輪廻転生、ディストピア――ボカロ曲における反出生主義と他界の想像[explicit]

【[explicit]:取扱注意】

 本稿が、誰かへの嘲罵、恨み言や鬱憤晴らしなどの口実になることを筆者(私)は望まない。また、本稿の題名や、以下に挙げる語句等に関連して、本稿を読むことが(自他いずれにとってであれ)有害な感情の喚起に結び付く可能性があると思われる場合、どうか本稿を読まずに済ませていだだけないだろうかと、筆者(私)は懇願する。語句:厭世思想、反出生主義、引きこもり、原子核反応。また、本稿では、あるやる夫スレの結末に言及する。

MVほか書誌情報が十分ではない。大変申し訳ないが、本校で挙げたどの固有名詞も、検索すれば概ね発表年ほかの書誌情報が出るため、それを参照のこと。ボカロ曲に関しては初音ミクWikiが参考になる。

1・ありえた未来のための自己滅却:あるやる夫スレと、あるボカロ曲との協働

 思わず泣いてしまった。ばくだんいわ(作者名)による『エイプリル中篇 ――――彼は、百億の夜を駆け抜けたようです。』(2014年4月1日)というやる夫スレ作品を、初めて読んだ時のことだ。これは、『ねらう緒は聖杯戦争を蹂躙するようです』(2013年5月7日-同年6月15日)という長編やる夫スレ作品のスピンオフにあたる作品である。簡便な理解のために、以下で大まかな経緯を、かいつまんで説明する。

 周知のように、やる夫スレとは、スレッドフロート型の電子掲示板を主な発表媒体とする創作ジャンルである。n次創作的に諸キャラクターのAAが使用され、ときには原作作品での来歴が活かされるが、原則的には種々のAAにそのやる夫スレの物語世界内の住人としての設定や役柄を与えなおすことで登場人物を造形する作品群である(いわゆるスター・システムのように、同じキャラクターのAAが必ずしも同一とは限らない作者たちの手による複数の作品で使用されているのが通例だ)。

 長篇『ねらう緒は聖杯戦争を蹂躙するようです』はTYPE-MOONの「Fateシリーズ」を下敷きにした作品であり、「ねらう緒」というのは、やる夫AAの派生キャラクターの1つである(この物語の主人公は彼である)。「聖杯戦争」とは、「Fateシリーズ」に登場するオカルト的な儀式で、14名、計7組のタッグを中心とした、生死を賭してのバトルロイヤルである。

 この作品は、「安価スレ」と呼ばれる形式の集団即興創作に該当する。この形式の作品では、スレ作者(本作の場合、ばくだんいわ)が、自身以外による掲示板上の書き込みを参照しながら(ある程度)即興で創作している(より詳しく言えば、レスアンカーなどで指定された投下スレッドを、投下時のコンマ秒数などもときに考慮しつつ参照して創作する)。安価スレ作者は、TRPG(テーブルトーク・ロールプレイング・ゲーム)のGM(ゲームマスター)に近い役回りであるとされることがある。もちろん、安価スレ作者とTRPGのGMには明確な差異もある。匿名の投稿者たちの地位は、プレイヤーとは異なる。

 この長編のあらましを、世界観や舞台設定などを捨象して述べてみる。この作品は、悲惨な境遇を背負った主人公「ねらう緒」が、種々のものを「蹂躙」し、取り返しのつかない悪逆非道を行ってまで、宿願であるところの真理への到達を達成する話であると要約できる。ただし、この場合の真理への到達とは、自己滅却でもあるのだが。「世界の果てまで見通せるような――――全身が、魂が震えるほど、クリアな知覚。/過去と未来と現在と、すべての可能性は融け合い――――/全ての事象に包まれながら、不思議な安堵感とともに、僕という存在は終わってゆく。/その、刹那とも言えぬ狭間のとき。/ひたすらに……求める答えに、手を伸ばした。/手を伸ばすうちにも、膨大な情報が魂に打ち付けられ、こころは砕けてゆく」。『ねらう緒は聖杯戦争を蹂躙するようです』は、悲劇を綴った長編安価作品として名高いやる夫スレ作品の一つである。

 『エイプリル中篇 ――――彼は、百億の夜を駆け抜けたようです。』は、長篇『ねらう緒は聖杯戦争を蹂躙するようです』の完結後に(エイプリル・フールにセルフ・パロディを発表するという習慣を念頭に)作成された、スピンオフ的な作品である。他のやる夫スレ作品(やる夫スレにおける「聖杯戦争」n次創作ブームを牽引した作者である、エイワス◆ovWgAQvoZAによる長編安価スレ作品)と世界観をクロスオーバーさせつつ、先述したように「答え」を求めながら消滅していく渦中で、すべての悲劇がなかったことになった理想郷に留まる選択肢を提示された「ねらう緒」が、その、そのありえた未来としての理想郷を脱出して消滅(そして「答え」を得る)へと至る、一部始終を描いている。神的な存在から、いわば二次創作じみたやさしい世界へと留まる選択肢を提示された「ねらう緒」は、次のように述べ、それを拒否する。「この未来は。/『踏み躙った僕』が手を伸ばさないからこそ。/『踏み躙らなかった僕』ならば、手を伸ばせたかもしれないからこそ……/――――どこまでも、まばゆい未来のままでいられるんだ」。そして消滅の間際、「僕たちは、どうあっても救われない存在ではなかったのだと。/ただ、少しだけ、間が悪かっただけなのだと。/たったそれだけの、そして全ての答えを得て。/「――――良かった。」」と呟き、消滅していく(長編ですでに示されていた結末に合流する)。

 この物語では、主要登場人物の一人として「鏡音リン」(AAと同じ役名)が登場するが、『エイプリル中篇 ――――彼は、百億の夜を駆け抜けたようです。』の、理想郷での学園祭の場面で、「リン」は歌を披露する。――ボーカロイド、鏡音リンの歌う曲、『炉心融解』(2008年12月)である。私は、この物語をいったん読み終えてから、「【歌詞の参照を強く推奨】」という注記があったので、『炉心融解』を、聴いた(この曲を聴くのは初めてだった気がする)。そして気づいたら涙がボロボロ出てきて声だけは抑えながら嗚咽していた。

 これは、こうした自分の記憶、そのときの気持ちを整理しなおすために書かれた文でもある。

※追記(2022年12月14日):『炉心融解』は作者iroha(sasaki)のYoutubeチャンネルにも再掲された(2021年10月20日にアップロード)

2・立脚地としての他界:芥川龍之介『河童』(1927年)と反出生主義

 ここでは反出生主義という言葉を、デイヴィッド・ベネター『生まれてこない方が良かった――存在してしまうことの害悪』(2006年、小島和男・田村宜義により2017年に日訳)に即しては使用しない。それでは反出生主義とは何か? イメージするために、ここでは芥川龍之介『河童』(1927年)を引用してみる (青空文庫参照 https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/45761_39095.html )。

河童もお産をする時には我々人間と同じことです。やはり医者や産婆などの助けを借りてお産をするのです。けれどもお産をするとなると、父親は電話でもかけるやうに母親の生殖器に口をつけ、「お前はこの世界へ生れて来るかどうか、よく考へた上で返事をしろ。」と大きな声で尋ねるのです。[……]すると細君の腹の中の子は多少気兼でもしてゐると見え、かう小声に返事をしました。
「僕は生れたくはありません。第一僕のお父さんの遺伝は精神病だけでも大へんです。その上僕は河童的存在を悪いと信じてゐますから。」
 [……]そこにゐ合せた産婆は忽ち細君の生殖器へ太い硝子の管を突きこみ、何か液体を注射しました。すると細君はほつとしたやうに太い息を洩らしました。同時に又今まで大きかつた腹は水素瓦斯を抜いた風船のやうにへたへたと縮んでしまひました。
 かう云ふ返事をする位ですから、河童の子供は生れるが早いか、勿論歩いたりしやべつたりするのです。

