クソコラは革命的だったのか? ボリス・グロイス『全体芸術様式スターリン』読書会その2(【闇の自己啓発】アート編)

前回

ご無沙汰しております。グロイス『全体芸術様式スターリン』読書会です。

自己紹介
江永泉 noteユーザー。今更だが、永野「ゴッホとピカソに捧げる歌」に思いを馳せる、きょうこの頃。
清水香央理 アーティスト。押上のアートラボ「halflaw」(文華連邦内)を主催。
ジョージ 無職。最近コロナに感染し後遺症に苦しむ。本記事の売り上げの一部はかわいそうなジョージに寄付されます。
美月 アーティスト。東京に住むか京都に住むかで迷っている。

お知らせ 清水さんは2021年9月付でアーティスト名を「shihk」にしました。

・「¥500」とありますが無料で全文読めます
・前回の記事にサポート、購入を下さった方に、改めまして御礼を。
・「また四人で会って食事とかやりたいですね」などと話したりもしました。今回分は「課金」ではなく、皆様に御礼して、打ち上げに行きます。

前回から今回までの間にグロイス『流れの中で』が日訳されました。

同書を私(江永)は未読ですが、訳者の河野彩が関連して訳出をなさった、グロイスとイリヤ・カバコフによる対談が面白かったです。一節引きます。

グロイス:つまり記憶と忘却の間ということだね。そしてこれはどうしても決して退けることはできない決定的な死の神秘だ。
カバコフ:そう、怪奇だ。消滅の怪奇。生そのものが消滅の怪奇なんじゃないかな?この血の繋がりのない物に関してためらう瞬間に、ぼくは半分神として、それの運命を決定する。そしてぼくは自分の運命を決める。ぼくは思い出がぼくの机の引き出しの中で生き続けることを決めることができるし、それを汚水の桶の中に入れて運び出し、消すこともできる。ぼくはこの物の主人だけれども、この物に美術館で生を与え、永遠もしくは反対に死を贈る出来事の奴隷でもある。
グロイス今日、われわれは保存か廃棄かのあらゆる基準を欠いている。
カバコフこれはまさに現代美術館だ。

(太字強調は引用者)

開催日は2021年6月ですが、例により加筆修正等で一部の時空が歪んでいます。ご寛恕ください。

第2章

凡例:ボリス・グロイス(亀山郁夫・古賀義顕 訳)『全体芸術様式スターリン』(現代思潮社、2000年、原著1988)からの引用は(頁数)のみで示す。太字強調は原文傍点。

スターリン(再)登場

 やっとスターリン登場ですね。
  私、高校がヤンキー校で歴史の基礎とか全然できていなくて、ゆっくり解説を聞いて(今回)スターリンを勉強しました。音としてはバンドのスターリンの方が先に知りました。スターリンって名前をなぜつけたのか調べたらブラックジョークとしてみんなから嫌われている名前を使ったら覚えられやすいからと思って使ったようです。学生運動の名残ネタ、とっつきにくいと思っていたけどみんなウケが良かったらしいです。

清水 なかなかこのあたりって馴染みがないんですよね。72ページに出てくる、「社会主義リアリズムの「反フォルマリズム的情熱」」ってどういうことでしょう? よくわからなかったのですが。

江永 ちょっと戯画的にいうと、まだ手法で消耗しているの? っていうポーズなのかなと思います。社会主義リアリズムはアヴァンギャルドの"行き過ぎ"に対する伝統回帰なんかじゃなく、むしろその先に進んでいるという自負があるという話。

ジョージ グロイスはこういう言い方はしていませんが、要するに社会主義リアリズムはじつはポストモダニズムを先取りしていたんだ、ってことですね。ここらへんなんて、ほとんどヒップホップのサンプリングの説明ですよ。

逆に、ボリシェヴィキのイデオローグたちにとってゼロの点とは最終的な現実であり、過去の芸術はすべて、それとの関係で定位すべき生きた歴史ではなく、そこから気に入ったもの、有益と思えるものをいつでも欲しいだけ取りだせる死んだ事物の貯蔵庫だった。(81頁)

サンプリングやシミュレーションは、ポストモダン真っ盛りのころに最先端とされていた手法ですね。

スターリン美学はまた、「折衷主義」という非難も恐れなかった。なぜならスターリン美学にとっては、あらゆる時代から自由にサンプルを採取する権利は折衷ではなかったから。そもそもスターリン美学は、内的に統一された進歩的芸術だけをサンプリングしたのだ。(95-96頁)

