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文学フリマ東京37で約11万1000字出すので好きなボカロMVと一緒に紹介する

文学フリマ東京37で約11万1000字出すので好きなボカロMVと一緒に紹介するという主旨のnote記事です。


事の経緯:自分と文学フリマ(と米原さんとTERECOとジョージさん)

2002年11月から始まった「文学フリマ」というイベントがあります。2023年現在は、8都市に事務局があるようです(東京・大阪・福岡・岩手・札幌・京都・広島・香川)。「自分が〈文学〉と信じるもの」の展示即売会であるという建付けになっています。第1回の来場者は1000人程度、第28回(文学フリマ東京28、2019年5月)で5000人を突破、第36回(文学フリマ東京36、2023年5月)で10000人突破とこの5年で来場者数が倍増したイベントです。

 私(江永)は2010年頃から文学フリマ東京に何度か行った経験がありました。また書き手としての私にとって第一作は、「少女、ノーフューチャー」(2018年11月)なのですが、これはRhetorica(2012-2022)による、00/10年代の都市文化批評誌『Rhetorica #04 』に寄稿した(持ち込みした)もので、それは実は文学フリマで先行リリースされたものでした(ただし半分だけ。具体的には第二分冊である『Rhetorica#04 特集:棲家 ver. 0.0』の方だけです)。

 こんな風に私は文学フリマには思い入れがあって、なので2022年11月には米原将磨さんのYouTubeチャンネルTERECOで、そんな来し方を司会のジョージさんと自分と米原さんとで振り返ってみたりもしました。なお米原さんとは年来の付き合いです。どんな関係なのかは以下の動画をご参照ください。

米原将磨×江永泉 司会=ジョージ「ゼロ年代批評崩壊期とは何だったのか。地殻変動以後の時代に三人が回顧する10年代批評シーンと20年代への展望」

 補足説明すると、ジョージさんは「映画と海外文学を愛するニートです。YouTubeもやっています。」のジョージさんです。最近(2023年)は「映画無職ことジョージ」として麗日さんと『町山智浩とライムスター宇多丸は、映画語りをどう変えたのか?——蓮實重彥から映画系YouTuberまで』【前篇】を発表されていて、好評を博しているジョージさんです。

 また、同作品に関連して、<ジョージ×麗日×黒嵜想「秋の映画語り放談in大阪 いまむーお誕生日おめでとう!」10/25(水)19:00〜梅田ラテラル>というイベントが開催されたり、水道橋博士のYouTubeチャンネルへの出演とかもあるっぽくてホットな展開が進行しているようです。ワクワクしてます。
 話を文学フリマに戻します。

概要:文学フリマ東京37(11月11日、12:00~)で合計11万1000字出します(概算)

2021年1月に、それまで取り組んでいた読書会の記事のいくつかをまとめて共著『闇の自己啓発』(早川書房)として書籍にしました。概要については、例えば以下のような書評を書いてもらっているので、ご参考まで。

 そんな感じで、あれこれ書き物の依頼を受けるようになって、文学フリマに出す同人誌にお声がけをもらう機会も増えたりしました。それでせっかくだから一度にたくさん書いたら一発芸になるんじゃないかと思って、2022年11月の文学フリマ東京35では4カ所で5本、合わせて6万字ほど書いていたので報告しました(注。一発芸のためにたくさん書いたわけではないです)。

ただ、この一発芸は思ったよりウケませんでした。後でひとから指摘を受けたのは「6万字って字面で見ても、どれくらいの量だかわかりづらい」とのことでした。以下のようにヴィジュアルでわかりやすくするべきでした。

 量をたくさん書いて一発芸することしか考えていないモンスターみたいな言動になっていると思うので言い添えます。縁があって寄稿できたのだし、書きたいことを書いて文章はできあがっています。一発芸は後づけです。
 自分の知る限り、それぞれの原稿は心ある読者に恵まれたようで、そのことは大変うれしく思っていて、お世話になった各同人の編集さんには感謝しているし、だからこれ以上は望み過ぎではないかとも思いつつ、しかし一発芸でもウケてみたかった、との思いが、実はゼロにならず残っていました。
 半年後の文学フリマ東京36で分量に再挑戦するのは流石にいろいろな意味で限界だったので、量での挑戦では無くて、つくりかたの面でいろいろ挑戦をしようと思って、短歌連作50首と散文1400字に取り組みました。

