコードに即した語彙で)話すことになっている(だから疫学的に表象の伝播の過程が計測される)。そして時には、大勢にとって都合がよいオピニオンを発するために"復活"させられたりさえするのだ。さながら「死なない身体」(キャラ)の維持管理のために身体を(ひとつ、あるいは、たくさん)使い潰しているかのような事態がそこかしこで間々みられる。しかし、実のところ、それらは新しいテクノロジーなりメディアなりプラットフォームなりが生まれたがゆえに起きた問題ではないのだ。そのことをもコウメツイートは示唆している。「白塗り死すともチクショウ死せず」、この一文の元ネタはまさしく記号化され、「この世とあの世もいってかえって扇風機」させられ続けているある政治家(の言=ミーム)だった。――板垣退助(1837-1919)。

時に午後六時、天地蒼然、夕日将に西に沈まんとする頃なりき。板垣靴を穿つて起ち、傍に立てる接待員と覚しき四五の人々に一礼し、行くこと二三歩、忽ち一壮漢あり、其人々の中より現はれ、国賊と呼びつゝ右方の横合より踊り来つて、短刀を閃かして板垣の胸間を刺す。[……]板垣刺客を睥睨し、叫んで曰く『板垣死すとも自由は死せず』と。神警の一語、満腔の熱血と共に迸り出で、千秋万古にて凛冽たり。
(宇田友猪・和田三郎編『自由党史』上巻p592-593。一部字体を改めた)

板垣が刺された岐阜事件(1882年)から18年後(1910年)の記述、この時点でもはや板垣は存命のままキャラクター化され、発言もまたミーム化されており、それはすぐさま(1915年)クソリプ的毒舌芸のネタにされてもいる。

『板垣死すとも自由は死せず』とは、遭難当時彼が絶叫せる、殆ど千古不磨の言として時人に伝称されたれど、何の因果か板垣死せずして今尚ほ生き、而かも自由党の本領は林有造一輩の徒に依て殺されて居る始末である。
(宮田幽香『嘘の世之中』p4。一部字体を改めた)

板垣の"名言"込みのキャラクター化、ミーム化の過程について記してもある中元崇智『板垣退助』(2020年)では、板垣が岐阜事件で一言一句巷間に流布した通りの発言をしたかはともかく(別人が言ったという説も種々あるらしい)、この事件以前から板垣は"自由"や"死"を含む類似発言を残していたと指摘している。斜に構えて見れば、この偉大な政治家はさながら日頃から鍛錬を重ねてきた芸人のように、突然の危機におけるリアクション芸によって"伝説”を築きあげたと評せるだろう。もちろん板垣が命がけで身体を張っていた――まさしく文字通り"洒落にならない"生活を送っていた――のは、確かなはずだ。しかし、上で触れたようにそれも"伝説"化され、"名言"はミームと化し、ネタになってきたのだ(そして先のコウメツイートに至る)。

そんなわけで、生身の人間はキャラクター「板垣退助」と化しあのミームが思い起こされ流用される度に生き返って死んで生き返って死んでを繰り返してきたのであり、その遠い末裔が「白塗り死すともチクショウ死せず!。」であり、あれは時代も職業も異なるもののマスメディアの中で記号化されオモチャ的に消費されるコウメ太夫自身を含む"有名人"たちが範例をなすこの言論空間のミクロで政治的な力関係の網の目が(生身の命を絡めとりつつ)繁茂して伸び行く様子を幻視させる、そんなネタだったのである(別の話。同ネタではエクスクラメーションマーク「!」に続けて句点「。」を打つというエキセントリックな記号使用も当然のようになされており、そこにも驚かされ心動かされる。また他のツイートでも同様の記号使用がみられる)。

板垣の名言を改変したネタだけではない。コウメは板垣のような過去の人物だけではなく時事的な"政治"の話題もしばしば紋切型に飲み込んでいる。例として東京都議会議員選挙投票日にされたふたつのツイートを挙げておく。

ということで、全てが記号=キャラクター(character)になる(なった)。「汎」記号化。そうしたパースペクティブでほかのツイートも捉えてみる。

これはどんな料理でも量化された栄養成分に帰せしめてしまい、個々の料理に伴うはずの質感やその料理の制作過程といった食体験の幾つかの側面を後景化させるある種の(偏向した)"食生活管理"を皮肉るネタと解す余地もあるが(その場合、ある種の"ディストピア飯"ネタとしてこれは評価できるだろう)、ここまでの文脈に即して考えるなら、一切が「宇宙エネルギ~」として無作為に列挙される(そして恣意的に編集されその都度再解釈される)ことのできる(その限りで"平等"な)記号と化している地平、そんな汎キャラクター的(一切が擬人化イラストや意味深な暗号のネタになる)地平で、一切の物事を捉えるという、そういう姿勢をこそ打ち出したものと解せる。

その「汎」記号化なる(悪い?)夢を真に受け、行くところまで行く欲望に解放を見出す向きもある。例えば次のような文章に解放を学びうるだろう。

ここには根源的なものは何も存在しない。それは『モロイ』の有名な一節が示すとおりだ。「真夜中である。雨が窓ガラスを打っている。真夜中ではなかった。雨は降っていなかった。」ニジンスキーは、次のように書いていた。私は神である私は神でなかった私は神の道化である。
(ドゥルーズ+ガタリ『アンチ・オイディプス』文庫上巻p151、宇野邦一訳)