グリーンバーグのところでも言ったように、アヴァンギャルドないしモダニズムというのは基本的に作品内で描かれている内容よりも、「どのように描くか」、つまり形式を重んじるんですね。形式主義、フォルマリズムです。
 他方、社会主義リアリズムは、絵画であれば絵画に描かれている内容を重視する立場なんです。そして、その「社会主義的内容」を表現するためであれば、歴史上に存在したあらゆる手法を引用してもよい、というのがスターリン美学だと。それこそ引用の織物であるポストモダニズムのように。つまり形式主義、フォルマリズムを信奉するモダニストよりもスターリン美学は先に進んでいたんだ、ってことですね。

江永 ルーツを忘却したり、あるいは文脈を無視したりして、原作の冒涜みたいな、しかも意図的な冒涜ですらないコラージュをつくること。シュミレーショニズムやアヴァン・ポップですらない何か、でしょうか。たしかヴィアーカントは「イメージ・オブジェクト」で映画『インディペンデンス・デイ』の画像とありふれたどこかの家庭の新生児の画像がインパクトの強弱を競う(くらいにはフラットに扱われる状況)なのがポスト・インターネットだ、みたいな話をしていましたが……。

ジョージ モダニズムは言い換えると近代主義ですね。近代という時代の特徴は、過去から現在へと1直線に進歩していく、というものです。そして、芸術におけるモダニズムも、形式を純化してくプロセスが1直線に進んでいくようなモデルが想定されていた。そして、そのような1直線モデルが失効したことによって現れたのが、もはや進歩やオリジナリティなんてものは存在しないのだから、あらゆる手法・形式は引用可能だとうそぶくポストモダニズムです。
 ポストモダンというのは、近代のように世界が1つの方向に向かって進歩しているとを誰も信じなくなった時代のことですね。歴史が歩みを終えたんだ、と。この「歴史の終わり」のことをヘーゲル/コジェーヴ流の弁証法的に言い換えると、歴史は完成されたということになる。マルクスの歴史観がヘーゲルの影響を受けていることは有名ですが、どちらも近代の歴史法則・理念を理論化したという意味では共通しています。ヘーゲル/コジジェーヴの影響を強く受けたアメリカの政治経済学者、フランシス・フクヤマの言葉を借りるなら、

ヘーゲルもマルクスも、人間社会の進化はいつまでも続くものではなく、人類がそのもっとも深く、もっとも根本的な希望を満たす社会の形態を達成したときに、進化は終わるだろうと信じていた。そのため、思想家であった彼らはともに「歴史の終わり」が訪れることを主張した。(中略)「歴史の終わり」とは、人が生まれ、生き、やがて死んでいくという自然なサイクルがなくなるということでも、重大な事件が起こらなくなり、それを発行する新聞がなくなるという意味でもない。むしろ、重大な問題はすべて解決されてしまっているために、それ以降、根本的な原理や制度の進展がなくなるということなのだ。

フランシス・フクヤマ『歴史の終わり』12頁

ということになります。
 ソ連はマルクス主義にのっとって作られた国なので、史的唯物論という唯一正しい歴史法則を完成させたことになっているんですね。

今日のソヴィエトの哲学の教科書には「歴史はもろもろの偉大な理念によって規定されているが、なかでももっとも偉大なのは、歴史が物質によって規定されているというマルクス主義の教義である」云々といった記述があるが、こうした記述にでくわして行き詰ってしまうのはもちろん、ソヴィエトの弁証法的志向をじゅうぶんに体得していない者だけである。(114頁)

 史的唯物論を完成したということは、歴史はすでに完成されていることになる。つまり、「歴史の終わり」はすでにスターリンによって到来していたんだ、とグロイスは言います。だからスターリン美学は、ポストモダニズムと同様あらゆる手法・形式が引用可能になるわけです。それが「社会主義的内容」を描くためであれば。

社会主義リアリズム芸術はこうして、過去の進歩的芸術のいっさいをサンプルとして利用することができるようになった。というのも社会主義リアリズム芸術は、いやしくも虐げられている進歩的階級の利害を表現する芸術でさえあれば、時代と地域を問わず歴史上のいかなる芸術にも宿っているとされる肯定的な特徴──「歴史的楽観主義」「民衆への愛」「生を歓ぶ心」「真のヒューマニズム」など──を共有しているからである。(90頁)