それで今回です。
 縁あっていくつか依頼をいただいたし、奮い立つ出来事があった後で公募を見て原稿を送ったところもあるのですが、最終的にはこうなりました。

ひとつの場所に11万字寄稿したわけではないので、どこで何を書いたのか、紹介をしようと思いました。ただ、自己宣伝だけするのも、なんだか気乗りしないので、せっかくだし好きなボカロMVと一緒に紹介していこうと思います。それに今回はボカロ関連で2本、3万9千字書いたし、原稿の中で紹介しそびれた曲を挙げたいって言うのもあります。
 先にどこに何を書いたか列挙しておくとこんな感じです。

📖『ferne ZWEI』📍ち-19 / ferne
 「ボカロ・コーリング・ユートピア:あなたのためにあったかもしれない理想郷について」【1万3000字】
📖『ボーカロイド文化の現在地』📍ち-18 / Async Voice
 「ボカロ・クロース・エンカウンター:もしかするといるのかもしれない仲間達のために」【2万6000字】
📖『ビジュアル美少女』📍た-02 / ビジュアル美少女
 「美少女ゲーム批評についての異端的論考:Mad eor The Killing Joke」【4万字】
📖『ボクラ・ネクラ 第六集』📍そ-38 / 不毛連盟
 「不法的推理:平成期日本の事例」【3万2000字】
📖『鳩のおとむらい 鳩ほがらかアンソロジー』📍え-64 / 造鳩會
 「はとをうめる / はとよよみがえれ」【イラスト2点+小文】
【1万3000字】+【2万6000字】+【4万字】+【3万2000字】+【イラスト2点+小文】=【11万1000字+α】

*『ボクラ・ネクラ 第六集』の初頒布は文学フリマ大阪11(2023年9月10日)でした。

 それでは、並べた順に紹介していきます。

📖『ferne ZWEI』📍ち-19 / ferne 「ボカロ・コーリング・ユートピア:あなたのためにあったかもしれない理想郷について」【1万3000字】

 音楽評論アンソロジー『ferne ZWEI』に寄稿しました。主宰は北出栞さんです。こんな風に紹介をしてもらいました。

北出さんとは不思議な間柄です。自分が書き手としてデビューした第一作の『Rhetorica#04 特集:棲家 ver. 0.0』に北出さんも寄稿していて、その頃からセカイ系のことを考えている書き手だと関心を寄せていました。

 他方で私と北出さんは、趣味にせよスタイルにせよ、カラーが全然違う箇所もあります。たしか北出さんも(江永とは)セカイ系などの理解が違う、ある意味では真逆と言ってもいいところもある、と述べていたと思います。
 でも、同じ景色を見ていたりするときも確かにあるし、あとはカルチャーを言葉にして残すってどういう振る舞いなのか、っていうところで意気投合ができそうなところもあって、だから今回のようにコラボレーション(というより江永が客演として参加、のほうが近いかも)できたのだと思います。
 また、北出さんが今回、ある側面では闇=病みのカルチャーとも関連の深い浜崎あゆみで論考を書いていて、逆に私が青春パンクの枠組みで聴かれていそうな175R「空に唄えば」から始まる論考を書いているというのも、個人的には面白いコントラストだと感じていました。
 自分の論の冒頭では「空に唄えば」のほかに2つの歌を引いているのですが、haqlab「ハッピーエンドロール」は、IAの唄うボカロ曲で、「夜好性」以前にあったプレ「夜好性」曲のうちで、私が最も心奪われた作品のうちのひとつです。「ハッピーエンドロール」のMVで登場する赤い風船は、いよわ「アプリコット」のあの風船に先立つものだったように感じられます。

Liz Triangle「こどものせかい」は東方projectの同人音楽です。原曲は「U.N.オーエンは彼女なのか?」。この曲をアレンジしたLiz Triangle作品に「Who Killed U.N.Owen」というのもあり、こちらも繰り返し聴いてきた曲でした。この曲は東方キャラのフランドール・スカーレットのテーマソングと言えると思うのですが、自分にとってのセカイ系のコア・イメージには<引きこもりの碇シンジ>ならぬ<引きこもりのフランドール>の姿があるのかもしれない。時折、そう思います。江永「ボカロ・コーリング・ユートピア」の第1節は「うまれisなやみ」と題してあり、これは以前に自分が寄稿した詩の題の転用なのですが、この時点で自分のイマジナリーな領域にはフランドールが参照項としてあることは、自覚していました。

この観点から個人的に興味深いのが、今夏(2023年8月)に登場した分散型自律ゴーレム りむるです。りむる(CV:をとは)の曲には、2020年代バージョンにアレンジされた形のフランドール的なものを感じます。

「ボカロ・コーリング・ユートピア」ではフロクロ(Frog96)作品をひとつ取り上げましたが(なお『ボーカロイドの現在地』でもフロクロさんへのインタビューがあったのを後から知り、マジで偶然でびっくりしてます)、私が論じたかったけど現状のリソースでは自分には語れないと断念した1曲が、フロクロ feat. 分散型自律ゴーレム りむる「エモーショナルドットネット」でした。この曲についても何か書けるようになりたい。今後の課題です。

労働、健康さ、創造性、パフォーマンスと、AI化=ゴーレム化=ゾンビ化?