 このように、出生前に意思表示が可能であり、出生するかしないかを未出生の当事者が選択できるという前提の下でなされる、出生しない選択をするべきだという立場、この「僕は生れたくはありません」と控えめに語る「細君の腹の中の子」の立場を、さしあたり「河童」的反出生主義と呼びうるだろう。しかし、この場面を出生するかしないかの選択が当事者によりなされている場面と解してしまってよいのだろうか。この「細君の腹の中の子」は既に「この世界」の言語を習得しており、「この世界」の他人(ないしは他河童)への配慮さえ示しているように映る(「多少気兼でもしてゐると見え、かう小声に返事をしました」)。そうだとすれば、ここでの「子」の選択は、「腹の中」から出るか、出ないか、なのではないか。「この世界へ生れて来るかどうか」という問いは実は成立しておらず、むしろこの場面は、ひきこもりに対して、社会へ出るか死ぬかを選ぶように強いる状況に類似しているようにさえ思われてくる(「子」の「生れたくはありません」は「腹の中」に留まりたいとの意思表示だったのに、「産婆」が「子」の合意なく「何か液体を注射」していたのだとしたら?)。――その他、この場面だけでも優生主義的言動ほか種々の論点が含まれているが、ここでは『河童』において、「腹の中の子」は結局「この世界」にすでに包摂されているように映り、「この世界」の外はイメージされていない(無しかない)という点に着目して話を進めたい。

 「河童」的反出生主義は、既に「この世界」に生じてしまっているという事態をうまく捉えられていないように映る。端的に言って、生まれたくないという者は、どこから物を言っているつもりなのか? いま、ここにある「この世界」を否定する観点などありうるのか? 「この世界」の外が無であれば、あの「この世界へ生れて来るかどうか」という問いが幻視させていたような、「この世界」の外に立脚しての反出生主義は成立しないだろう。何者であれ無の中に住まうことはできないはずだ(あるいは「この世界」の何人であれ、無と会話したり、無の利害を慮ることはできないはずだ)。

 この難点をうまく切り抜ける一方策として、何らかの他界(「この世界」とは隔絶もせず一致してもいない別世界)を想定することは有効であろう。他界は反実仮想に(さしあたりの)実質感を与えるイメージ装置なのだ。付言をすれば、ループや異世界転生は、あたかも「この世界」を複数化するかのようにして他界を想像させる。それらは「この世界」を審判する立脚地をもたらすのだ(反対の立場から言えば、より巧妙な欺瞞をもたらす装置なのだ)。――ここでは輪廻思想と可能世界論の混合物が問題となっている。可能世界論を扱った文学理論としてはマリー=ロール・ライアンの著作が有名ではあるが、私は、永井均やデレク・パーフィットの議論などもこのような混合物を検討する上で有効だと見込んでいる。だが本稿の論旨を逸する(また私が扱いきれない)ので触れるにとどめる(例えばパーフィットによる地球から火星への転送という思考実験を、いわゆる〈なろう系〉小説における異世界転生と比較することは、異世界転生というジャンルや個別作品の理解に際して有益に働くと思われる。また永井均は、パーフィットの思考実験を自らの思考に即して読み換えているが、それは(異世界)転生の(不)可能性に関する指摘を含んでいるように私には思われる)。

3・ボカロ曲『炉心融解』(2008年)と反実仮想:自己滅却から他界の夢想へ

 あらためてボカロ曲(ボーカロイドを使用した楽曲)『炉心融解』(2008年12月、作曲はiroha(sasaki)、作詞はkuma(alfled))を取り上げる。この曲は比喩として原子核反応(とりわけ核融合)を取り上げており、楽曲発表時までに予見できたとは思えないが、東日本大震災(2011年3月11日)に伴う福島第一原子力発電所事故をはじめとした一連の出来事により、問題含みなイメージを喚起しがちな文脈が(遡行的に)絡みついている。ちなみに、同時代的に見るならば、この曲のみが不用意に原子核反応に言及していたわけではないはずだ。例えば、手塚治虫(が原作者の)作品として知られる、原子核反応を利用して動くとされたキャラクター、「鉄腕アトム」は2003~2004年にかけてTVアニメで放映されており、2009年末にも長編CG映画が公開されていた。私がここで述べたいのは、この曲に事後的に絡みついてしまった文脈ではなく、この曲が描く自己滅却のイメージに反出生主義的解釈の余地があること、そしてまた先ほど見たやる夫スレでこの曲がいかに活用されているかということである (以下、ボカロ曲歌詞の引用に際しては、『初音ミク Wiki』を利用した https://w.atwiki.jp/hmiku/ ).

 『炉心融解』のサビは三度あるが、それらはいずれも自己滅却のイメージを喚起する。初めのサビはこうだ。

核融合炉にさ
飛び込んでみたい と思う
真っ青な 光 包まれて奇麗
核融合炉にさ
飛び込んでみたら そしたら
すべてが許されるような気がして

 ここでは自己滅却が美化されており、同時にそれが何らかの贖いとして捉えられている。レトロ・フューチャー的イメージの美がこの曲の基調になっている(例えば、始まりの「街明かり 華やか/エーテル麻酔 の 冷たさ」などを参照)。同時に、何らかの罪責性への意識も、「君の首を絞める夢を見た」のリフレインが示すようにこの曲全体に滲んでいる。2番目のサビは以下の通りだ。

核融合炉にさ
飛び込んでみたい と思う
真っ白に 記憶 融かされて消える
核融合炉にさ
飛び込んでみたら また昔みたいに
眠れるような そんな気がして

 最初のサビで提示された贖いのイメージは応報的な罰から修復的な埋め合わせ、というより過去への回帰として捉えられている(ただし、最初のサビと2番目のサビがいずれも「気がして」と結ばれているので、これは事実に反する願望、強迫的に反復する悔恨を述べていると解する余地がある)。「記憶」の消滅と「昔みたいに/眠れる」ことが結び付けられるこの部分は、自己滅却のイメージを〈過去をなかったことにする〉というイメージと融合させていく(おそらくここでは、自己、過去、記憶、罪責性、贖いなどのテーマが極めて問題含みな形で組み合わさっているが、それを精緻に分析する準備は筆者には整っていない)。そして、最後のサビでは自己滅却と反実仮想が混ざり合い、過ちある「僕」のいる「この世界」ならざる他界、つまり〈自己がない世界〉という理想郷が夢想されることになる。

核融合炉にさ
飛び込んでみたら そしたら
きっと眠るように 消えていけるんだ
僕のいない朝は
今よりずっと 素晴らしくて
全ての歯車が噛み合った
きっと そんな世界だ