 この節のタイトルも「世界最後の審判」なんて、中二感まんさいでいいですよね。

ジョージ 最高ですよね。ここの記述なんかもめっちゃ物々しいです。

社会主義リアリズムにとって歴史はすでに終わったものであり、社会主義リアリズムは歴史に占めるべき一定の場所をもたない。社会主義リアリズムは逆に歴史そのものを闘技場とみなしていた。すなわち、被抑圧階級に資する、新世界の建設をめざす能動的、デミウルゴス的、創造的、進歩的な芸術と、精神的変化を望まず、その可能性を信じず、事物をありのままに受けとる(あるいはまたは過去を夢みる)受動的、観照的な芸術が闘争する闘技場として。社会主義リアリズムは前者をみずからの教会暦(十二聖像)に組みこみ、後者を歴史の忘却という地獄へ、あるいは第二の神秘的な死へと送りとどける。新しい歴史以後の世界において、スターリン美学にとってはなにもかもが新しかった。古典作家たち(じっさいにはスターリン美学によって、見る影もなく体裁を整えられた古典作家たち)も新しかった。だから、スターリン美学にとって、形式上の目新しさを求める必要はなかった。スターリン美学にとって「斬新さ」は、みずからの内容の新しさと超歴史性という全面的な新しさによって自動的に保障されていたからである。(95頁)

江永 全ての手法が揃い踏み。邪悪なマーベル時空みたいなものですかね。

清水 世界中の美術から最強のアヴェンジャーズを作る。

ジョージ きみたちアヴァンギャルドの言説を言葉通りに受け取ったらこうなりますよ、とでもいいたげですね。本当に性格が悪い。

江永 ちょっと安直かもしれませんが、FGOを思い出しました。前回の話でグロイスの社会主義リアリズムの話がサンプリングみたいだとジョージさんが言っていましたが、その意味で社会主義リアリズムの作家はすごそうなものをざっくりディグって並べているというような感じになっているのかも(ただ、現在の価値観に都合がよいように改変されているわけですが)。長谷川白紙が「今は一番いいディグができる時代」って言っていたのを思い出したりもします。

https://i-d.vice.com/jp/article/z3b598/hasegawa-hakushi-interview

 音楽でもディグってサンプリングしてるみたいなのもありますよね。米津玄師も「死神」という曲で古典落語の「死神」をサンプリングというか参照して曲にしていたり。30分くらいの噺を3分にまとめているのがすごいなと。

江永 いいですよねこれ(というか、林さんに教えてもらいました。ありがとうございます)。またVtuberのジョー・カーがカバーして歌ってました。

https://www.youtube.com/watch?v=C4dHZy6WILo

このカバーMVって形式、リメイクでもリミックスでもサンプリングでもない(どれと見ても何かおさまりがわるい)ような感触を覚えたりします。

形式にとらわれず内容で涙するオタク&スターリン

江永 社会主義リアリズムが形式にとらわれず内容を重視するという話は、東浩紀のオタク論そしてポストモダン論との親近性も感じました。2000年代当時のハイティーン前後のオタクが好きな作品って、ストレートに内容が情に訴えるような泣きゲーとか燃えゲーとかだと言われていた気がします。そこがそういうのをパロディとしてやっていると論陣張られていた先行世代との差異だとされたはず。一個前の世代までの「おたく」は、子ども向けの番組などの稚拙な内容に拘泥しているわけではなく、スタッフにどんな人が参加していたのかなどの細かい情報やその表現方法、つまり形式に着目する作法を身につけていて、だから内容にハマってるおこちゃまじゃなく、実は賢いんだ、みたいな。例えば東浩紀以前のおたくカルチャー語りにおいて影響力をもっていた岡田斗司夫は(もちろん今も持っています。Youtubeのチャンネル登録者数66万人以上なので)、あえて細部に着目するのが「おたく」の作法で、われわれ「おたく」こそが江戸の粋な町人文化を継承しているんだ、みたいな話を広めていたと思います。これらはおたく/オタクの世代論であり、同時に「アメリカの影」をめぐる、いうなればポストコロニアルな議論でもあった。つまり江戸との連続性を求める「おたく」と第二次世界大戦前後のアメリカからの影響を強調する「オタク」がいた(この言い方だと大塚英志は「オタク」論者に置かれますが、大塚は自身のこだわりから「おたく」をずっと用いていたはずです。江戸ではないが、動物でもない、ありうべき「おたく」と「サブカルチャー文学」の像を、本人の活動を回想したり考現学的な観察したり文化史を掘り下げたりして論じてきていました)。