すごく摘まみ食い的に、ここでは"行くところまで行く"のを(社会の現状の悪いところもひっくるめた維持と再生産に役立ってしまう程度に)中途半端に抑圧し飼いならす機制が『アンチ・オイディプス』(AO)においては"オイディプス"と呼ばれていると解する(AOは概して欲望は革命的で抑圧はよくないと論じているが、なぜ世間で夢見られて時折は実現しもするたぐいのやりたい放題のイメージとはかくも貧相で陰惨であり、その貧相で陰惨な放埓よりはマシだと抑圧すら欲望されるように映るのか、この悪い意味でバランスが取れてる感じは何なのかを問うてもいる。その問題は大事に思う)。

「狂気の系譜学者は、器官なき身体の上に離接の網の目を縦横に張りめぐらせる」(AO上p152)。通例では"食いあわせが悪い"し"並ぶわけもない"、諸々を接続すること。"雅俗混淆"、それも"雅"の脱権威化や"俗"の再権威化のためでなく、特異で、必然で、内在する運命の体現を見出すため接続すること。それがAOに記された、解放的な解釈の姿勢である。それは滑稽だが真顔の星占い、そのマジ感の強度を言挙げることでもあろう。記号を横断しながら走る欲望を追いかけ、やむに已まれぬのは何か分析すること、"食パンの8枚切り"を"宇宙エネルギ~A"と捉えて「チクショー!!」するツイートをよすがにしながら、そういう目や脳の使い方へと思いを馳せることもできる。

これを、キャラクター論の文脈に即して言いなおすなら、グッとくるキャラクターやシチュエーションやカップリングやそこでの仕草、そうした諸々を横断して見出されるような、ある"尊み"や"やばみ"、その質感を言葉で捉える姿勢となるだろう("セカイ系"や"感傷マゾ"などといった新たなジャンルないしタグの発明もまた、こうした試みの一例と解せるかもしれない)。ドゥルーズ+ガタリは、様々なキャラクターと化し(自分は○○で、××で……)無数のアイデンティティを渡り歩いていく「狂人」の姿勢を、こう評する。

「自分のことを誰かであると思い込んでいる」などと、狂人について誤ったことがいわれているが、ここでは決して他の人物に同一化することが問題ではない。まったくべつのことが問題なのだ。つまりもろもろの人種や文化や神々を、器官なき身体の上の強度の領野に同一化させ、様々の人物たちを、これらの領野を満たす諸状態に同一化させ、またこれらの領野を、閃光を放ちつつ横断する諸効果に同一化させることが重要なのである。こうして名前自体が役割を果たし、固有の魔術を発揮する。[……]ジャンヌ・ダルク効果、ヘリオガバルス効果。
(『アンチ・オイディプス』文庫上巻p168-169、宇野邦一訳)

ここでは、一連のキャラクターやミームを既製品の診断表や問答集に従って分類し処理するのではなく、一連のキャラクターやミームから自分が受け取ったもの(強いられた思考=新たに考えさせられたことや、感じさせられた手ごたえ、抱かされた気持ちなど)を掘り下げるためにこそ、それらのキャラやミームを核に据え、掘り下げている姿勢が記されているのだと思う。

こんな風にAO(や『千のプラトー』など)は、マジで色々なものを繋げることを考えている(と私はざっくり理解している)。ということで(?)以下のコウメツイートをここで繋げてもよいだろう。――ベケットでニジンスキーでコウメな笑い? 「ここには根源的なものは何も存在しない」(先のベケット『モロイ』を想起のこと)。ある"コウメ効果"に思いを馳せる。とある"脱力的"な笑劇の感覚に。――"神の道化モロイ-モラン太夫"の顔貌?

ここまで、コウメ太夫のいくつかのツイートから、ある種の考える姿勢、頭や心の動かし方の型、口や手などの使い方の型を、引き出そうとしてきた。ツイートを入力する生身のひとがどう考えているかの推定と言うよりは、あるキャラクターの振る舞いを形にすることを試みてきたし、この長文記事の残りの部分でも、それを続ける。ただし、ここまでの(とりわけここでの)解釈では、ツイートされた内容を辞書的な意味でつなげながら、深読みするのが中心だった(この節の冒頭で挙げた、コウ・メダユーによるツイート読解作法に倣ったつもりでもある)。しかしこれだけでは私がコウメ太夫ツイートで笑い出す理由の一側面をうまくすくいきれていない。表面の表面、すなわち字面上でのナンセンスな笑いの面を。狂ったロジックもどきからなるウナギ文的ナンセンスとは別に、バグった物尽くしからなる文字化け的ナンセンスもある。さらに踏み込んで行かねばならない(以下は、その話)。

5.圧倒的文字列

俗に「クソデカ構文」と呼ばれる言葉遣いの作法がある※5。次のパロディ的文章(2020年6月11日付)が知られている。そこでは修辞学で言うところの誇張法が乱発されており、そうした誇張の反復は修飾するものを強調しているのか陳腐化しているのか判然としがたい段階にまで至っており、その独特のアイロニー感(ネタ/ベタがその場でくるくると回転して休まらないかのような)を与える妙技は反復=誇張法とでも名付けたくなるものである。