 5度目の「核融合炉にさ」に引き続くのは自己滅却に痛みなき入眠という幻想を上乗せする歌詞である。そして「僕のいない朝」は(この歌が冒頭で「眠れない 午前二時/全てが 急速に変わる」と深夜から始まっていたことと対照的である)、「今」ここにある世界「よりずっと 素晴らしくて」、過ちある「僕」が消滅したことで「全ての歯車が噛み合った」、理想の世界であるだろう、到来するのは「きっと そんな世界だ」と唄い上げて結ばれる(歌声としては、リンの今際の叫びめく声が最後に響く)。もはや贖えない過ちの記憶(罪責感)と共にある「僕」自体が、世界の「歯車が噛み合」うこと(贖いの完遂)を妨げるトラブルと化しているかのようだ。ここにある「僕のいない朝」は、単に同じ世界から「僕」が減算される時点を指すのではなく、「僕」のいる「歯車が噛み合」わない「今」の世界と、反実仮想的な「今よりずっと 素晴らしくて/全ての歯車が噛み合った」、「僕のいない」、「世界」とを並列しているかのようにも映る。そもそもこの「世界」に、「僕」なんか「いない」方がよかった、かのようである。――私がいま施した、反実仮想や他界を強調するこの読みは、もちろん、バイアスのかかった読みである。

 やる夫スレ『エイプリル中篇 ――――彼は、百億の夜を駆け抜けたようです。』の物語における、ボカロ曲『炉心融解』の編み込まれ方が、私を、このようなバイアスまじりの――ただし、このように解する余地はある歌だと思う――読みに誘ったように私は感じている。思えば、『ねらう緒は聖杯戦争を蹂躙するようです』の時点で、絞扼や、消滅としての真理への到達などが描かれており、作中で「鏡音リン」が登場していた以上、2013年頃のばくだんいわによる創作自体が、2008年に発表されていた『炉心融解』を参照したり、念頭に置いたりしてなされていた可能性も否めない。ともあれ、ばくだんいわ『エイプリル中篇 ――――彼は、百億の夜を駆け抜けたようです。』が、『炉心融解』を巧みに(あるいは露骨に)物語へと編み込んでいたことは確かである。

 悲劇的物語が、ありえたはずの理想郷の場景を反実仮想的に挟み込む、という手法は新奇なものではないと言えよう(例えば、1995年初放映のTVアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』最終話におけるいわゆる「学園エヴァ」は有名であろう)。しかし、ゼロ年代のボカロ曲が2010年代のやる夫スレの中に編みなおされるとき、自責の念を伴う厭世的思想が、反出生主義風の問いと可能世界論風の道具立ての下で解釈しなおされた(強調点が変わった)ように映るのは、私にとって興味深い事柄である。自己を滅却してまで「ねらう緒」が答えを得ようとした問いは、「僕は、僕たちは――――本当に、どうあっても救われない存在だったのか?」だった。あの「河童的存在を悪いと信じてゐ」たという、生まれなかった河童の子のことを思い出すならば、この問いを、「ねらう緒」的存在はどうあっても「悪い」のか、生まれないことでしか「救われない存在」だったのか、と換言できるはずだ。――こうして、反出生主義風の問いと可能世界論風の道具立てを伴う、反実仮想への着目が、ゼロ年代の作品の示す感性と、2010年代の作品の示す感性とを、架橋する。

 ボカロ曲を起点とした作品群である、じん「カゲロウプロジェクト」(2011年-)を論じた批評家、村上裕一は、デビュー作の『ゴーストの条件』(2011年)で、音楽ユニットSound Horizon(じんと同じく、複数の曲を通してある種の物語を想起させる作風で知られる)の諸作品に言及しながら、「水子」というテーマを論じていた(なお、同時期の対談記事でも村上はSound Horizonを例に「水子」というテーマを論じている。以下参照)。

2022年3月23日追記:本記事では「相馬俊樹 × 村上裕一 対談:Sound Horizon【後編】」(『WEBスナイパー』掲載, 2011年01月05日更新)のリンクを付していた。しかし2022年03月18日17:54着のメールにより、同URLの内容が「問題箇所:利用規約の「アダルト、性的、わいせつ的、暴力的な表現行為、その他過度の不快感を及ぼすおそれのあるもの、およびそれらのサイトへのリンクがあるもの」部分に該当する「性交、または性交類似行為の描写であったり局部の露出のある画像の投稿」と見受けられる内容」と判断され、note運営事務局により本記事の公開停止措置が取られた。よってリンクを削除した。

 一息に書くが、おそらく、「生まれてこない方が良かった」や「僕は生れたくはありません」などの言がなお、「この世界」に足を置かなければ成り立たないはずの発話だとすれば、それらと似て非なる「生まれてこないままで、ここにいられてよかった」という発話の立脚地こそが、何らかの他界という、反実仮想を通してのみ構築しうる別の世界であり、可能世界論にも通ずるような物語装置(ループや転生)とよく馴染み、反出生主義にも伸びていくように見える、ある問題圏を、村上は、「水子たち、即ち、可能性の子供たち」というコンセプトを提起することで、探求しようとしていたように思われるのである。

 要するに、ゼロ年代と2010年代の感性を架橋するような、可能世界論風の反実仮想と反出生主義との癒合がある証左として、私はあるやる夫スレにおける、あるボカロ曲の再解釈を読解しようと本稿で試みたのだ、と思う。ゼロ年代批評が取り上げたループ構造や可能世界論を含む作品群と、転生や反出生主義といった2010年代以降に注目を受けた諸テーマを含む作品群とには、連続ないし通底するような問題意識を見出すことができ、それゆえ一連なりの問題圏がそこで展開可能なのであり、そのような問題圏を念頭にした作品読解の試みは、私にとっては、例えば芥川龍之介『河童』などを読解するのと同じくらいには、関心を掻き立てるものだったのである。

 以下では、このような見立てを敷衍しつつ、主に2010年代のボカロ曲を並べて、3つのラインを素描しようと思う。この素描を通じて、『炉心融解』から引き出した厭世や自己滅却、他界の想像などの諸モチーフが、それ以降のボカロ曲群と共振している様子を示せればと思っている。各作家の意図に還元されない仕方で、つまりまるでモチーフが自己展開したかのような筋書きの下で、幾つかの楽曲を並べて解釈する試みを以下では続ける。

 どのラインにも共通するテーマは、受動から能動へ、である。そもそも、反実仮想という振る舞い自体が、受動から能動へという志向を含みこんでいるのかもしれない。反実仮想は自己慰撫としても働く。無力に流されるまま受動的に現状に至ったのではなく、実は他の世界を選択できたにも関わらず現在のこの世界を能動的に選択したのだ、と己に言い聞かせる。その道具として可能世界論風の道具立てが役立てられることもある。

4-1・ライン1:厭世→ディストピア→サバイバル

 ゼロ年代のボカロ曲において、自己滅却のモチーフは『炉心融解』のみに見出されるわけではない。例えばsaiB『バイビーベイビーサヨウナラ』(2009年)のような曲も数え入れてもよいだろう。

 『炉心融解』と『バイビーベイビーサヨウナラ』とでの差異として、シニシズムの濃淡が挙げられるだろう。saiBのこの曲には、『炉心融解』のような贖いへの志向は見出されず、代わりに愛をシニカルに捉えようとする歌詞が散見される(「キスするときに剥がれたその下/欲望腐ったグロテスク」や「騙し騙され仏壇拝んで/それがつまりは愛なのだ」など)。なお、シニシズムやシニカルは、冷笑主義や冷笑的と訳されもするが、俗にいうマウントをとる態度ではなく、何かへの没入から距離を取る姿勢、つまり別の姿勢を示す実践の意味で私はシニシズムを使っている。上の歌詞に即して言えば、愛はくだらない(と知るべきだ)、と説くのがシニシズムなのではなく、愛に没入していると見て見ぬふりしてしまう側面(「グロテスク」や「騙し騙され」)を提示する姿勢を取るのがシニシズムなのだ。