ジョージ そうした「おたく=江戸的な粋」や「オタク=動物」といった見方について語るとき、20世紀で最も影響力を持ったヘーゲル註解者のひとり、アレクサンドル・コジェーヴに言及しないわけにはいかないでしょう。
 コジェーヴは、その主著『ヘーゲル読解入門』の註において、「歴史の終焉」後に現れた、動物のように欲求のおもむくままに消費をむさぼる「アメリカ的生活様式(American Way of Life)」のことを揶揄していました。というのも、ヘーゲル/コジェーヴに言わせると、承認をめぐって他者との対立や葛藤が生じたさいに、自らの死を賭して打ってでるものこそが「人間」の名に値するのであって、欲求(本能)のおもむくままに生きているものは「動物」にすぎないとされているからです。動物にとっての最大の欲求(本能)は生き残ることですから、死を賭して戦うはずがないということですね。そして、こうした葛藤の積み重ねこそが「歴史」を作るとされているので、葛藤亡き後の世界は、「歴史以後」の動物が跋扈する世界になるわけです。
 そんな動物的な「アメリカ的生活様式」への対抗馬としてコジェーヴは、しょうもないことをあえて楽しむ江戸文化に「歴史以後」の人間の理想形を見いだし、「純粋なスノビズム」と呼びました。

ところで、日本人の武士の現存在は、彼らが自己の生命を危険に晒すことを(決闘においてすら)やめながら、だからといって労働を始めたわけでもない、それでいてまったく動物的ではなかった。「ポスト歴史の」日本の文明は「アメリカ的生活様式」とは正反対の道を進んだ。おそらく、日本にはもはや語の「ヨーロッパ的」或いは「歴史的」な意味での宗教も道徳も政治もないのであろう。だが、生のままのスノビズムがそこでは「自然的」或いは「動物的」な所与を否定する規律を創り出していた。これは、その効力において、日本や他の国々において「歴史的」行動から生まれたそれ、すなわち戦争と革命の闘争や強制労働から生まれた規律を遙かに凌駕していた。なるほど、能楽や茶道や華道などの日本特有のスノビスムの頂点(これに匹敵するものはどこにもない)は上層富裕階級の専有物だったし今もなおそうである。だが、執拗な社会的経済的な不平等にもかかわらず、日本人はすべて例外なくすっかり形式化された価値に基づき、すなわち「歴史的」という意味での「人間的」な内容をすべて失った価値に基づき、現に生きている。このようなわけで、究極的にはどの日本人も原理的には、純粋なスノビスムにより、まったく「無償の」自殺を行うことができる(古典的な武士の刀は飛行機や魚雷に取り替えることができる)。この自殺は、社会的政治的な内容をもった「歴史的」価値に基づいて遂行される闘争の中で冒される生命の危険とは何の関係もない。最近日本と西洋世界との間に始まった相互交流は、結局、日本人を再び野蛮にするのではなく、(ロシア人をも含めた)西洋人を「日本化する」ことに帰着するであろう。

アレクサンドル・コジェーヴ(上妻精・今野雅方訳)『ヘーゲル読解入門』国文社 1987年 246-247頁

つまりコジェーヴは、「人間」でもアメリカ型「動物」でもない第三の道(オルタナティブ)として、日本流のスノビズムを称揚していたわけですね。東以前のおたく語りでは陰に陽にコジェーヴのスノビズム論が意識されていて、日本のおたくこそが東西冷戦以後の人間の最先端なんだ、なんて言われたりしていたそうです。

江永 2000年代当時の若者はひとつ上の世代とはちがい、単に涙をドバドバ流したり萌え萌え叫んでいるだけだって批判されていました(よね? 私の記憶違いでなければ、なのですが。「萌え豚」って言い回しもありましたし。他からの侮蔑と自嘲が混ざる妙な使われ方をしていたはず)。そうではなく今日のオタクこそ高度な文脈で泣き叫んでいるのだと論じてましたよね。いま思えばそれは、三次元のスターやアイドルに熱狂するファンを肯定する筋道を示唆する議論も映るものだった(今やもう、二次元/三次元という区別の往年の含意がなんだったか、よくわからなくなってきましたが)。

ジョージ 東の動物化論もそもそもヘーゲル/コジェーヴ由来ですよね。オタクはヘーゲル/コジェーヴ的に言ったらもはや人間ではなく動物にすぎないけれど、これを簡単に退行と呼ぶことはできない、と東は主張していました。彼らオタクこそが、ポストモダン的主体の典型なのだから。そして、今のオタクは江戸/日本型スノッブではなく、むしろアメリカ型の普通の動物である、と。東もグロイスも、ヘーゲルの歴史哲学を下敷きにして「歴史以後」の世界、ポストモダンを論じているわけで、似ているのは当然と言えば当然だとも言えますが。あらゆる素材を並列にし、「泣く」という単一の目的のために利用する現代のオタクと、社会主義的内容を描くという単一の目的のためにあらゆる手法を利用するスターリン。