📖『ボーカロイド文化の現在地』📍ち-18 / Async Voice 「ボカロ・クロース・エンカウンター:もしかするといるのかもしれない仲間達のために」【2万6000字】

「ボカロ」ジャンルの現在をつかむための評論同人誌『ボーカロイド文化の現在地』に寄稿しました。highlandさんとはこれまで近いようでいてなかなか縁が無く、今回の寄稿ではじめていろいろとやり取りをした間柄でした。
 依頼メールをいただいたとき、うれしかったです。自分のnote記事の「視聴したMVの話ほか」シリーズや「輪廻転生、ディストピア――ボカロ曲における反出生主義と他界の想像」を読んでこの書き手(江永)に寄稿してほしいとご依頼くださった旨が書いてあり、これは書き手冥利に尽きることだと感じました。

 この相手は私に書いて欲しいと思って依頼をくれた。そう感じることの、よろこび。いわゆる承認欲求の話も混ざっているかもしれませんが、それだけじゃなくて、これは書き手としての矜持とかの問題でもあると思います。例えば、大道芸をしていたら話題になってマスメディアに取り上げられた。そういう出来事がうれしいか否か。私は正直、それはそれでうれしいと思うほうですが、しかし「話題の人だからよくわからないけど呼んで芸をさせておこう」みたいな扱いしかされない状況を想像すると、やっぱり心が荒んでしまう気がします。だからこうして「一発芸」などしてしまう一方で、私は矢張り、この書き手にものづくりを頼みたい、と託されることによろこぶ側なのも、間違いないんだなあと思ったりします。
 元々、予定していたタイトルは「ボカロ・ホラー・ジャパネスク」だったのですが、最後の校正時に現在の題「クロース・エンカウンター」に変えたりしたので、highlandさんにはお手数をお掛けしました。ありがとうございます。
 <ホラー・ジャパネスク>は1990年代に季刊誌『幻想文学』の特集名で使用された呼称で、ゼロ年代には『ホラー・ジャパネスクの現在』(ナイトメア叢書)なんて書物も出たりしていて、いわば「Jホラー」と並行して存在していた呼称でした。この言葉を使いながら、初音ミクに先立って機械仕掛けの歌姫の地位にいた宝野アリカ(ALI PROJECT)や、広義のサイバーゴシック+スチームパンク(≒大正ロマン/昭和モダン)要素をまとっていた諸々のヴィジュアル系のスタイルも念頭に入れてボカロ曲を論じていく……というのが当初の計画だったのですが、書くうちに違う感じのものになっていました。
 どんな風になったかは実際に読んでもらえたら、うれしいです。
 以下、論考では十分にはできなかった話を手短に。ボカロを引きつつ。

 ホラー・ジャパネスクという呼称で念頭に置いていたビッグ・ネームのひとりがハチ(米津玄師)でした。上に挙げた2曲のほか、例えば『パンダ・ヒーロー』も今敏監督の『妄想代理人』(少年バット)の影響があるのではないか、とか考えていました。歌詞で意味深な(都市伝説風の)考察を誘うという風習を根付かせていった点でも重要なポジションである気がします。ボカロPだったハチが米津玄師になっていく、という過程を踏まえてMVやスタイルの吟味をしていくのは、宮崎駿や庵野秀明や新海誠がどんな風に現在に至ったのかを考えていくのと同じような感じで、興味深く有意義な仕事になるという予感があります。
 もうひとつのビッグ・ネームは、じん「カゲロウデイズ」です。Vtuberによるカバー版を貼ります。

 カゲロウプロジェクトというシリーズとは独立して、8月15日をループするこの曲には、架空戦記的な想像力を喚起させるところがある。そんな都市伝説の考察めいた物言いを2010年代前半に目にしていた覚えが私にはあります。「ループ」と「8月15日」という要素だけピックアップするのは、カゲプロ総体の読解としては偏っているし、MVの理解としても限定的すぎる。だけど、トラウマ的出来事のフラッシュバック=ループと「夏」というのが日本のカルチャーで定番セットになっているのは否定できないし、分析に値する事柄ではないかとも感じます(戦後日本における青春戦争物語としての「甲子園」ほかのスポーツ文化というものを私は考えさせられてしまう)。
 こうしたトラウマ・カルチャーとでもいうべきものにこだわりながら作品づくりを続けているように映るアーティストとしてのシャノンのMVに私は関心があります。こうした事柄もしっかり書きたい。今後の課題です。