 他界の構想を伴う反出生主義は、「この世界」へのシニシズム、すなわち厭世のモチーフへと容易に転換する。『炉心融解』のDメロにも淡いシニシズムが感じられる。

時計の秒針や
テレビの司会者や
そこにいるけど 見えない誰かの
笑い声 飽和して反響する

アレグロ・アジテート
耳鳴りが消えない 止まない
アレグロ・アジテート
耳鳴りが消えない 止まない

 ゼロ年代以前から、TVで放映されるバラエティ番組で録音笑いや現場スタッフの笑い声を映像に付け加える操作はあふれていたが、「そこにいるけど 見えない誰かの/笑い声 飽和して反響する」という表現は、次の「アジテート」という示唆的な読み(音楽用語agitatoならアジタートと読む方が一般的だろう)と相まって、仕立てられた「笑い声」に没入しないシニカルさを感じさせる。

 イエロー・ジャーナリズムめいた醜聞を好む風潮に対する厭世的な嫌悪感として、こうしたシニシズムが結実したボカロ曲の一つに、ピノキオピー『腐れ外道とチョコレゐト』(2011年)を挙げることができるだろう。

 自主規制音をふんだんに使用したこの曲は、商業的な動機で情報を発信する主体の大義を貶めるような単なる(マス・)メディア不信とは異なり、陰謀論的な暴露に対する愛好など、醜聞の需要を支える心性が己にもあると認めた上でそれを自己嫌悪するという姿勢を歌い上げており、今なお特筆すべきシニカルさを帯びて響く。

あることないことばっかの 甘い甘いチョコを舐める 嗚呼
真偽はどうあれ 添加物だらけ 美味い餌をあげる
銀紙の中身暴けば わかりやすく人は群れる 嗚呼
その裏こっそり 誰かが黒い雨を降らすのでしょう
綺麗ごとは嘘くさくて 下世話な蜜が真実でさ
あなたもかい? そりゃ私もそうだよ

なんか嫌だね

 とはいえ、この「なんか嫌」な心性は「あなた」や「私」にも瀰漫しているがゆえに、それへの離脱の契機はどこにも見えない。ピノキオピーの厭世は、「この世界」の否定ではなく、人間嫌悪めいた文明批判として展開していく。『動物のすべて』(2016年)はその一つの到達点であると言えよう。

 しかし、ここでは作家による作風の展開からは逸れて、「この世界」への隷属に対する否定のラインを辿りたい。他界の想像は、「この世界」への隷属を拒否する情念とともにある。厭世がさらに深度を増していき、シニカルな姿勢が崩れ、「この世界」に対する没入と拒絶とに分裂した状態を描写した曲として、うたたP『こちら、幸福安心委員会です。』(2012年、作詞は鳥居羊)の解釈に移りたい。

 1984年に発表されたTRPG『パラノイア』の設定を念頭に置かれたこの歌は、「幸福なのは義務なんです」と軽快に繰り返す一方で、「この世界」の外側へと離脱する情念をも歌い上げている。MVで一瞬だけ映る「強制的幸福支配」の語は示唆的である。この曲では内容空疎な「幸福」に満ちた「理想郷」が提示されるが、それはシニカルな距離を取って見ると、ディストピアに映るのである。

ハイハーイ!
さあさあ、みなさん 幸せだけが満ちてまーす!
不安とか不満、 なにひとつないでしょー?
コワーイ、恐いわー
幸せすぎて、恐いわー。

ホントに みんなが 幸せなの?
この世界の外 行きたいって、逃げたいって
水辺の公園で みんなが耳を塞いで
ビクビクしてた ねぇ、ウンディーネ?

 『腐れ外道とチョコレゐト』と『こちら、幸福安心委員会です。』は、「この世界」をディストピアとして戯画化する点では似通っているが、後者の方が離脱への衝動をより能動的に描いている。ただし、『こちら、幸福安心委員会です。』において、「この世界の外」へ離脱する方法はやはりなお受動的であるし、離脱と消滅が一致してしまっている。歌を聴く限り、「この世界の外」への離脱は、「幸福安心委員会」側により、死(「この世界」からの消滅)として与えられるのみである。たしかに、「幸せじゃないなら…」以降の、無へ至るだけの選択肢が夥しく数え上げられる箇所は鮮烈であるが、しかし、ここで始め夢見られていたのは、「幸福安心委員会」なき他界だったのではないか?

 「この世界の外」に至る方法は、ただ与えられるだけではあるまい。もはやシニカルに映らないほど「この世界」のルールに従いながら、「この世界」への内在の果てに別様のルールへと至る契機が出現する事態を予感させる曲として、和田たけあき『チュルリラ・チュルリラ・ダッダッダ!』(2016年)を聴いてみたい。この曲も独特のディストピアイメージを提示する。――それは、密告による追放(「抹殺」と表現されている)がなされる学校の教室である。

 おそらく、高見広春『バトル・ロワイアル』(1999年)が代表的であろうが、英語圏では『CUBE』(1997年)や『SAW』(2004年)などの映画に代表されるであろうデス・ゲームは、日本の場合、閉鎖的な治外法権空間という学校のイメージと混じりあい、学校文化を背景とした、サバイバルを描くジャンルとして繁栄した。この歌は、そのようなイメージをうまく形象化している。

そうよ、絶対に本心は隠しきる。蹴落とすの。
わたしひとりだけ生き残るため!

さァ!さァ!密告だ!先生に言ってやろ!
ほらほらこんなに 悪いやつらがひ・ふ・み・よ
さァ!さァ!抹殺だ!悪い子退場だ!
最後のひとりになるまで終わらないわ
チュルリラ・チュルリラ・ダッダッダ!

 この歌では、40人教室(「チクリアイ教室」、「閉鎖空間教室」と表現される)で、「わたし」が「先生」への密告を繰り返し「クラスメイト」を消し去っていく、という場景が歌われている。「わたし」は、ほとんどルールの下でのデス・ゲームに没入しているように見える(「わたしひとりだけ生き残るため!」)。しかし、最後のサビに至り、「わたし」は、デス・ゲームのルールに余りにも忠実になることで、デス・ゲームの前提となる環境を破壊していく。

さァ!さァ!密告だ!先生に言ってやろ!
あらまあ もう、いないの?クラスメイトはゼロ名
さァ!さァ!抹殺だ!先生もやってやろ!
最後のひとりになるまで終わらないわ

 『こちら、幸福安心委員会です。』は、「この世界」をディストピアとして捉えつつ、その「外」への離脱を「死」による消滅としてしか描きえなかった。しかもそこでの「死」は「幸福安心委員会」に与えられるかのように語られていた。つまり「幸福安心委員会」のルールへの反抗が、そのルール自体によって離脱=「死」としてデザインされていた。『チュルリラ・チュルリラ・ダッダッダ!』は、ルールに対する別の反抗を提示している。「わたしひとりだけ生き残る」という「本心」には、実は「密告」というデス・ゲームを成り立たせる環境と同一視されていた「先生」すら「抹殺」するという思惑が隠されていたのである。もちろん、デス・ゲームを主催する側との対決姿勢が見られる作品は、先述の『バトル・ロワイアル』を始め、稀なものではないが、この歌の場合、ルールへの忠実さがゲーム環境自体の破壊に転化する点が鮮やかである。――とはいえ、実は「わたし」が次の「先生」に成り代わるだけであるかもしれない。そのような反復を想像しない私のこの解釈は、やはりバイアスのかかったものかもしれない。しかし、この歌には、私のように解する余地もまた、備わっているはずだ。――ゲームのルールへの服従からゲームそのものへの反抗へと転換する、シニカルで能動的なこの「わたし」の姿は、「イングランド銀行を潰した男」として知られる投資家、ジョージ・ソロスの幻像を私に連想させる。

