閉じた日常のつくりかた:道端さっと『明智少年のこじつけ1』(2012)評

※この記事では以下の作品の結末に触れている:道端さっと『明智少年のこじつけ1』(2012)、小野不由美『屍鬼』(1998)。

20200619 修正加筆

0.道端さっと『明智少年のこじつけ1』あらすじ

幼なじみの明智京太郎は、今日もお決まりの台詞をつきつける――「小林くん。キミがこの事件の犯人だ!」ってオレを犯人扱いすんのはもうやめろ! おまけに文美は「すごいわ、名推理!」なんて合いの手打つし二重ちゃんに至っては「兄さんをイジめないで」と叫んでドロップキックを繰りだす始末。なぜだ、被害者はオレなのに……。とにかく京太郎、お前はまず証拠をもってこい! 第13回えんため大賞優秀賞、その場しのぎのNEO的学園ミステリー‼(道端さっと『明智少年のこじつけ1』(2012)裏表紙)

出版社の紹介HP:https://famitsubunko.jp/product/201111000400.html

1.日常、閉鎖空間、暴力

 英文学研究者のD・A・ミラーは、『小説と警察』で、探偵小説(ここではミステリと同一視しておく)の約束事が発揮する効果、「日常生活を、根本的に警察権力の「外部」とみなす」(59頁)機制を、以下のように論じている。

[探偵小説は]捜査の目的を(ひとりの犯人の究明だけに)限定し、捜査官を(ひとりの変人の探偵だけに)制限し、その共同体に干渉する性質を(いつもはうまく働いている社会規範に対する例外として)強調するのだ。この点から見ると、探偵小説が確立する社会的潔白には、たんなる犯罪からの自由という以上の実質がある。[……]共同体は、監視と管理と処罰の装置を否定しているからこそ、潔白なのだ。(『小説と警察』58頁)

 ナイーブに思考する。ミステリの結びにおいては、名(のある)探偵が犯人を名指す、という事態が劇的に描かれるのがひとつのお約束だろう。思えば犯人の特定と同時に、(言わずもがな)残りのものは事件の非当事者となる。つまり、咎は犯人が背負い、犯罪的状況を整えた/助長したかもしれない周囲は、免責されるとみなしうる。ミラーはそのように捉えているようだ。ここでの指摘で注目したいのは、犯人だけではなく探偵もまた「日常」の外部とされているということである。実際には、周囲の大勢が服する「警察権力」すなわち「監視と管理と処罰の装置」は、犯人に負けず劣らず暴力的な事態を引き起こしうる。というか、暴力の独占と合法化こそが「警察権力」の肝であるはずだ。それにもかかわらず、共同体はそれらの暴力的なものが自身の「日常生活」に内在していることを否定するのである。比喩的に言えば、ミステリとは、探偵と犯人の二者関係で構成される閉鎖空間にアテンションを集め、そこに暴力性を封じ込めることで、その外部には潔白な部外者たちによる暴力の臭いのない「日常」が、つねにすでに存在していたかのように演出する装置なのである。――少なくとも、そのような〈ミステリ〉的装置を、ひとは考えることができるはずだ。

 日本のミステリ研究者の横濱雄二と諸岡卓真は、論集『日本探偵小説を読む』所収のクローズド・サークル(閉鎖空間)論の中で、「社会的閉鎖空間」という概念を提示している。彼らによれば「社会的閉鎖空間は、前提として、①ある領域が何らかの形で「閉じている」という共同幻想が示され、②物語が進行していく中で、その共同幻想が構造的に反復されることによって成立する」(161-162頁)ものである。――ミラーの指摘と重ねるならば、こう言えるだろう。〈ミステリ〉的装置の役割は、日常生活に瀰漫する暴力性を犯罪事件という「社会的閉鎖空間」に封じ込めることで、そうした暴力性と無縁な「外部」としての「日常生活」を生産することなのである。

 この閉鎖性は、たんに物質的であるというよりも心理的社会的なものだ。横濱と諸岡は「社会的閉鎖空間」を(横溝正史の『八つ墓村』とともに)小野不由美の『屍鬼』の分析から導き出している。『屍鬼』は因習深く排他的な外場村の住人たちと、人の血を吸い死に至らしめる屍鬼たちとの対決を描く長編であるが、実は、屍鬼の「犯罪」を暴いた住人たちも、また村人の変死の「犯人」であると暴かれた屍鬼たちも「〈最終闘争の舞台は外場村に限定する〉というルールは共有」(157頁)している。「ここには、人間集団と屍鬼集団を内に含んだ外場共同体とでもいうべきものが出現している」(157頁)のである。最終闘争後、外場村が焼失したあとのエピローグで描かれるのは、元村人の誰もが口を噤んで「屍鬼が存在したということも陰惨なサバイバルゲームがあったということも、村の外には広まっていかない」(161頁)という事態である。『屍鬼』では「外場共同体」という「社会的閉鎖空間」に充満していたはずの暴力性が無みされ、「日常生活」が生産される過程が描かれていると言えよう。探偵と犯人という二者関係に類比されるであろう、人間と屍鬼との対立関係は、外場共同体の消失と共に解消される。――闘争の場としての村は例外化され、そこで剥き出しの「監視と管理と処罰」が作動していたことは否定される。――村自体を切り捨てることで、人間たちの潔白が回復するかのように(闇と日常は切り離され、世は事も無しとされる)。