※5「○○構文」なる言い回しに関連して。「構文」は文章の組み立てのことを指す言葉だったが、これらのスラング上での意味合いは、かつてならば「○○話法」と表現されたものに近しい(cf.東大話法)。こうした「○○構文」や「○○話法」の命名と運用は、特定の社会的属性を特定の語句の使用や頻出する修辞技法そして性格類型などに結び付ける分類学の様相を呈しており、実際に使われる際には、同類探しから物真似芸(cf.進次郎構文)さらに(疑似)エスニックジョーク(cf.おじさん構文)、さらには(疑似)ヘイトスピーチ(cf."Twitter構文腐女子が嫌い")など、様々な度合いの好意や嫌悪が込められている。それらは具体的なナショナリティや階級や"人種"と結びついていない分類であれ、偏見の助長、無寛容な排斥や一種の私刑にも結び付く危うさをなしとはしない。私は、悪意ある文脈に飲み込まれた紋切り型を解釈しなおすことが状況を善く変える力を発揮する可能性を、紋切り型の禁止の方が有用な場合もあれ、原則的には重視したいと思っており、例えば形容表現の"クソデカ"を使用する人々の全員がいわゆる"淫夢"文化が形成された当初の時期の日本社会に瀰漫していた男性同性愛差別や肖像権侵害を現在でも維持したいと思いつつこの語を用いているとは解さないし、それは"太鼓持ち"を侮蔑語として口にする人々が必ずしも職業差別(太鼓持ちは男芸者とも呼ばれかつては花柳界で働く芸人などを指した)を維持したい人々だと解さないのと同様の、解釈の姿勢なのだと考えておきたい(とはいえ読み上げ不能な記号さえ使われ方次第で侮蔑や悪意や偏見を培う道具と化すこともあり、常に純粋無垢で安全な語などあり得ず、無知で無邪気に使えど罪は罪だし、"クソデカ"は"太鼓持ち"の比ではなく罪深いとされる場合もあろう)。

これに類する反復=誇張法が用いられたツイートが、コウメ太夫にもある。

理不尽な金額の増大(100円→1004100円)は数字の反復により引き起こされている。100均、4個、100円という最初にに出てきた数字が単位を無視して連結され、8桁の大金が導き出されているのだ(また最初が全角アラビア数字であるのに対して二度目は半角アラビア数字と漢数字の混合で記されており、100と1004100という数字の上での大小と視覚的な大小――金額の多寡と文字列の長短――を裏腹にするという表記上での妙味もある)。ここでは反復法と誇張法が連結されている。ふと、明恵の一首を思い出す。

あかあかやあかあかあかやあかあかやあかあかあかやあかあかや月 明恵

月が明るい(あか=明か)から綺麗、というド定番の景物と風情がさながらボタン連打めく反復=誇張表現によって歌われており、折り重なる反復=誇張表現が一見紋切り型な語句や情景に異様な質感を与えている。具象的な細部を欠いた、記号的で抽象的な言葉たちが、陳腐なはずなのに凄みを帯びて迫ってもくる。そこには、月を題にする歌の本意って飾りを取れば要はこれでしょ、との諧謔すら読み取りたくなるが、読み取るべきは、そんな自意識が揮発し尽くした後の超ナイーブな感慨"つき、あかる~"かもしれない※6

※6むろん、私の上の読解はつまみ食い的で不十分である。こうした作品を詳細に注釈しようとするならば、文法的意味や辞書的説明を参照するのみならず、当人の著述や振る舞いなどから汲める思想を見据えつつ、例えばこの歌は『明恵上人歌集』に所収されている一首のはずだが、前後でどういう歌に挟まれているか、どういう事情でそういう編纂になったか、それに当時の「あかあか」や「月」や「や」の一般的な使われ方や明恵周りでの使い方はどうだったか、結びの語が「月」であるほかの有名な歌などは念頭にあったのか……等々の検討を交え、諸々の文脈に照らしつつ読み解くべきだろう。

こうした反復=誇張のもたらす凄みは、"圧倒的"と呼びうるものだろう。月ではないが星空を参照する次のような反復=誇張ネタもコウメ太夫にある。

七夕の夜の星々のうち、どれが織姫(こと座α星=ベガ)なのかわからないままに、目についた星を次々に織姫(?)と呼んでいる、という混沌とした情景を想像できるとはいえ、そうした想像力を働かせる余地もないほど強力な字面「織姫?」の"7"連打があり、「でした~。」は「どした~。」になっている(これが誤字か、京都方言を意識したのか、他の意図があったのかも私にはわからない。初見時は「どうした!?」という気持ちになった)。この反復=誇張の連続は壊れた再生装置によるループを私に想起させる。そこにあるバグったロボめいた動きの感触は、無慈悲な運動(残酷)の要素と情味ある仕草(滑稽)の要素をあわせ持っているように思われる(その要素を真に受ければ笑ったり怖がったりでき、真に受けなければ失笑できる)。

期せずして自動機械(あるいはbot、NPC)感を帯びたこんなネタもある。

連絡がつかないと思ったら神隠しに遭っていた、というメッセージを浸食するような「10=てん」の連続は、SNSにおける二進数の身近さゆえ、このネタが次の短歌と近しい位置にあるかのような"錯覚"すら引き起こすだろう。