4-2・ライン2:自己の破砕→他者の破砕→世界の破砕

 『『炉心融解』は自己滅却を「融解」というイメージで残骸のない消去のように描き出しているが、自己像を唾棄するような自己否定は、自己の身体像を破砕するという方向にも展開しうる。例えばotetsu『カーニバル』(2011年)は、食人と謝肉祭のイメージを重ねながら、孤独を恐れつつ、他者に対面する道化めいた自己像ばかりを気にするあまり、かえって孤独に陥る、そうした「自分」をシニカルに歌いあげているように聞こえる。

遠くで沸いてる曲芸 落下してるのはいつかの自分で
気付けば周りは哀れな自分だらけ お馬に乗って回ってる

皆食べてしまった 誰も居ない 誰も居ない

さあさあ始まるカーニバル 真っ赤なメリーゴーランド
クルクル回った 吐き気も愛しい
騒ごうカーニバル 真っ赤なメリーゴーランド
落ちてぐちゃぐちゃの 自分を笑おうよ

 身体像の比喩的な破砕という点では、Neru『東京テディベア』(2011年)も注目すべき曲である。この曲では、何らかの理由で心の傷ついた子供が、自らを偽ろう(テディベアの縫いぐるみをつくりなおすように、自己を改造しようとする)とした結果、自らを見失い、ついに破綻していく様子が歌い上げられている。

もう何も無いよ 何も無いよ 引き剥がされて
糸屑の 海へと この細胞も
そうボクいないよ ボクいないよ 投げ捨てられて
帰る場所すら何処にも 無いんだよ

存在証明。 あー、shut up ウソだらけの体
完成したいよ ズルしたいよ 今、解答を
変われないの? 飼われたいの?
何も無い? こんなのボクじゃない!
縫い目は解けて引き千切れた

 こうして「ボク」は「煮え立ったデイズで 命火を裁つ」に至るのだが、ここにある自己破砕は、能動的には感じられない。冒頭から「父さん母さん 今までごめん/膝を震わせ 親指しゃぶる/兄さん姉さん それじゃあまたね/冴えない靴の 踵潰した」等とあるように、「ボク」は他者に気に入られるために自らを偽ろうとしている(「愛されたいと 口を零した」)。この歌には「正直者は馬鹿を見る!」ような環境への嫌悪はなく、ただそこに適応できないがゆえの受動的な自己破砕が描かれている。「何だっていいのさ 代わりになれば」といった歌詞が示唆するのは、より「この世界」に適合する代替物に自己を置き換えようとする志向である。ただし、「変われないの? 飼われたいの?/何も無い? こんなのボクじゃない!」という否定は、辛うじて「飼われ」る存在に「変わ」ることを拒んでいるとも解せる。「誰だっていいのさ 代わりになれば」と結ばれるように、「ボク」は「代わり」を見つけて環境から離脱しようとしているようにも感じられる。

 ここで、『東京テディベア』以前の作品だが、微かな他界への想像を交えつつ、自己破砕が他者への攻撃性に転化しているように思われるボカロ曲として、マチゲリータ『ツギハギ惨毒』(2010年)を確認しておく。この曲は提示される歌詞と聞こえる歌声がそこかしこで不一致になり、コラージュ的な映像と相まって寸断された身体像というイメージを喚起させる。

ひとりぼっちの部屋の中 お人形さんとお喋り。
「貴女は悪い子なんかじゃないから」
ってお人形さんが言うの。

一人寂しいお夕食 お人形さんと食べるの。
冷めたひとかけの大きなお肉と赤黒いゼリィー

いつかの絵本の中では 楽しそうに笑う家族(の姿)。
魔法の世界と私の世界は こんなにもちがうの

 この曲は、娘の視点から愛の失われた母娘家庭を描いているように思われるが、ままごとと(継ぎはぎの)人形という道具立てが加わり、比喩か文字通りか判じがたい歪な状況が歌われていく。「右手ににぎった寂しさに/在るだけの愛を詰め込む/静かな/其処には/ひとかけの母が皿に乗り/こちらを見つめて。」と歌われる結びの部分は、娘による母の解体というイメージを惹起させるが、歌詞が形式的な水準で寸断されているため、娘自体の解体というイメージも伴う。このボカロ曲において、攻撃性は、能動とも受動とも言いがたいが、自他いずれにも混然と向けられているように感じられる(「どこもかしこも腐ってゆく」)。

 『ツギハギ惨毒』、『東京テディベア』のような人形(や縫いぐるみ)の比喩を用いずに、同じ情念を、より直截に歌い上げたように響くのが、かいりきベア『失敗作少女』(2015年)である。

わたしって失敗作だってさ って いらない子なんだって…
何やったって 頑張ったって ダメらしいや
愛 愛 愛されたくて 偽って
もっともっと笑顔で いればいいかな…

わたしって失敗作だって なって いらない子なんだって…
何やったって 頑張ったって 無駄みたいだ
生まれてきた意味が欲しくて
もっともっと自然に 笑えばいいかな…

 『失敗作少女』が「これで何度? 何回目?」のように失敗の反復を執拗に歌い上げている点は興味深い。ここでは、反実仮想といわゆる〈トラウマ〉や〈フラッシュバック〉などとの関連性が示唆されているように思える。反実仮想は、できなかったはずの何かがなされた別世界を素描するが、その機能は両義的である。それは一面で、現実を変えるための活力を与える理想郷として機能しうるのだが、他方では、取り返しのつかない事態に直面した際の無力感へと執拗におのれを連れ戻す強迫反復的な悪夢としても機能するのだ。可能世界論風の他界の想像が、ひとをより能動的にするのかより受動的にするのか、その見極めは、際どい。

 また、『失敗作少女』では転生が歌われているが、それが登場するのは、『東京テディベア』で言えば自己の「代わりになれば」と何かを求めたのに相当すると思われる箇所である。このことも興味深い。「愛されたい」がゆえに「何だっていい」、「誰だっていい」からと自己の(本性の)「代わり」を求め、「何も無い? こんなのボクじゃない!」という悲鳴に至る『東京テディベア』の「ボク」と、『失敗作少女』の「わたし」の間には差異を見出すことができる。

神様 もしも生まれ変わることが出来たら
愛される子になれますように
泣き止んだ鼓動を子守歌に
きっときっと明日は 笑えるよね

間違いだらけに オヤスミナサイ

 『失敗作少女』のMVでは「ねぇ、私を愛してよ」、「壊れた私を直してよ」というテロップが確認できる。一見すると「わたし」は、『東京テディベア』の「ボク」よりも受動的に映るかもしれない。しかしながら、「代わり」を見出すことで「この世界」と自己の相容れなさを縫合しようとしている「ボク」とは異なり、「私を愛して」、「壊れた私を直して」と呼びかける「私」(ここでは「わたし」と同じものと見なしておく)の方が、実際には、より強かなのではないか。「わたし」は何をしても承認されず無意味だと絶望するが、それゆえに、「この世界」と調和しようとする「ボク」が持つような(密やかな)妥協の意志をも、もはや持たないのである。己が「この世界」とは調和できない「失敗作」でしかないという絶望は、「この世界」が己向きに変わるまで妥協しないという意志に裏打ちされているかもしれない。「間違いだらけ」なのが自己か世界かは『失敗作少女』において曖昧化されている。「愛される子になれますように」という転生願望は、自分ではなく世界が変われという攻撃性と表裏一体なのである。