 このようにして〈ミステリ〉的装置は、探偵と犯人(に相当する対立関係)が名指され焦点化され「社会的閉鎖空間」の内に囲い込まれ、事件に対する(目立たない)外部として「日常」に仕立て上げられてしまった場にさえ、実はかつて(またいまもなお)瀰漫していたはずの暴力性一切が、その限定された「社会的閉鎖空間」の側に押し付けられ不可視になるという、メカニズムを駆動させているのだ。――ミステリ(的なお約束)を、そのクローズドな場を作る作用によって、暴力的で例外的な事件空間と潔白で通例的な日常空間という区分を生産する一連のアクターたちによるからくり仕掛けとして理解するならば、上記のように述べうるだろう。これを踏まえて作品評に移る。

2.閉じた日常のつくりかた

 道端さっと『明智少年のこじつけ1』(以下『こじつけ』)では、こうした〈ミステリ〉的装置が一種異様な仕方で用いられている。そこでは、物語において「社会的閉鎖空間」を形成する働きが明示されつつ、しかしその働きの解明が、「社会的閉鎖空間」からの解放には働かないどころかその維持に資することになる、という逆説的事態さえも描かれているのである。

 本作の大まかな雰囲気をつかむために、『こじつけ』冒頭の〈狂乱の破砕者〉事件を瞥見してみよう。――舞台は、福泉高等学校。ある日の放課後、校舎一階の窓ガラスが一枚割られていた件について、高校生の明智京太郎が探偵の真似事をして、友人である小林修司に〈狂乱の破砕者〉という二つ名を付けて、「一階の窓ガラスを全部割った犯人」(8頁)として周りに吹聴していたのを小林が知り、抗議に来る。「証拠をもってこい」(9頁)という小林に対して、唐突に笑いだし「とうとう墓穴を掘ったな、小林くん……。いや、『狂乱の破砕者』!」と語る明智は「――探偵小説、ドラマ、アニメにおいて、証拠を持ってこいと言った人物がだいたい犯人なんだよ!」(10頁)というお約束に基づく連想を披露する。小林は京太郎に、一階の窓ガラスが割れたとき、小林自身が京太郎と一緒に体育館で体育の授業を受けていたという明白な「アリバイ」を主張する。京太郎はそれに反論して、小林の「アリバイ」は、小林が自身とそっくりな人物、例えば、自身の双子と入れ替わっていたとすれば覆しうると主張する。あまつさえ、明智は、自分と小林が出あった幼稚園の頃から、この入れ替わりのために、小林が自身の双子の存在を隠してきたのだと強弁する。それに対して、自身にはそもそも窓ガラスを割る動機がないと主張する小林に、京太郎は小林が窓ガラスを割ることによって誰かを脅迫しているのだと続ける。――ここで担任であり部活顧問の中村先生が現れ、「小林君は犯人じゃないわよ~。さっき野球部の男子生徒が名乗り出たもの~」(13頁)と述べる。しかし京太郎は、その男子生徒こそが小林に強迫されていた相手であり、彼は犯人である小林の「スケープゴート」として名乗り出たのだとなおも言い募る。小林の拳骨によって明智による論難は中断される。

 この作品の一般的な評価は極めて低いと言わざるを得ない。そもそも第13回えんため大賞での、河西恵子(ファミ通文庫編集長代理)による選評の時点ですでに「いわゆる部活物系ミステリー。毎度お馴染みネタを繰り返すパターンと、主人公をとりまくおかしな幼馴染み&妹、天然系の先生などのパロディネタの会話センスなどは手堅く面白いが、良くも悪くもこじんまりしている」と、無条件に称賛されていたわけではなかった。またインターネット上の感想(AMAZON、読書メーターなど)では、先述の選評でも挙げられていた本作の主要な特徴、①同じパターンを繰り返す物語構成、②戯画的なキャラクター造形、③パロディの多用のいずれにも非難が寄せられている。