1001二人のふ10る0010い恐怖をかた101100り0 加藤治郎

このような問題意識を念頭に置けば以下のネタも、「溶ける」の三重の意味を念頭に置いた(氷菓子が融解する、資金を失う、言動が愚かになる)自嘲の面(あれこれ言ったところで私コウメ太夫の脳みそこそ「溶けやすい」ものだ)ではなく、二値的な機序(yes/no)の浸食こそが前景化するだろう。

いや。前景化するも何も、自虐ネタという意味を理解する余裕をハナから吹き飛ばすほど「yes脳yes脳yes脳」という反復=誇張は目立っているはずだ。

ただし、こうしたバグ感は必ずしも数字や記号を必要とするものではない。重要なのは、意図に即して発話がなされるという主意主義的思い込みを破砕する、アルゴリズムの不気味な相貌の際立たせである。例えば次のように。

ひら仮名は凄じきかなはははははははははははは母死んだ 仙波龍英

「ひら仮名」の圧倒的な連続。暴力的な笑い声の擬態語の侵入のようでも、母の死を報告しようにも変換できない(文字入力が続けられない)激情の痕跡のようでも、ただ言葉遊び的に導き出された文のようでもある、残酷で滑稽な、無情さの感触。反復という非人称的で形式的(誰がやっても変わらない=動作主を交換可能なものとして扱う印象の強い)操作がそれをもたらしている。そのような感触がもっとも露わであるコウメのツイートはこれだ。

ひらがなの反復=誇張。コウメ太夫が持ちネタ「チクショー」の導入部で口遊むスキャットの文字起こしからなるこの文字列は、アイロニカルで(アルゴリズム的で怖く)ユーモラス(ナンセンス的で笑える)、圧倒的な質感を備えた文字列として眼前に迫って来る(もちろん、このネタの下地には2021年に開催された東京オリンピック2020の、開会セレモニー直前での降板騒動という政治的社会的文脈があるのだが)。例えば読者の慣習的な構え、あるいは読者の心身にこびりついてしまっている情勢認識、トラウマ的過去、今後予定されたタスクの重圧といったもの、いうなれば個々人の"色眼鏡"ないしは"フィルター"(この話題でこういう語が出たら私はこういう立場ということになっているしこう反応すべきではないか……)を、このような反復=誇張は棚上げにする力があるだろう。それはおそるべきことだ※7

※7短歌における反復に関する注。反復という技法自体は万葉集に載る藤原鎌足の「安見子」の歌にまで遡れるだろうし近代短歌史には斎藤茂吉の連作「死にたまふ母」というおそろしい一群があるので、私が知る範囲でのひらがなの(半ば記号的な)反復に話を絞る。アルゴリズム的な無情さは詠まれる物語世界によってはもちろんリズミカルな軽快さとして感じられる。例えば以下の歌を参照。「べくべからべくべかりべしべきべけれすずかけ並木来る鼓笛隊 永井陽子」。流音を混ぜつつ無声軟口蓋破裂音kと有声両唇破裂音bが濫発される上の句はもっと不気味に響いてもいいはずだが(このタイプの分析を深めるには音象徴に関する学知の参照が必要だが準備不足のため遺憾ながら措く)、その文字列がただの擬音語としてではなく古語活用表を想起させることで物語世界は"学園"化され、剥き出しの字や音の機械的反復の凄みは後景化するし、下の句の並木道や鼓笛隊の語句が立ち上げるティーンエイジャーによるマーチングバンドという青春的な情景に軽やかな拍子の感触を付け添える機能を持つことに成功している。あるいは反復を用いていても、字それ自体が想起させるグラフィカルなイメージがより前景化し効果を発揮する場合もある。例えば以下の歌を参照。「ぬ ぬぬぬ ぬぬぬぬぬぬぬ 蜚蠊は少しためらひ過よぎりゆきたり 宮原望子」。ここでの「ぬ」は漫画的な擬態語(何かがぬっと現れる)や擬声語(何かに気づいて煩悶するときの唸り声)としてだけではなく、一文字ごとに触覚の生えた甲虫(蜚蠊=ゴキブリ)のシンボルとなるとともに、連ねられることで連続写真のようにも隊列のようにも思える視覚的な感触をもたらしており、空白によっても読み手に意識される目の運動を逆に「ぬ」の運動に錯覚させる効果をもたらしている。ここでは剥き出しの字や音の反復の不気味さは、ゴキブリをめぐる紋切り型のイメージ群(触覚が生え、急停止と急発進を繰り返す虫、一匹見かけたら沢山いる気がする、などなど)によって、後景化している。このほか中澤系の歌など、話したいことは色々あるが、それは他日を期す。

しばしば、ある紋切り型への応答も往々にして紋切り型のリアクション(まるで準備された振り付けめいた)になる。皮肉にもそれこそが紋切り型による主体化=服従化を強化しもする。紋切り型にリアクションするものは、楽しむにしろ憎むにしろ(いいねでもヘイトでも)振り付け通りに踊るように唆すその紋切り型に自発的に隷従しているように映ってしまいがちだ。とすれば、紋切り型の圧倒的反復=誇張は、そんな魔の手から(一時的であれ)脱する瞬間を創り出す妙技のヒントなのではないか(むろんそれは、別の紋切り型とリアクションへ囚われる端緒でもある。私は世の諸々にハマるよりはコウメのネタにハマろうと言いたいのではない。どうやってある没入の内にいながら別の没入へと移るのか、そのテクニックを学ぶ方が重要だ)。