怪獣映画のことを考えながら見てしまいます。

カゲロウデイズともっとも距離が近い気がする作品。ただシャノンさん第一作からして「七月十九日は永遠に」なので、ずっとトラウマと喪という主題を扱っているような感じがしています。

「最終戦争」から49日後に発表された、シャノン13作目がこのMVで、ある種のクライマックスという感触がありました。

14曲目。なんだか新フェイズへ移行し始めていると感じていました。マインクラフトに加えて『不思議の国のアリス』と『銃・病原菌・鉄』が参照されている気配で、いわば木澤佐登志的なイメージ群がある、という印象を覚えました。椎乃味醂 feat. 可不,結月ゆかり「知っちゃった」で思弁的実在論への言及があったり、伊根 feat. 星界「グレートフィルター」という曲があったり(いわゆるグレートフィルター仮説が元ネタだと思われる)、現代思想混じりのSF・ホラーなカルチャーがボカロに流れ込んでいるのを最近は感じています。あとはsyudou「インザバックルーム」などもそうですね。

📖『ビジュアル美少女』📍た-02 / ビジュアル美少女 「美少女ゲーム批評についての異端的論考:Mad for The Killing Joke」【4万字】

縁あって「美少女ゲーム総合批評誌」に寄稿しました。ただ、私は「美少女ゲーム批評」というのを、なんとか延命させるよりは、きっちり絶命させるほうがよいのではないか、という思いもあって、これが延命と絶命のどっちに寄与するのかわからないが、志のある読み手を想定して自分に書けることを書こう、と試みたのが論考「Mad for The Killing Joke」になります。
 そんな自分の屈託が混ざった文章の書きあがりを、ギリギリまで待ってくださったのが主宰のくるみ瑠璃さんでした。始めに6000字書いたものを渡した上で「実はまだ書きたいことがあるので、もっと書かせてほしい」とお願いするというかなり無茶な振る舞いをしたのですが、快諾してもらったことには本当に深い感謝があります。書いているうちに調べなおしていたら元のプランが崩れ、1万6000字と言っていたのが(参考文献表込みで)4万字近くになってしまっていましたが、今、書くべきだと思ったことを書けたし、またくるみ瑠璃さんに、これは『ビジュアル美少女』第一号に載せるべきだと思いました、というような応答をもらえたことも、とてもありがたいことでした。概要は以下のような感じ、と言いつつ、錯綜もしてると思います。

ご興味あれば、読んでいただけたら幸いです。
 なおアカウント「ビジュアル美少女」の提示した画像が「センシティブな内容が含まれている可能性のあるメディアです」とされてるのですが、表紙と目次があるだけで特にセンシティブではないのではないかと思います。

この表紙は「・刺激の強いコンテンツ」「・グロテスクなコンテンツ」には該当しないと思います

 最近、批評的な書き方というのを考えさせられる機会が増えました。
 自分が昔に書きつけて、今でも考えている問いがあって、何度か繰り返し書いているんですが、下の記事から引用してみます。

 散文は自由で平等なものだ、という考え方がある。例えば(本来)散文にルールはないので(本来)誰が何を書いても構わない、だから(本来)自由に読み書きがなされ、毀誉褒貶を、平等にこうむる(資格がある)のだ、といった具合の考え方である。それにひきかえると、批評は自由と平等に反した営みであるように映る。正邪善悪美醜優劣、どんな文言を用いるのであれ、批評のすることはと言えば、選別である。よくないものと、よいものを選別する。もう少し(不)穏当に言えば、誰もがそんな選別をするように、批評は誘惑、ないし教導する。よき作品やよき解釈、そしてよきジャンルと、よくない作品やよくない解釈、よくないジャンルとを、選別する。それが批評である。こんな風にまとめるのは、それほど困難なことではない。
 しかし、他の語り、他の考え、他の価値転換のやり方は、ないのだろうか。