 このラインのひとつの到達としてMARETUのボカロ曲を挙げておく。なお、MARETUは、かいりきベアとコラボして『失敗作少女』のアレンジ版も発表している。

 1970年代に社会現象となり、その後に都市伝説や小説(村上龍の長編が有名)の題材となった、コインロッカーに遺棄された新生児というモチーフを扱った曲『コインロッカーベイビー』(2013年)を始め、MARETUは、出生を想起させる作品をいくつか発表している。「どうして 生まれた?/それはね・・・/?」と結ばれる『うみたがり』(2015年)は出産のイメージが濃く、「生まれる前は しんでいたんだから/生まれる前に 戻るだけだから!」というリフレインの印象的な『うまれるまえは』(2015年)は死と転生のイメージが濃い。これらのイメージが混ざり合い、『失敗作少女』や『東京テディベア』などのような「失敗作」モチーフとも合流して、より能動的な自己そして世界の破砕への意志に結実した歌が、『うみなおし』(2017年)である。

 『うみなおし』は、「わたし」や「ボク」の告白ではなく、「あなた」への呼びかけとなっており、自分を「失敗作」として歌い上げるような諸曲とは異なる印象を与える。そこにはシニカルというよりも〈冷笑〉の語に近いような、残酷さが感じられる。感傷の涙を欠くドライな厭世と反出生主義は、ゲーム音楽めいた雰囲気とあいまって不気味なほど無感動な死のイメージを立ち上げる。さながら人生がリセットできるかのように。

残念に 生まれ損なったあなたには
どう足掻いても
見るも無残な生き先しか 残っていないから。
いっそのこと、涙は枯らして
潔く諦めようぜ そうして幸せになろうぜ

 ただし、このゲームに擬せられた人生の悲惨を他人事として眺めるようなスタンスがただのマウントに終始していないことが、MARETU『うみなおし』のポイントである。ゲーム自体を叩き壊さんばかりの破壊衝動がここでは歌われているのだ。

この輪廻転生を仕舞えよ
いざぶち壊したれよこの世と
心と 体と これまでの無数の安寧を
はびこった偶像を見捨てよ
絡まった現状を見切れよ
冷たく 正しく 切り取れよ、歪んだ迎合を

この輪廻転生を仕舞えよ
いざぶち壊したれよこの世と
心と 体と これまでの無数の安寧を
この森羅万象を逃れよ
入り組んだ感情を躱せよ
この手に この目に 刻まれた無数の重態を

 自己と世界の像を共に破砕すること。自己が「この世界」と和解する可能性、自己が「この世界」に妥協する余地を、一切欠いたまま破壊を意志すること。ここではそれらが歌われているのであり、しかも、呼びかけとして歌われているのである。密かな自己保存のしぐさであるようなマウントとは異なる、残酷な破壊の肯定。おそらくそれは能動的な破壊の意志のリミットに位置するものであろう。

4-3・ライン3:おわらないループ→おわらせないループ

 おそらく家庭用ゲーム機の普及とともにリセットという語は人口に膾炙したのだろう。今や、反実仮想を説明するためにリセットという比喩ほど便利なものはないかのように思える。失敗の認識と後悔の念は、成功の反実仮想を思い描かせる。例えば、もしこうやりなおせたら、成功していたのに、と。しかし、やりなおしが状況を改善するとは限らない。後悔の表現としての反実仮想が都合よく目を背けがちなのは、もしやりなおしても、よりわるい結果が訪れていたのかもしれないというリスクである。この系列のボカロ曲として例えば、kemu『人生リセットボタン』(2011年)を挙げることができる。

6兆5千3百12万 4千7百10年の
果て果てに飛び込んだんだ 午前5時始発の終着点
カイバ先生 カイバ先生 僕のいない世界こそ
きっときっと答えと 思ったがどうでしょうね?

 この曲は人生を何度繰り返しても望んだ結果を得られない「僕」が、自己滅却を選ぶに至るまでが歌われている。この歌は、「僕のいない朝」を「全ての歯車が噛み合った[…]世界」として夢見る『炉心融解』を容易に連想させる。MARETU『うみなおし』の歌詞も借りて述べれば、「リセット」したところで「見るも無残な生き先しか 残っていないから」、「僕」は「僕のいない世界」こそ「全ての歯車が噛み合」う最善世界だという結論に至るのである。しかし、もしループを終わらせるつもりで自己滅却しても、転生して別のループが始まってしまうだけだとしたら? もし、「この世界」が、想像していたのとは全く異なるルールでなされていたゲームだと、後からわかってしまうとしたら?

 やりなおしがよりひどい失敗をもたらすリスクへの不安、そして、何度やりなおしても失敗へと至る恐怖。それらは初音ミクが登場する(2007年)直前のポピュラー作品に瀰漫していた。例えば、アメリカのタイム・スリップ映画『バタフライ・エフェクト』(2004年)や、同年のJホラー映画『予言』(2004年)は、こうした不安や恐怖を扱った物語としても解釈できる。またアニメ映画『時をかける少女』(2006年、原作は筒井康隆が1960年代に発表した小説だが、この映画は小説から約20年後を舞台とするスピンオフ的作品である)にも、こうした恐怖が描かれていたように思われる(なお、脚本の奥寺佐渡子は90年代のホラー映画『學校の怪談』1、2、4の三作品の脚本担当でもあった)。ただし、選択しなおした別の世界で想定外の失敗に直面する(失敗を反復してしまう)不安と、ループ構造などに代表されるような、やりなおしのルールそのものが、実は理解とは全く異なっていたという恐怖とは、分けて捉えるべきだろう。ここでは、後者のような恐怖に焦点を当てる。

 ループ構造の嚆矢としては、アニメ映画『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984年)や、ケン・グリムウッドのSF小説『リプレイ』(1986年、日訳は1990年)などが挙げられることが多いが、ここでは児童向けのホラー短編、岡野久美子「リプレイ」(松谷みよ子責任編集『殺人レストラン』1996年所収)を挙げておきたい(ちなみに、花くまゆうさくの漫画「人生リセットボタン」が雑誌に掲載されたのが1995年だった)。「リプレイ」は、テレビゲームのクリア後に報酬として現実で「リプレイ」(出来事のやりなおし)ができるようになった子供が主人公の怪談である。この怪談の眼目は、試験をやりなおす、休息を満足するまで繰り返すなど、それまで能動的に行使できていたはずの「リプレイ」が、落下死の危機に際して突如として制御不能になり、死を避けようとして死の直前を繰り返すという終わりのない反復に閉じ込められる点にある。かいりきベア『失敗作少女』に関連して述べたが、反実仮想は侵入的回想(フラッシュバック)と紙一重である。ループできる能力やループする可能性の想定は、ループを強いられるリスクやループさせられてしまう恐怖と表裏一体なのだ。