江永 ああ。動物化したオタクの感性自体が(グロイスの言う)社会主義リアリズムと同じように、一周回っていたからベタに見えるのだって言われてってことか。なお、この記事が参照する、哲学的伝統に基づいたヒト種とほかの動物種との切り離しですが、この種差別的な用語に代わる、より適切な語が発明されれば、将来的には言いなおされていくだろうと思います。とりわけこの時期に使用された「動物化」のニュアンスは人間はサル「に過ぎない」という俗流動物行動学の隆盛―さらにこの表現のインパクトの淵源を辿れば日本における文明/野蛮の区分、俗流進化論と人種言説との交錯点としての「猿」表象が浮上してくるはず―に裏打ちされたものだったはずなので。正高信男『ケータイを持ったサル:「人間らしさ」の崩壊』2003なんていう若者とテクノロジーを同時にバッシングする新書もありましたが、考えてみれば東の議論は(ポストモダニズムとオタク言説を巡るとても高度な文脈が背後あるという点では比較にならないにせよ)オタクは電子機器で「サル」になった、しかしだからこそいい面もある、との見方だとも言えますよね。
 なんか倒錯している感じもあります。考えなしに強そうな手法を全部載せにしただけだ、なんて言えそうな社会主義リアリズムが、実はアヴァンギャルド理論までのバックグラウンドを経てこうなった、というグロイスの語りにも似た倒錯感を感じつつ読んでいますけど(もちろん私は、倒錯感があるからよくない、などとは考えたくないし、言いたくない立場です。趣味でいうと「逆説」という語と同じ程度、私はこの語が好みです)。
 そういえば、ゴリゴリのヒューマニズムが読み取られがちだったはずのソルジェニーツィン作品を、カフカの裏返しと言うか、東側からのポストモダン的不条理文学みたいに読んだのが東浩紀「ソルジェニーツィン試論」でしたよね。一見するとナイーブなものが一周回って高度な仕方で可能になるメカニズムを論じるというグロイス的な語りの型を感じます。『動物化するポストモダン』の続編の『ゲーム的リアリズムの誕生』でも、受容環境を分析することで物語へのナイーブな没入と言って済みそうなところに「感情のメタ物語的な詐術」を見出す、といった議論がありました。もっとも、光るデスクトップPC(当時は「板」より「箱」ぽかった)の画面がコマ割りされた白紙よりも一層「窓」っぽく感受されることを利用していたように思われる、ノベルゲーム『Ever17』における画面外のプレイヤー的存在への呼びかけとか、同時代の文学研究における読書行為論の延長ではうまく論じられなさそうな事柄をしっかり捕まえて論じており、それはかなり理論的にも先鋭的だったんじゃないかと思っています。もちろん2010年代に入れば、そういう画面外の「あなた」をかなり凝った仕方で物語に編み込むゲームはあれこれ出てきていたわけですが。
 そういう現実が物語に飲み込まれる話、現実の読み手に相当するものを物語世界内で仮構して現実の読者に被せてくる話、ホラー系とポストモダン系にも多いですよね。そういうのだと読み手が物語に飲み込まれる短編「続いている公園」で始まるコルタサル短編集とか思い出します。あとプラセンシア『紙の民』とか。でも印字って紙に固定されたまま動かないのでちょっと物足りなく感じてしまうところもあります。ゲーム画面は、自分で思い通りに動かせるはずがいきなり動かなくなったり、勝手に書き換わったり動いたりもするし、画面自体が流動してくれるので、そういうディスプレイならではの妙味というものもある気がします。そして今はスマホ画面の特徴を考える必要がありますが、脱線すみませんでした。

ジョージ コジェーヴについてのおもしろ小話ですが、彼はじつはロシア出身で、抽象画の創始者カンディンスキーの甥にあたるんですね。コジェーヴは革命直後に若くして西欧に亡命することになったにもかかわらず、なぜか第二次大戦が終わるまでスターリニストみたいなんです。そしておもしろいのが、コジェーヴもグロイスと同様スターリンのことを第二の歴史の完成者と見なしていたらしいんですね。もちろん第一の完成者はヘーゲルです。彼はかなりアイロニカルな人だったそうなので、どこまで本気でスターリニストを名乗っていたのかわからないみたいですが。そんな人だからなのかはわかりませんが、フランス亡命後の彼はソ連のスパイだったんじゃないかって噂もあるぐらいです。