もちろん反復=誇張法の醸し出す圧倒的な質感には両義性があり、そうした両義性は様々な仕方で論じられてきた。例えばロシア・アヴァンギャルド。ロシア・アヴァンギャルドはよいナンセンスの使い手で、社会主義リアリズムはわるい紋切り型の使い手だ、という類の史観にほとんど中指を突き立てるかのような異論をぶつける美術史家ボリス・グロイスの論を瞥見する。党スローガンの反復が当該表現の衝撃を殺ぎ意味空疎にしてしまうと述べつつ文法を逸した超意味詩(ザーウミ)のような表現を全面称揚するソヴィエト連邦の理論家の評論を引きつつ、グロイスは、形式主義者であるその理論家の言に従えば、ナンセンスになるほど反復されたスローガンこそが超意味詩である――しかもマイナーな受容に留まった文学者の前衛詩を超えた――のだと(まるで「勘違いもの」小説めいた)アイロニカルな語りを展開する。

大衆が党のスローガンをスローガンとして知覚しなくなったまさにそのとき、これらのスローガンは「大衆を獲得」し、大衆の下意識、大衆の生活様式となり、外国でしかその喪失を感じられないような、大衆にとって自明の背景となり、またそれにふさわしい超意味的[無意味]なスローガンに変わり、なんらかの一定の内容を伝達するものであることをやめた。つまり――当のフォルマリズム美学の用語を借りれば――党のスローガンは「形式化」され「美化」されたわけだ。
(グロイス『全体芸術様式スターリン』88-89頁、亀山郁夫・古賀義顕訳)

こうしてナンセンスの最悪の政治的ポテンシャルが露わになる。スローガン(それは"ミーム"だ)と化したパワーワードによる連帯や分断の形成とは、ゼロ年代の小泉純一郎政権で全面化したワンフレーズ・ポリティクスの延長であり、言論空間はいまや星の数ほどいるプチ小泉たちによるパワーワード繰り出しでのプレゼンス(注目度)の奪い合いであるかのごとき様相をなしてもいる。その状況下では、バズるパワーワードの生成法のひとつとしてのナンセンスはもう、固定観念を解除するユーモアとして肯定するだけでは済まないものになっているのである。私はもちろん、開高健やポール・ド・マンや千葉雅也が述べたような意味での文字の物質性、反-動員の美的政治的スタイルとしてのナンセンスを(少なくとも一面では)肯定し追究したいと思っているのだが、(他面で)ナンセンスギャグ自体が紋切り型の反応や動員を引き出すミームとなり(だからボーボボで農林水産省に動員される)、連帯や分断づくり(政治的な後援会や党派であれ文化的なファンダムや界隈であれ)のためのワンフレーズとしてしゃぶりつくされていること、それらの横溢自体が言論を機能不全にする非政治化の政治であること、いうなれば文字の"悪しき物質性"の諸顕現も、無視できないと思う(だが悪しき一面しか見ないのでは誤った観点からの批判しかもたらしえないとも考えている)。

スローガンとナンセンスが入り混じり、悲憤慷慨と茶化しが入りまじる。最悪のグダグダを顕現させるナンセンス。しかし、それこそがナンセンスの最善の政治的ポテンシャルに反転しうる要素だとしたら、どうか。レオ・ベルサーニは、表面の模様が気になってしまうせいで内容が頭に入ってこない古代王国の浮彫り(アッシリアのレリーフ)が、暴力的な情景への美的な没入をフォルマリスティックな諸技法(様々な形式の反復など)によって挫くという点で、美的政治的なスペクタクルへ抵抗する技法を学びうる事例であると論じる――アッシリアのレリーフVSリーフェンシュタールの映画。

アッシリア人の芸術による自己賛美に類似した現代の事例は、レニ・リーフェンシュタールの『意志の勝利』という、1934年のニュルンベルクでのナチ党大会を記念し顕彰するためにヒトラーが注文した記録映画である。ナチスドイツと古代アッシリアの全体主義的ナショナリズムにおいては、リーダーが国家を体現するとされる。リーフェンシュタールが総統の神格化にリアル感を与えるため用いた視覚的手段は興味深いことに、アッシリアの彫刻家がアッシュルナツィルパル王やアッシュルバニパル王への崇敬を形にするためのそれと酷似している。[……]メソポタミアでは、王は周囲の人々よりも二倍は大きく描かれており、しかもアッシリアの彫刻家は、リーフェンシュタール同様、個人として隔絶され際立っている王と好対照をなす視覚像として名も無き人々の隊列を置くという方針をとっていたように思われるのだ。
(ベルサーニ+デュトワ『暴力の諸形式――アッシリア芸術と現代文化におけるナラティブ』3-6頁、私訳)

このような野蛮な比較に始まる1985年に記されたこの書物は、アッシリアのレリーフの方に、こんな風に軍配を上げている。――スペクタクルへの一心な注意、それへの紋切り型の没入、紋切り型の反応を妨げる、ごちゃつきを含む表現の肯定(ちなみに、ベルサーニ『フロイト的身体』にもアッシリアのレリーフへの簡便な分析が載っており、それを読むと雰囲気がわかる)。