 じん『カゲロウデイズ』(2011年)は、こうした文脈の中でホラー的な歌として読解できる(この歌は連作「カゲロウプロジェクト」の一作であるが、ここでは、その文脈からは切り離しておきたい)。この歌は8月14日の正午過ぎからから翌15日の正午過ぎまでを反復し続ける物語がつづられている。15日の正午過ぎに、公園で「君」と話していた語り手は、「君」が手元から逃げた猫を追いかけてトラックに轢かれるのを目撃してしまい、そこで、前日14日に遡ってベッドで目を覚ます。

でもさぁ、少し不思議だな。
同じ公園で昨日見た夢を思い出した
「もう今日は帰ろうか」道に抜けた時
周りの人は皆上を見上げ口を開けていた

落下してきた鉄柱が君を貫いて突き刺さる
劈く悲鳴と風鈴の音が木々の隙間で空廻り
ワザとらしい陽炎が「夢じゃないぞ」って嗤ってる
眩む視界に君の横顔、笑っているような気がした

 その後、何度避けようとしても「君」が事故死してしまい、同じ日が何度もやりなおされる様子が歌われる。

 サビの反復という楽曲の構成と事故によるループという物語設定が相まって、サビに入るたびに語られる事故の場面は劇的な印象を聴き手に与える。予知した死を避けても別の仕方で死が到来する、という状況はホラー的である。例えば、事故死の予知夢を見た人物により死を免れた人々が別の事故で死亡していく映画『ファイナル・デスティネーション』(2000年、同作はシリーズ第5作2011年まで制作された)が連想される。また、どの選択肢であれ望ましい結末が得られないという点では、『世にも奇妙な物語 秋の特別編』(2000年)の「断定男」などを連想してもよいだろう。いずれにせよ追い込まれた語り手は、「君」の身代わりとして死ぬことを思いつく。

何度世界が眩んでも陽炎が嗤って奪い去る。
繰り返して何十年。もうとっくに気が付いていたろ。
こんなよくある話なら結末はきっと1つだけ。
繰り返した夏の日の向こう。

バッと押しのけ飛び込んだ、瞬間トラックにぶち当たる
血飛沫の色、君の瞳と軋む体に乱反射して
文句ありげな陽炎に「ざまぁみろよ」って笑ったら
実によく在る夏の日のこと。 そんな何かがここで終わった。

 このような死の身代わりの想定は、贖いとしての自己滅却を描いた『炉心融解』や「答え」として「僕のいない世界」を挙げた『人生リセットボタン』などを想起させもする。ただし、『カゲロウデイズ』の特異な(えげつない)点は、ある観点からのループ構造と別の観点からのループ構造を組み合わせてしまった点にある。

目を覚ました8月14日のベッドの上
少女はただ
「またダメだったよ」と一人
猫を抱きかかえてた

 (単にこの歌詞だけ見れば別の読み方も可能だが、)この結びで示唆されているのは、「君」つまり「少女」の側も、15日の正午過ぎに語り手が事故で死ぬたび、ループしているのではないか、ということに思える。一方が他方を死なせないために事故で死に、他方が一方を助けるために事故の身代わりになろうとする、というねじれた円環が発生しているかのようなのだ。反復から逃れようとする一方の能動的な行為が他方を反復に巻き込み無力感に落とし込むという悪夢的な状況がここでは描かれている。

 こうした悪夢的ループから逃れるのではなく、まさに悪夢の住人となることで能動性を取り戻そうとするのが、きくお『そこにはまた迷宮』(2017年)である。

地平を転がり迷宮に
迷宮抜け落ちまた地平
やることなすことムダみたい

そんな時は迷宮探してみましょう
動けない世界よりうつろに歩きまわるその方が好き

迷いたくて迷宮探してみましょう
うつろな苦しみだけ静かな悲しみだけ それだけがいい

 この迷宮を歩き回る「わたし」は、血だまりに倒れた少女を描くアニメーションや「まるで生きてたときみたい」といった歌詞からはん判断して、幽霊ではないかと考えられる。

ゴールはわたしの ゴールはゴールは
まだここにはないない嗚呼
まだここにはない

 ゴールを拒否する幽霊は歩き続ける。「やることなすことムダみたい」という無力感に抵抗するためには、「動けない」よりも「うつろに歩きまわる」方がよい。――「わたし」は、そのようにして、不毛な反復の只中で能動性を獲得するのである。

 例えば『僕をそんな目で見ないで』(2011年)などの初期作から、夢の世界と死後の世界を重ね、無あるいは全体への一体化を歌っていたきくおは、次第に、無や死とは異なる他界のイメージを練り上げていったように思われる。このようなループ自体の肯定として『あなぐらぐらし』(2018年)を聴くことができるだろう。

夢をかけらを飲んでいる
きみの夢もまぜまぜしていて
あの世もこの世もいられない
あの世もこの世もいられない

抜け出せない 抜け出せない
抜け出せないから 抜け出さない
抜け出さないから お目目閉じて
閉じて・・・ ルルル・・・

 ループを「抜け出せない」無力感は「抜け出さない」意志に転化する。「あの世もこの世もいられない」からこそ、「夢」の領土を拡大させていく。悪夢の住人であるとともに悪夢そのものでもあるような何かになること。破滅的でおぞましくも映るが、反実仮想の一つの能動的な使用法が、確かにここでは提示されている。

4-4・受動から能動への3つのライン

 各ラインで何を素描しようとしたか。以下要約する。ライン1で素描したのは、わるい世界に与する自己への嫌悪から、分裂を経て、わるい世界のありようを意志し、その前提を破壊するにまで至る動きだった。ライン2で素描したのは、「この世界」に適応しようとしても耐えられず、自らの破砕に至るような自己否定が、「この世界」の破砕への意志に転換される動きである。そしてライン3で素描したのは、可能な複数のうちからある世界を選択するという際の能動性が毀損されてしまう、悪夢的なループ構造への不安が、永劫の反復を通した悪夢的領土獲得への意志に変容する動きであった。ゼロ年代のボカロ曲を代表する作品の1つと言える『炉心融解』に見出せた、厭世や自己滅却、他界の想像といった諸モチーフが、2010年代のボカロ曲においてどのように引き継がれ、展開されていったと考えうるか、粗くではあるが、示しえていればと思う。(もちろん、私個人のバイアスや知識不足を鑑みれば、この見立てには大幅な修正の余地があろう。)

 なお、いわゆるループや転生言説に関して、〈なろう系〉やボカロ曲以前から、ポピュラー文化の中でそうしたテーマが扱われていたことには留意が必要だろう。例えば、ポケットビスケッツ「Yellow Yellow Happy」(1996年)の歌詞には「もしも 生まれ変わっても また私に生まれたい」との文言が繰り返し登場する。また嵐「Monster」(2010年)のサビでも「僕の記憶が全て消えても 生まれ変わったら また君を探す/見かけじゃなくて 心を抱いて」などと歌われている。(ちなみに、漫画で言えば久保帯人『BLEACH』のよく知られた場面、「人生が5回ぐらいあったらなあ![……]それで5回とも…/同じ人を好きになる」という井上織姫の独白(第273話「good by,halcyon days.」)が描かれたり、アニメで言えば物語上でのループ設定を8週間にわたるTVアニメ放映で演出して話題となった「エンドレスエイト」(涼宮ハルヒシリーズの一短編)が発表されていたのも、ゼロ年代の後半のことであった。)

(注記。SF的な設定を利用した作品が示唆する感性を論じた著作としては、浅羽通明『時間ループ物語論』(2012年)がよく知られている。同書がホラー作家、恒川光太郎の短編「秋の牢獄」(初出2006年)の読解から始まっている。)