江永 いま軽く、コジェーヴのひととなりを調べていたんですけど、独自解釈を含むヘーゲルをバタイユとかラカンとかに講義してて、フランス政府の外交官みたいなことをやって、すごい人生ですね。1910年代の政情不安なロシアで育ち、10代の頃に食糧不足で闇市に行ったら仲間は全員銃殺されて自分だけ助かったという出来事も眼に入ってきました。それでいうとブランショも1944年頃にドイツ軍に銃殺されそうになったらしくて、その体験を劇的に描いていて記憶に残っていたんですが(『私の死の瞬間』1994)、命が懸かった極限状況を経ての言葉だ、という物語がつくと、重みなり深みなり、独特の圧がいい具合に出てくる言葉の並びってありますよね(ゆえに正しいだとか評価すべきだとかいう話には短絡しないはずだし、させない方が良いとも思いますが)。あとコジェーヴの講義『ヘーゲル読解入門』をまとめたのがレーモン・クノーっていうのも面白く思ったりします。というのは、クノーは数学的手法を念頭にした言語遊戯による文学作品制作を志向した集団、ウリポのメンバーで(有名なのは『煙滅』などの作者ジョルジュ・ペレックでしょうか)、『あなたまかせのお話』っていうゲームブックの先駆みたいなのを書いてもいるので。あ、現在確認されている最初期のゲームブック、ロマンス小説らしいです。ツイートなさってる方がいて知ったんですけど。これで2018年に紹介された『Consider the Consequences!』1930。

おれたちの国はとっくに「歴史の終わり」だったんだよ!!

ジョージ おもしろいのが、グロイスがこの本が書いていた時代というのは、先ほど少し言及したフランシス・フクヤマが「歴史の終わり」と言い始めた時期とほとんど同じだということですね。冷戦崩壊によって民主主義と自由経済(資本主義)の最終的な勝利が明らかになり、歴史は最終形態に入ったんだ、とフクヤマはヘーゲル/コジェーヴに依拠しながら言います。
 ヘーゲル弁証法的に言えば、「否定」や「矛盾」、「葛藤」といったものが近代という時代を駆動していたんですね。イデオロギー対立もそのひとつです。国でも個人でも歴史でもいいのですが、自己を確立したかと思いきや、何ものかが自己を否定しにきて、その否定や葛藤を乗り越えたらさらにまた一歩進歩し、より強固な自己が確立される。自らを否定しにくる対立物を、さらに否定して乗り越えるということで、このことを「否定の否定」と言ったりします。そうした葛藤をすべて乗り越えた先にあるのが「歴史の終わり」です。弁証法的否定についてのグロイスの記述も冴えわたっています。

アヴァンギャルドのプロジェクトは過去への絶対的反抗であって弁証的反抗ではなく、過去そのものを否定する反抗にすぎず、したがってアヴァンギャルドは、スターリニズムのトータルな「弁証法的アイロニー」と「否定の否定」を前に屈さざるを得なかったのである。弁証法的唯物論の実際の言語では「弁証法的イロニー」とは二重の絶滅を意味するものであった。それはすなわち、破壊者を際限なく破壊すること、浄化者を際限なく浄化すること、スターリン的、超越的な人間主義ヒューマニズム、歴史を貫く「新しい人間主義」の名において、人間という素材を神秘的に蒸留し、そこから「新しい人間」を作り出すことを意味するものであった。(96-97頁)

「破壊者を際限なく破壊すること」って、要するに自分(スターリン)に敵対(否定)してくるやつを徹底的に粛清(否定)したってことですよね。 「否定の否定」、恐ろしすぎる……。
 ここに関しても、「きみたちアヴァンギャルドは現実を否定しただけじゃないか。「否定を否定」した男、スターリン。彼こそがヘーゲルの完成者だ。」とでも言いたげですごいですよね。
 時期的にも、グロイスがフクヤマを参照していたわけではないと思いますが、今から読むと「おれたちの国はとっくに「歴史の終わり」だったんだよ!」とでも言いたげに見えますよね。

江永 破壊者を破壊する、もうカードゲームなどで日常の些事から世界の命運が決まるタイプの玩具販促アニメの世界に迷い込んだ気がする。理論的な用語で説明しているときと、現に起きていることのギャップがすごい。

ソヴィエト芸術の新しさは、古い「ブルジョワ的」内容を掩蔽するだけの形式上の「ブルジョワ的」新しさによってではなく、その内容の新しさに由来するものだったのである。スターリン文化はみずからを、じっさいに(かたちを整えつつあるものとしてではなくじっさいに)歴史以後の文化とみなしており、歴史以後の文化にとって「資本主義的な環境」は張子の虎にすぎず、それは「階級闘争の歴史」全体とともに内実を失っていたのである。徹底して黙示録的なこうした認識にとって、芸術的形式のオリジナリティに関する問題はなにかまったく時代遅れのものとして映った。(82頁)