[アッシリアの]宮殿のレリーフは倫理的応答としてのみならず、我々の歴史に対する道徳的関係についても大いに示唆を与える。あるいは、より精確に言えば、これらのレリーフ上の動物戮殺や戦争の場景は、歴史的暴力[訳者注:過去として提示された暴力イメージ]に備わる誘惑的な力に抵抗する術を提示する芸術――実際にそれを使いひとが鍛錬できるような――のモデルとして受け取りうるものだ。[……]アッシリア史の偉大なる諸場景は、疑いようもなく顕彰を狙っていたはずのこれら古代の芸術家たちの意図にもかかわらず、こうした諸情景の歴史としての重みを吹き飛ばすように誘う端緒を、つまり我々の注意をズラさせ、静的なイメージの固定化した読み取りをそのズラシにより妨げるような端緒を、常に含みこんでいるのである。
(ベルサーニ+デュトワ『暴力の諸形式――アッシリア芸術と現代文化におけるナラティブ』56頁、私訳)

アイロニーとユーモアが表裏一体に混ざるナンセンス、不純な紋切り型が擦りネタに転じ、擦りネタが連帯と排除のワンフレーズ・ポリティクスを動員し、複数ファンダムのイガみ合いと(文化的)アイデンティ政治の区別がときに崩れてしまう、そんな場でのナンセンスの、最悪および最善の美的政治的活用を考えていくこと。――例えば、ある"コウメ効果"を吟味する中で。

それがベルサーニ+デュトワの試みにある面で応答するものだと思っておりコウメ太夫のネタでの私の笑いどころを考えることでもあると思っている。話がコウメ太夫から外れ過ぎた。コウメネタ読解に戻していく。

6.千々に砕けて

先程の「3.「潰れました~」の5年間」のような変貌を遂げたネタとして「チクショウアイテム」系列がある。2019年の時点ではこんなネタだった。

ここで換喩的なイメージをひろげれば、四コマ漫画じみた絵が浮かぶ。例えば、ある赤い頭巾が、童話の主人公である少女の姿を思い描かせるように、あるモヒカン(髪型)は、『マッドマックス2』(1981)のウェズ(あるいは『北斗の拳』の諸キャラクター)風の、筋骨隆々な荒々しいヴィランの体躯を思い描かせるはずだ。そうして血液型占いを読むモードの意識へと、唐突にモヒカン頭の巨漢が踊り込んでくるはずだ。そうして真っ白になるであろう頭に「桜咲くまで待つ」と唐突に不在の何かへの待望のイメージが注入された上で、引き続くのはコウメ太夫自身を思わせる「白塗り」の二連発なのである。まるで漫☆画太郎作品めいた超展開の絵巻物が展開されるはずだ。

翌月の「チクショウアイテム」ネタも同様の形式をとっている(ただ、炭酸飲料の懐旧的なイメージがなぜか唐突な忍者登場にいたる衝撃のあと二連発されるのは不可解な指令「泡になれ」で、不条理ホラー感が増している)。

私の理解では、これらは比較的成功したシュールな作品である。そこには奇抜な取り合わせの妙味があるとはいえ、想像して没入できる筋が見出しうるし、その限りで物語性があるといってよいだろう。

この「チクショウアイテム」ネタは現在、上で鑑賞したような、換喩によって怪人イメージが現れたり消えたりする"いないないばぁ"的ナンセンスを含む物語とは、もはや別の何かになりつつある。こんな感じだ。

さらに今年の7月だとこうなっている。

文としても単語としても壊れており指示対象はほぼ像を結ばない。もはや物尽くしとさえいいがたい。"物"はバラバラに砕かれてしまっており、ここには破片が飛び散るばかりだ。先程までの怪人イメージの明滅と合わせて読みうるものが漫☆画太郎だとしたら、ここで呼び出しうるのは、アルトーだ。

アントナン・アルトーがその「ジャバーウォッキー」で「ルルグエがルアルグエでラングムブドゥして持ちラングムドゥがルアルグハムブドゥをして持つまで」と語るとき、その眼目は、語を活性化し、語に息を吹き込み、語を濡らしたり燃やしたりして、語が、寸断された身体の受動にならずに、部分なき身体の能動になるようにすることである。
(ドゥルーズ『意味の論理学』文庫上巻p164、小泉義之訳)

語が喚起するイメージの水準での奇抜な取り合わせはほぼ機能停止し、語自体が砕かれている。語は、矢印の記号と相まって弾丸のように吐き出されているとも映る(縦の行間が詰められた7月1日付ツイートはとりわけ横方向の動きを感じさせる)。それはキャロルの言葉遊び的バグり方よりはアルトーの文字化け的バグり方に近い。視覚像を喚起しないナンセンス?――しかしそれを意味のない字、音、点と線の組合せと呼ぶのでは不十分だ。どの字も等価で交換可能だと解するのでは各々の形が持つ効果が閑却されてしまう。