 しかし、本作への低評価の理由が「『馴れ合いの人間関係を外から見る不快さ』なんですかね?」(ブログ「この世はすべてこともなし」)と記述されたり、あるいはまた、「目次のとおり終章にて意外な真実が語られます。ただ、それはクローズドなものをさらにクローズドにするものでしかありません。意外であるにもかかわらず、その驚きで世界が反転しないことに対する居心地の悪さ。それがどうにもこうにも読み味を微妙なものにしているのだと思います」(ブログ「三軒茶屋 別館」)と説明されていることに注目するならば、本作への拒否感を、京太郎と小林の掛け合い(「こじつけ」)のナンセンスさに求める以上の分析も可能になる。――空虚な「こじつけ」が「社会的閉鎖空間」を構成する働き、その不気味な駆動音がここでは調子外れに鳴り響いているのである。

 いわば『こじつけ』は、〈ミステリ〉的装置を空回りさせることによってその「社会的閉鎖空間」形成作用の堪えがたさを際立たせる点で特異な作品なのである。連作短編風の『こじつけ』は、その結びで次のような大仕掛けを露わにする。――本作では「クローズドな人間関係を維持するためにミステリ的なお約束が露骨なパロディとして利用」(「三軒茶屋 別館」)されていたのだ。『こじつけ』終章の「明智少年の真実」では、京太郎に代わり、「今度はオレが、――――不可解な出来事に答えを出す番だ」(265頁)と小林が探偵役になって推理を披露する。「――事件を自分の手で作り上げたお前は、オレが疑われるように仕向け、最後に解決する。それを繰り返していただけだ」(271頁)と小林は京太郎に指摘する。京太郎は、「そうだよ、ぼくがこの数々の事件を演出した犯人、『七不思議制作者』[ルビ:セブンス・メーカー]さっ!」(275頁)と自白する。京太郎による馬鹿騒ぎの目的は、かつて険悪になった妹の二重との仲を回復することであった。――『こじつけ』はここで、ある狡知の下で〈ミステリ〉的装置が駆動していたことを明かす。

 京太郎は、妹である二重が小林に好意を持っていると考えて、二重と小林が疎遠にならないよう、自分たちの友人グループの結束を高めようとした。――その手段が、一連の馬鹿騒ぎによって小林を、京太郎たち以外の人間から遠ざけ、人間関係を閉塞させることであったのだ。この終章で明かされるのは、まさに探偵こそが犯人であったということだ。京太郎の行為の企図はミステリ的な営為の反復による「閉鎖空間」の絶えざる構築とその維持こそにあったのである。小林が(実際には京太郎が存在するかのように見せかけたに過ぎない)「七不思議」に見立てた事件の犯人と名指される事態まで含め、ここに描かれていたのはまさに「社会的閉鎖空間」の形成、「共同幻想が構造的に反復される」という事態だったことになる。『こじつけ』は探偵行為を犯罪行為に反転させてしまい、そのことで、潔白と犯罪を分離するためになされるはずの捜査や推理それ自体の正当性を、汚損してしまうのである。――さながら京太郎によるミステリの「お約束」の濫用がそれらを不自然なトリックとして脱魔術化させてしまうのと同様に、『こじつけ』それ自体が〈ミステリ〉的装置を濫用することでそのメカニズムを脱魔術化して、それが「監視と管理と処罰」の一環であったことを露わにさせるのだ。――小林を監視し、小林の人間関係を管理し、処罰の反復で友人グループを維持するという、京太郎のグロテスクな似非探偵行為の犯罪性は、ミステリなるもののパスティーシュとしての『こじつけ』の相貌を露わにさせる。本作はその名が示唆するように〈ミステリ〉的装置それ自体の機能をむき出しにさせる装置なのだ。――私たちは装置の無用な駆動のグロテスクさに眉をひそめてもよいし、魅了されてもよい。ただいずれにせよ、物語の体裁をとった推理ゲームでもなければ、正義の裁きを口実にした血と残酷の見世物でもない、ある〈ミステリ〉的装置の歪で空虚で純粋な駆動音が、ここに認められねばなるまい。

 それだけではない。笑うに笑えないスラップスティックめいた京太郎の、「こじつけ」の狡知の質も注目に値する。例えば〈狂乱の破砕者〉事件の一連のやり取りは、小林が京太郎の推理=犯罪に対して、どのように無力であったかをわかりやすく示している。「お約束」を濫用し、前提を覆したり増やしたりしながら話し続ける京太郎の振る舞いは、まさに掛け合いを続けること自体が企図であるかのように映る答弁の手法にも似た、不気味なリアリティを帯びている。――不穏なことに、京太郎の能弁を停止させるのは、討議による不備の指摘でも、検証における事実の提示でもなく、拳による一撃であった。――討議空間の維持と「社会的閉鎖空間」の生成が一致する、恐るべき事態が、たんなるシラけたやり取りのように記される、その驚異がここに読み取られねばなるまい。