江永泉「不毛の荒れ地の自由と平等」

私自身が考える理想的な批評文のプロセスは以下の通りです。
 1.対象が何であるか記述する
 2.対象が何に分類されるか記述する
 3.対象がその分類枠の基準でどういう評価になるか記述する
 4a.実在対象の添削(訂正案)を通して未だ現れざる理想を探る
 4b.実在対象の魅力を記述して分類枠や評価軸の訂正を促す
私自身は、始めから終わりまでこの通りに書けたことは、たぶん無いです。
 書けるように書こうとすると、こういう感じには、ならない。
 文章の制作は私にはダンスや演奏のようなものだと感じられる機会が増えました。どんなパフォーマンスでもジャンルや界隈ごとにルールとかマナーそれに流行り廃りがあって、カラオケで100点を取るためのテクニックと、ストリートやSNSで話題になるテクニックは違います。コンテストに出るなら対策したほうが勝ちやすい気がします。社交をするときは挨拶に向かう土地の住人たちの習俗を見極めておく必要があります。
 批評というのは、大抵「~の批評」という形で「~」の余所者として書くことを意味すると思います。仮にインサイダーであっても、どこかしらアウトサイダーのように書くことになります。多くの場合、余所者は以下の諸々の釣り合いを取ることを強いられます。
 ・そこで何が求められているのか
 ・自分は何がしたいのか
 ・自分に何ができるのか
 でも、こういうことを思っているつもりでも、こんな風に書いているのだしても、実際にそういうことがうまくできているかは、別の話だろうと思います。
 今回の「Mad for The Killing Joke」で、こういうことがうまくできているのか。あまり自信はないです。ただ、よく機能し、読み手に寄与するものであって欲しい。切に、そう願っています。

 実は論考冒頭でBLACKPAST『ビジュアルノベルの星霜圏』に言及したのですが、自分が今ふと脳裡に浮かべた、夜空のあるボカロMV、これでした。

📖『ボクラ・ネクラ 第六集』📍そ-38 / 不毛連盟 「不法的推理:平成期日本の事例」【3万2000字】

自分が書いて送った概要があったので、以下に貼りつけます。

不毛連盟は、基本的に荒岸来穂さんが音頭を取っているグループだと言えると思います。立ち上げである第一集(2018年11月)から寄稿させてもらっていました。自分なりに百合論をやろうとしたもので、連載の機会をもらえたのですが、ちょっと書けなくなり、中編で止まっています。

それで、私が例えば以下みたいな感じで、どうにか書こうとして、しかし土台のところをもっと掘り下げないと、という感じで、じたばたしていたら、

気がつくと荒岸さんが百合ジャンル作品を扱って論を書いていて、

なんだか不思議な気持ちになっています。そして荒岸さんが百合マンガを論じた『第六集』で私はミステリ論を書いたのでした。編集してもらった荒岸さんにこんな風に言ってもらったのは、私の誉れです。

 ミステリを語る場で出会って、なんだか意気投合してから、荒岸さんとの交流も気がつけば長くなっていました。改めて感謝を。
 百合の話をもう少し。最近も、伊藤計劃『ハーモニー』の評価をめぐって百合SFっぽい話がSNS上で交わされているのを見かけました。それだけではないですが、近ごろの自分の連投から、幾つか抜粋してみます。

 自分は最近、日本で百合ジャンル作品を論ずる書き手の相互に参照ネットワークをつくれるように言説空間を整備する必要を感じており、以下のような形で何名かの名前を挙げていたのですが、

『エトセトラ』vol.10に水上文「そして誰が排除されるのか?――百合ジャンルにおけるミサンドリーの問題」が掲載されたとうかがっており、自分はまだ読めていないのですが、とても気になっています。

 もし今、自分が「百合」について何か書くならば、このMVのことをうまく語れるようになってからにしたい、と思っている作品です。これを読む前にディディエ・エリボン『ランスへの帰郷』を読んでいた影響もあるのだと思うのですが、私はこんな心地になりました。

 荒っぽく言えば、恋愛と階級のことが頭を巡っていたのでした。

📖『鳩のおとむらい 鳩ほがらかアンソロジー』📍え-64 / 造鳩會 「はとをうめる / はとよよみがえれ」【イラスト2点+小文】

 藤井さんの企画を拝見し、送るべきものを持っていた、と思って参加しました。イラストをふたつ。それに短い文章を付しました。藤井さんに送ったメールの文面を一部抜粋します。

昔、紙に描いたまま、ずっとしまってあったイラストでした。
今回の企画を見て、ひとに見せたくなりました。
機会をいただき、ありがとうございます。

江永泉「件名:鳩の弔い」2023年10月10日(火) 21:43

 このボカロ曲を最後に掲げて、この記事は結びたいと思います。気がついたら、この記事自体が1万字近くになっていました。お読みくださった方に心より御礼を。11月11日の文学フリマに参加される皆様が、すばらしい時間を過ごすことを祈っております。(了)

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