ジョージ そこで、社会主義リアリズムで描くべき「内容」とはいったいなんなのかって話になるんだけど、そこで重要になってくるのが〈典型的なもの〉って概念なんですね。
 ここで言われる「典型」というのは、社会における「平均的なもの」や「普通のもの」などではなく、来るべき理想的な社会主義国家における典型像のことで、芸術家はその未来の社会の典型像を先取して描写する必要があるんです。

社会主義リアリズムは、まだ存在していないもの、存在してはいないが今後創りだされなければならないものへと方向づけられており、この点では社会主義リアリズムはアヴァンギャルドの後継者だといってよい(アヴァンギャルドにとっても「美学的なもの」と「政治的なもの」は一致していた)。当時、〈典型的なもの〉の理解の基礎にあったのはスターリンの次のような発言である。
「弁証法的方法にとって重要なのは、現時点で確固として存在しつつすでに消滅しかけているものではなく、たとえ現時点では確固としているようには見えなくとも、現に発生し、成長しつつあるものなのだ。なぜなら、弁証法的方法にとっては発生し成長しつつあるものだけが不朽な〔克服されない〕ものだからである。」(99-100頁)

原文では「弁証法的方法にとって~」以降はブロック引用。

で、芸術家たちが〈典型的なもの〉を描くために必要な能力はどんなものだったのかというと、

重要なのは、まだ形成されされはじめたばかりの党の方針をヴィジュアルに実現することであり、(中略)正確にいえば、じっさいに現実を創造していた創造主スターリンの意志をあやまたず推し知る能力だった。(100頁)

清水 歴史終わったからって気分で決めてない?

ジョージ
 まあまあ。要するに、社会主義の理念を体現する〈典型的なもの〉というのはまだスターリンの心の中にしかないのだから、芸術家たちは彼の心を読み、彼の眼鏡にかなった作品を作る必要があった。しかも、スターリンの心を読むことに失敗すると芸術家は大変恐ろしい目にあうって言うんですね。

ある芸術家が「正しい〈典型的なもの〉」を選びだすことができないという事実は、党とスターリンの意志と自分の意志が同一であることを彼が内心認めることができないという事実の表れにほかならず、それはまた、彼の内面の下意識のいずれかのレベルにおいて党=スターリンと政治的に食い違っていることを示すものだったからだ。芸術家自身はおそらく下意識のレベルを自覚的に意識することさえなく、主観的には自分はスターリンに忠誠なのだと考えているかもしれないが、こうした芸術家の個人的な夢がスターリン夢と一致しないことをもって彼を物理的に抹殺することは──別の美学からみれば不合理きわまりないことであっても──完全に論理にかなったことであると考えられていた。(101-102頁)

江永 めちゃくちゃすぎる。解釈違いで銃殺なんだな。いや、推しの解釈違いで血を流して争うとかオタクが戯画化して言う軽口が悪夢みたいな現実に先取られてるの悪夢的ですね。これがリアルか。

芸術家にとってリアリズム的であるということは、自分の個人的な夢がスターリンの夢から逸脱している(それは政治犯罪と見なされていた)の罪でもって銃殺されるのを免れることを意味していた。(102頁)

 いや、解釈違いの比喩で考えるならこれは公式との解釈違いという問題ですね。原作者と公式出してる企業の意向にそむくファンはもうファンじゃなくてアンチなので、潰すのは「完全に論理にかなったことである」。全体主義的ファンダム体制? もちろん生死がかかっているのでファンダムどころではないですが(無論ファンダムで命を懸けているひともいますけど…)。

清水 アーティストたち自身もスターリンの「新しい人間を作る」という言葉を真に受けて、「おれたちこそが次の人類をつくるんだ!」って使命感にかられてハイになってたんだろうな。わたし自身もそうですが、もしソ連でボルシェヴィキのアーティストとして活動していたら誰だってハマる可能性があるんじゃないかと思います。

江永 ある種の教育的なパッションを持っている人ほどハマってしまいそうですね。

清水 神なき後の神になったってことですよね、スターリン。

江永 ポール・ド・マンが『美学イデオロギー』って本でシラーの美的教育論について論じているのですが、ここで言うところの「新しい人間を作る」って話と芸術を繋げていて、それがゲッベルスの小説の一節にまで地続きになっている思想(イデオロギーと言っていいと思うんですが)としてある、という論を展開していて、えげつないなと思ったんですけど、大体一致だ。

ジョージ シラーつながりですが、この章でスターリン文化においてはシラーやゲーテが「進歩的」で「民衆的」な文学者として持ち上げられていたって話が出てきます。

彼ら[引用者注:シラーやゲーテ]はみな民衆を愛し、反動勢力の陰謀に苦しみ、輝かしい未来のために努め、真のリアリズム芸術を想像した、などとされていたのである。(94頁)