(注記2。日本語ウィキペディア「ループもの」の項目は充実しており、参照に便利である。

 ただし、例えば高野苺の漫画『orange』(2012年-)などを想起すれば明らかだが、SF的なループ構造を通した抒情的表現は、ゼロ年代の主に男性オタク向けと考えられた作品(ノベルゲームで言えば『Ever17 -the out of infinity-』(2002年-)や『ひぐらしのなく頃に』(2002-)、また『STEINS;GATE』(2009年-)などが代表的か)の専売特許というわけでもない。また、異世界転生をループ構造として利用したジャンル諷刺的〈なろう系〉小説として、ぐったり騎士『神の暇つぶしによる俺のテンプレチート異世界記』(2012年)を挙げておく。この小説は同作者によりやる夫スレ化されている(『やる夫は神の暇つぶしでテンプレチート異世界転生をするようです』2013年)。)

(注記3。ディストピア的世界観や自己や世界ないし人類への嫌悪、転生や来世などへ言及したゼロ年代~2010年代の楽曲も、当然ながらボカロ曲に留まるものではない。その一証左として、これらの曲の名が、挙げられるべきであろう。――RADWIMPS『おしゃかしゃま』(2009年)、そして『前前前世』(2011年)。)

5・IMAGINE THERE’S NO MAN'S LAND:反出生主義と他界の想像/創造

本稿では、反出生主義的な諸モチーフ(厭世、自己滅却、反実仮想)に着目しながら、種々のコンテンツとの関連を踏まえつつ、ボカロ曲を取り上げてきた。諸作品の読解を通じて、幾つかのモチーフがどのように変奏されてきたのか、受動から能動へというテーマの下で概観することを試みてきた。可能世界論風の反実仮想と反出生主義との癒合が、ボカロ曲のジャンルの中で、どのような姿を取っていたのか、記述することを試みてきた。反出生主義が他界を想像しまた創造する立脚点となること、その一証左となるであろうボカロ曲を挙げて、論を結びたい。――和田たけあき『うらめしヤッホー』(2019年)。この曲は幽霊による呼びかけが歌われている。

うらめしヤッホー 這い寄って
這い寄って キミを呼んでいる
いないことに されて今日も
フラフラ フラッシュバック 走馬灯 

うらめしヤッホー 霊現象
視えるでしょ 気付いてよ
どうせ今日も 届かないわ
それじゃ また来世
そんなものが あれば ね!

 「這い寄って キミを呼んでいる」というこの歌の語り手は、逢空万太『這いよれ! ニャル子さん』シリーズ(2009年-2014年)などを念頭に置けば、クトゥルフ神話的なホラーを微かに想起させもする。――外宇宙、「この世界」の外から呼びかけるゴーストの声。それは「この世界」の外には「無」しかないと断ずるような「この世界」の声の傍らで、――「この世界」の声に抗って――他界を思い描くよすがとなる。

 ミヒャエル・エンデ「ミスライムのカタコンベ」(『自由の牢獄』1992年所収、同書は田村都志夫により1994年に翻訳され、2007年に岩波現代文庫で再刊された)は、カタコンベ(地下墓所)で生きて死ぬ「影の民」の中から生まれたにもかかわらず、「外」を夢見てしまう特異体質の人物が主人公のディストピアSFである。主人公のイヴリイは、「影の民」から思考力を奪い奴隷化していたカタコンベのインフラ(麻薬工場)を破壊し、薬効が切れてカタコンベの生活に耐えられなくなった皆を誘導してともに「外」を目指すも、ついには孤独にカタコンベから「外」へ追放されるまでを描いている。「影の民」であったのに思考力を奪う薬が効かず、苦しむ主人公は「残念に生まれ損なった」かのような存在である。カタコンベの外に追放されていくイヴリイの姿は、まるで再び誕生していくかのような印象を残す(以下日訳は、小林良孝「ミヒャエル・エンデの文学作品における自由の諸相」『人文論集 : 静岡大学人文学部人文学科研究報告』2004年第55巻1号より孫引き)。

 イヴリイの顔も見ずに、彼らはイヴリイを壁の裂け目の方へ棒で突いて押しやった。何もかも、沈黙のうちに実行された。イヴリイは抵抗しなかった。その裂け目から外へ押し出された瞬間、イヴリイは初めて耳をつんざくような絶叫をあげた。[……]しかしそれが、歓喜の極みの絶叫だったのか、最後の決定的な絶望の悲鳴だったのか、後になって言える者は誰一人としていなかった。

 カタコンベの外にも「影の民」あるいはイヴリイにとってのハビタブル・ゾーン(生存可能領域)があるのかは、語られない。カタコンベの統治者たちは、統治がハビタブル・ゾーン(生存可能領域)を過不足なく覆っており、その範囲内で「できる限り快適になるように」インフラを整備して人々を運用してきたのだ、主張していた。ここには、うたたP『こちら、幸福安心委員会です。』で見たのと類似した問題が発生している。「この世界」の「外」と無――死が、一致しているかのように語られているのである。

もう一度言おう。その世界はおまえたちが住める世界ではない。だからこそその昔、おまえたち影の民は、その世界からこの地下へ逃げてきて、あの耐えられない光から救ってくれと私たちの所へ頼み込んできたのだ。一度だって我々はおまえたちを捕縛しておいたことなぞない、それはおまえたち自身の意志だったのだ。

 統治者は「影の民」たちが「この世界」に自発的に隷従してきたのだと語っている。イヴリイのように「この世界」に適応できない存在、カタコンベに生まれてこなければ良かった存在さえ「外」に追放すれば、残りの誰もが快適に生きられる。――これがこのディストピアを正当化するロジックである。この物語は、反出生主義の一つの効用を教えてくれる。――「外」を幻視するものは、「この世界」へのたえがたさゆえにそうするのである。「この世界」に誕生するよさへの懐疑は、現にある「この世界」のよさへの根源的な懐疑の端緒ともなりうる。それは「この世界」の「外」を希求する端緒ともなりうる。

 「それじゃ また来世/そんなものが あれば ね!」。きっと反出生主義がなすべき仕事の一つは、――それは反出生主義がなしうるであろう仕事の内で、私にとっては最も興味深く思われるものなのだが、――この「来世」を「今」、「この世界」に到来させる試みを、彫琢していくことである。それは「この世界」の強制的な唯一性、「この世界」の外には無しかないので、「この世界」をよしと言祝がないならば無へ帰さねばならないという類の強制性に抗い、「この世界」のルールに隷従するか死ぬかの二者択一を強いるあの「幸福安心委員会」のような権力の声に和することなく、「この世界」と無の間にある他界を構想する、そのような試みであり、そしてまた、彼岸へと追いやられずに此岸から身を離し、此岸を此岸だからとよしとはせずにシニカルに捉え、現にある「この世界」を最善とは言祝がずに批判する、そのための足場、立脚地、無でしかないとされる彼岸と「この世界」に覆われた此岸のあいだにある領土、いうなれば〈(A) NO MAN’S LAND〉を、発見ないしは発明するという、困難な試みなのである。そしてこの試みが中断されない限り、反出生主義には、きっと必ず、何らかの思考の場、試行の余地が、与えられ続けることになっているだろう。
――呼びかけるゴースト。

――想像/創造してみること、〈(A) NO MAN’S LAND〉を。

  「それじゃ また来世/そんなものが あれば ね!」


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