無意味と呼んでひとしなみに交換可能な記号と見るには個々の意味があり、関連性もある。例えば5月1日付で登場する記号「/*w」は「潰れました~」ネタでも登場していたし、B型の「先程桜」は最初のネタでのB型「桜咲くまで待つ」と桜の一字を共有している。物語的な文脈を飛び越えた記号列、文字列の形式的反復がある。あるいは7月1日付の文字列「また」や「カル」は、この時期に、「また」サブ「カル」がひどい、といった話が繰り返されていたことを踏まえれば、そうした語が繁茂した言論空間の名残りのようにも解せる。実際、コウメ太夫は摂取した言語を即時咀嚼しているようだ。

「じっくりは考えないですね。ふわーっと……電車に乗ってるときとか、家にいるときとかに。1秒、2秒でできるものでもないですけど、毎日、そんなに時間をかけないで作っちゃいますね。それを紙に印刷して溜めてます。/もちろん、意味がわからないようにすることは意識しますけど、自分のなかからワードが出てこなかったら、ニュースとかで聞く言葉から連想して、意味をわからなくしちゃったり。それを面白くするのは、大変っていうか……そうでもないっていうか……何て言ったらいいんだろう(苦笑)。こんな感じだと笑ってもらえるかな? というのは考えますけど、いざやってみるとドン引きのヤツも結構ある。だから……ネタの作り方は自分じゃわかんないっちゃ、わかんないですかね(笑)」
(文・取材:阿部美香「コウメ太夫:破天荒な芸風と控えめな人柄が共存する、類まれなる自然体【後編】」『Cocotame』2021年7月30日より)

コウメのナンセンスは"顔芸"的な論議無用感を持ちつつ、諷刺的でもある。

コウメのナンセンスギャグの即応性や諷刺性は、どこか1930年代の鶴彬の川柳めいたものに漸近しつつあるようにも思える。――バグった鶴彬?

高粱の実りへ戦車と靴の鋲
屍のゐないニュース映画で勇ましい
出征の門標があってがらんどうの小店
万歳とあげて行った手を大陸へおいて来た
手と足をもいだ丸太にしてかへし
胎内の動き知るころ骨がつき
鶴彬『川柳人』1937年11月15日(青空文庫『鶴彬全川柳』より引用)

ただし、コウメ太夫は"意味のわからないネタ"を生成することに注意を払っており、鶴彬と異なる制作姿勢であることはたしかだ。

ナンセンスは無意味とされがちだが、無から創造されることはほとんどない(疑似乱数を用いて並べた文字列がウケを取るナンセンスになることはほとんどない)。ナンセンスは分析できるし解釈できる。一方には個別のナンセンスがどうやって生成できたかを問うやり方があり、他方にはどうして然々の類型のナンセンスが生成されやすいかを問うやり方がある。二つのやり方が、互いに還元されることなく協働する場合もあるだろう。

そういう協働が望ましく、必要であると私は考えており、まとめに入る。

7.「正義、力。[……]力は非常にはっきりしていて、論議無用である。」(パスカル『パンセ』)

あまりに読解しやすい文字列(「5.圧倒的文字列」で見たような)を意味が空転するほどに誇張して反復するところと、あまりに読解しがたい文字列(「6.千々に砕けて」で見たような)を理不尽なまでに列挙するところでは、同じ質感がもたらされる。論議無用にすら感ずる字面の圧力だ(笑劇的な"コウメ効果")。ナンセンスで力強い圧による(乾いた?)笑いの招来、それは、メダユー的観点での褒め殺し的=勘違いもの的読解からコウメツイートに見出される、失敗した意外性のシュールさとは、別様の効果だろう。

そのような効果について考えるときには、文章と図像の区別すら(比較的)どうでもよくなるかもしれない。コウメ太夫の画像ツイートを見ていく。

ハンガーラックに吊るされた着物に合わせた姿勢をとるコウメ太夫はハンガーではなく着物の物真似をしているのではないか(だから"着物の気持ち"の方が適切なのではないか、そもそもハンガーであれ着物であれ"気持ち"があるとはどういうことか、あとひょっとしてこれは『アイドルマスターシンデレラガールズ』のキャラクター市原仁奈のセリフに由来するミーム「○○の気持ちになるですよ」を踏まえたツイートなのか)、など色々な物思いが頭をよぎるが、ともあれここで笑いを呼ぶのは要らぬ苦行をあえてする芸人の場違いな空間を占める胴や真剣に歪んだ顔つきの圧だろう。以下はどうか。

縁起のよい人形めいた姿勢、過剰に大きな器、どこか洋館風のソファ、などが醸し出すごたまぜの可笑しみを分析することはもちろん可能なのだが、白塗りの笑顔と「飲むじゃじゃんじゃんパイタンシロ好き太夫」の圧がそうした分析を吹き飛ばして笑わせてくる(あるいはドン引きさせてくる)。とくにこのツイートのもたらす圧は例えばYoutuber失敗小僧のサムネのそれと、私にはあまり区別がつかない(失敗小僧の語る状況分析や表明されるイデオロギーには相容れない点や疑念も少なくないが、サムネのつくる圧やミームづかいの妙は私が関心を持ってきた圧倒性と関わると認めざるをえない)。

これらを踏まえていったとき、私が関心を持ってきた"コウメ効果"とは「ホラー、ポルノ、コメディの(非)文化的な三位一体性」(仲山ひふみ)の一例だったのではないかという考えも生じてくる。いみじくもこの7月、コウメ太夫は『呪怨』ほかのホラー映画の監督として知られる清水崇とドキュメンタリで共演している。