 他方で『こじつけ』は、「社会的閉鎖空間」が囲い込む檻であると同時に駆け込みうるシェルターでもあるという両義性を描いてもいる。――『こじつけ』では険悪な家族関係も強調されている。下校途中の電話で京太郎の幼馴染の文美が「もう修復できないくらい憎しみ合ってるなら、さっさと離婚すればいいのに」(167頁)と呟いて母との険悪な関係を垣間見せたり、また『七不思議制作者』である京太郎が小林に動機を説明するとき、妹の二重がかつて「両親が二人とも愛人をつくって出ていったと聞かされ」て「血の繋がっている人間全部を信用しなくなった」(275頁)ということが明かされたりするとき、もはやこの(犯罪的に維持される)クローズドな関係を悪として切り捨てることは困難になる(また、血縁不信から破綻しそうであった二重と京太郎の仲をどうにか取り持ったのが小林だった)。『こじつけ』において、平穏なはずの「共同体」はつねにすでに破綻してしまっており、潔白な見かけは壊れかかっているのだ。しかしこうした壊れを本作は明かしつつも、それを解決すべき問題としては提示しない。そうした悩みに踏み込んで語りが展開されていくのではなく、むしろ、わずか1‐2頁で駆け抜け、(不毛な)笑いの枠組みに回帰してしまう。――「明智―小林」を軸にしたクローズドな関係こそ、平穏な「日常生活」なのだ。この作品において、ミステリ的な営為は幾重にも顛倒されており、「閉鎖空間」じみた暴力的な世界の中に(閉じた)「日常」を構成する試み自体が、暴力的な壊れた家庭空間から身を引き剥がし、駆け込むためのシェルターの構成と表裏一体になっているのである。

 このような読みに照らしたとき、第三章「『K』の悲劇」の中扉イラスト(144‐145頁)が、かきふらいの漫画『けいおん』を想起させることは象徴的である。『けいおん』などに代表される、いわゆる「日常系」と呼ばれるジャンルはしばしば、劇的な展開、それをもたらす要因の欠如ないし排除によって特徴づけられてきた。実際、二重が小林に向けていたとされる好意は、小林自身の語りで、京太郎の勘違いであったということにされてしまう――二重の言動を省みれば、そうは思えないのだが。これまで述べてきたミステリ的な営為の機能――空間の切り分け――とは、この、排除の論理による(理想郷となるシェルターと、掃き溜めとなる犯罪現場といった)空間のデザインの試みだった、とまとめられるのではないか。

 『こじつけ』が描くクローズドな関係性はなるほどうすっぺらで生温く、ワンパターンを執拗に繰り返し、どこか息苦しい。しかし、それがつねにすでに瓦解する寸前である世界の中で、なんとかして「日常」を捏造しようとする、やや強迫的な努力を描いた作品であったとしたら、どうだろうか。この作品が少なくない読者に不愉快さを掻き立てたとするなら、それは、話の筋も、登場人物の造形も、パロディも、ミステリ的な営為も、間に合わせのステレオタイプの不格好な寄せ集めにしか見えないことがかえって、いわば記号的な貧しさに支配された環境で何とか「日常」を産み出そうとするその絶望的な試みの、リアルさそして切実を、露わにするからではないか。だとすれば、読者は、小林の拳の一撃のように、この本を壁に叩きつけて済ませるのではなく、むしろ、ここで生産されている共同幻想のうちに留まることによって、逆説的に、『こじつけ』と地続きな不穏な場所に立つ己こそを、発見せねばならないだろう。――それが探偵/犯人の焼き直しであれ、まずはそこから。

参考文献
 道端さっと『明智少年のこじつけ①』(エンターブレイン、2012年2月、ファミ通文庫)
 D・A・ミラー『小説と警察』(村山敏勝訳、国文社、1996年2月、原著1988年)
 横濱雄二、諸岡卓真「もうひとつのクローズドサークル――『八つ墓村』と『屍鬼』」(押野武志、諸岡卓真編著『日本探偵小説を読む――偏光と挑発のミステリ史』(北海道大学出版会、2013年3月)所収)
参考URL
 「第13回えんため大賞 小説部門 選評」(http://www.enterbrain.co.jp/entertainment/awards/13n.html、最終閲覧2020年6月1日)
「この世のすべてはこともなし」「2012年02月05日13:49 明智少年のこじつけ① 道端さっと ファミ通文庫」(http://blog.livedoor.jp/gurgur717/archives/51327379.html、最終閲覧2020年6月1日)
「三軒茶屋 別館」「2012-01-31 ■[アイヨシ][プチ書評]『明智少年のこじつけ 1』(道端さっと/ファミ通文庫)」(http://d.hatena.ne.jp/sangencyaya/20120131/1328019921、最終閲覧2020年6月1日)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?