そして、以下のような短編無声映画の一場面のループにも似た"顔芸"は、コメディとホラーの境をふらつきつつ、ある種の圧を帯びた見世物として、圧倒的な感染力を発揮しつつ、拡散され、人々の心身を変調させてきていた。――まるで"呪いのビデオ"のように。

 浅田によってJ回帰批判の文脈で言及されていた批評家の東浩紀の『動物化するポストモダン』(2001年)では、アニメはゲームなどと並んで、オタクたちによる際限のない「データベース消費」の対象となると言われる。そうした「データベース」の存在は、技術的下部構造として、動物化したオタクの消費行動を「趣味よりも薬物依存に似」た仕方で駆り立てるだろう(『動物化するポストモダン』講談社現代新書、2001年、129頁)。私たちがファンダメンタル・ホラーへのアディクションを通じて、あるいはミームの弁証法を通じて、Jホラーのうちに非J的なものの手触りを確かめていたときに目の当たりにしていたものが、ここには別の姿で現れている。私たちに足りないのは、この現実の世界がすでにファンダメンタル・ホラーの世界になってしまっていることに気づく能力なのだろう[……]となると、次善の策として、死なない程度に怖いウィルス、本物よりも本物らしい悪意ある無意味さによってプログラムされた呪いのビデオを、私たちは探さなければならない、ということになるのだろうか。
(仲山ひふみ「「リング三部作」と思弁的ホラーの問い」『文藝 特集:怨』2021年秋号p240)

コメディとホラーの境域でコウメの画像群は、映画『リング』がもたらすような、人間的な因縁を無視した残酷なルールに従属させられていると気づいてしまう恐怖、もっとカジュアルに言えば、話が通じていると思っていたが通じていなかったし、そもそも話が通じる存在ではなかった、という出来事に伴う恐怖をかすかに漂わせる。そこでひとに抱かれる情緒は、漫才師コンビ和牛の著名なネタ「ゾンビ」が、コント漫才という劇中劇を多重化できる構造を利用して、ヒトからゾンビへの豹変という寸劇(ゾンビは多文化共生志向の社会において"まともな市民"が突然"話の通じない陰謀論者"などに豹変するという妄想の戯画となっている)と観客の距離感をぐちゃぐちゃに撹乱することで生ずる情緒にも似ている(この漫才は、一方がゾンビ化しつつある中で最後まで漫才を続ける二人の人間を描いた悲劇を自分は笑って見てきたのではないか、という不穏な想像を観客に掻き立てるところがある)。

しかしそれだけではない。

もはや意味が辿りがたいほどに変形し、しかし"意味不明の記号"として棚上げするには生々しい文字列の圧、その効果をこそ私は論じようとしていた。

一切の語は物理的になって、身体に直接的に影響を及ぼす。その方式は、以下の類いである。[……]語が壁にピンでとめられると同時に、語は、炸裂して断片化して、音節、文字、とくに子音に分解する。この子音が、身体に直接的に作用し、身体に浸透し、身体を傷つける。[……]語は事物の状態の属性を表現することを停止し、語の断片は、堪え難い音響的性質と混じり合い、身体の中に押し入って、混在、新たな事物の状態を形成し、これそのものが騒々しい有毒の食物や箱詰めされた排泄物であるかのごとくなる。分解された要素は、身体の部分、機関に攻撃を加え影響を及ぼして、その在り様を決定する。この受動方式において、言葉の効果は、純粋な言葉-情動(=影響)に取って代わられる。
(ドゥルーズ『意味の論理学』文庫上巻p161、小泉義之訳)

言葉が迫って来る。打たれる。意味でなく。拳に。その境地での、笑い。

おそらく"文学のサプリメント化"の地平でこそ顕在化するナンセンス(意味なし)の美的政治的効果があるだろう。たいてい、言葉の"ペラさ"は脱政治化ないし無政治化した領域をつくりだすことにおいて政治的なものだとみなされてきた。そうではなく、ごたまぜの(雑駁な)視覚像の塊が個々の気分を滅茶苦茶に変動させ妙な言動を反復させること自体を政治的と解する地平、それが浮上しつつあるのではないか。それをコウメのツイートは、告げ知らせているのではないか。喜劇(コメディ)と呼ぶにはあまりに不穏だから、笑うに笑えないこともありどこか殺伐としかねないし恐怖も含むこのペラっとした世界の映り方を、ファルス(笑劇)的と呼んでおこう。

そうだとして、どうするのか。ひとつにはその論議無用の"真理"を、思弁によって看取する道がある(ファンダメンタル・ホラー)。ここでは、ほとんど同じ道(あるいは、同じ道の別側面)を記して結びにしたい。論議無用の力と、議論の種になる正義の関係を記したパスカルの断章を、修辞学者のポール・ド・マンは批判した。パスカルの断章では「力」が「正しいのは自分だ」と語り出す。ここに働く擬人法をド・マンは批判する。――力を僭称する正義の声がある?――あるいは、「力こそパワー」であるにしても「パワー」の修辞学が常にあるのだ。修辞学=弁論術は、ひとに力の所在と使い道を教える。"ペラ"くて荒涼とした不毛の記号たちが漂うナンセンスの砂漠の中で、砂の流れを質を見極め、砂を使う術が練り上げられねばならない。

[了]

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