 熱い展開ですよね。過去のあらゆる芸術に「新しい人間」の萌芽を見つけだすとか。

江永 「文芸で世の中を変える」とか言ったりすることの暗黒面。自分もちょっと他人事ではないですね……。

ジョージ これは本書を通してグロイスが主張していることですが、先鋭的な芸術家や文学者は世の中を変えるなんて言いがちだけど、実際に国家プロジェクトとして文学や芸術で世界を変えることに成功したのは結局ソ連だけだったってことですよね。
 スターリンにしてみれば、「シラーですか、世界変えましょう」、「ゲーテですか、世界変えましょう」って感じで、どんな作家について語ってもいっしょに世界を変えましょうという結論しか出ないわけですよ。

江永 でも、ガチでやったのはシラーやゲーテとともに、スターリン。政治でやり切った?(やり切ってしまった?)のは、スターリン。文学者は人間の魂の技師(エンジニア)であると打ち出した、スターリン。という話になるわけですね、グロイスの論だと。スターリンが打ち出したという「魂の技師」の語を「魂の詐欺師」と皮肉ったセゾングループ代表で文学者の辻井喬=堤清二の文章がネットですぐ出てくるのが何とも言えない気持ちになります(この堤清二がボードリヤールの『消費社会の神話と構造』などに触発されて、反ブランドを標榜して「無印良品」を立ち上げた、という話はよく流布していますよね。色々因縁を考えさせられます)。なお、近年、ロシア文学研究者がこの発言の文脈を検討したものがあったので貼ってきます。

https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/records/54888#.YawG2NDP2Uk

(沼野充義「オ レーシャとスターリン 「人間の魂の技師」の起源をめぐって(A Retrospect)」2020)

清水 美術で世界を変えようって発想、なかなか遠いな。日本だと、明治以降じっさいに天皇という「神」がいた扱いになるのかな。

江永 もちろん神話から地続きに語られる面もありますが、存命の帝の神格化は一般的な歴史学では7世紀後半の壬申の乱以後の天武天皇(今日の通説では日本や天皇などの称号が整えられたのもこの辺りの時期)に遡られることが多いみたいですね。近代以降での天皇に関連する視覚的な演出や美術と政治の話だと、御真影や行幸啓の話がありますが、多木浩二『天皇の肖像』とか原武史『可視化された帝国』といった研究者の本が知られてますよね。また近世だと例えば徳川家康なども東照大権現って神号もらったりして神格化されていたじゃないですか。このあたり、研究書も出ているらしいです。

意志の力ひとつで結核から回復(?)


ジョージ ここからは実際に社会主義リアリズムにのっとって作られた作品についての記述が主になっていくのですが、グロイスの筆がまたノリまくってます。

 江永 めちゃくちゃノリノリですよね。

明らかに人間の手にあまる手柄を立てる能力というものがスターリン時代の文学の主人公たちのきわだった特徴なのだが、それはこれら主人公たちが人生に対する「形式主義」的な姿勢を拒否する結果として発揮されるものだった。意志の力ひとつで結核から回復したり、温室もないツンドラに熱帯植物を栽培しはじめたり、眼光だけで敵を麻痺させたりすることができたのもひとえにそのせいだったし、スタハーノフ運動は、まったくなんの補足技術も応用せず、労働者たちの意志の力ひとつで労働の生産性を十倍にまでおしあげた。(115頁)

 体力チートや技術チート。いつの世も、みんな異世界転生チートで大活躍が好きだったのだな、としみじみ思います。

 スタハーノフも晩年かわいそうで、スターリンの死後はプロパガンダの対象からか家族に見放され酒に溺れ、精神病院で転んで頭を打って死んだそうです。そりゃヤケになってアル中になるなーと思いますよ。

ジョージ アムロのお父さんみたいですね。
 スターリン時代に不遇をかこった人びとはみんな、意志の薄弱が原因とされてしまったというヤバい話が出てきます。なんたって「ボルシェヴィキに不可能はない」はずなんだから。

「ボリシェヴィキに不可能はない」というのがこの時代のスローガンになった。それが実際的、技術的にみて可能であるかという問題や、客観的な限界について云々することは、真のスターリン主義者にあるまじき「小心さ」「不信心」として蔑まれていた。官僚的、形式主義的な立場からどうみても克服できないような困難も、意志の力をもちいさえすれば克服できると考えられていた。そうした「鋼鉄の意思」のモデルとされたのがスターリン自身であり、じっさい──なにしろ彼は意志だけで国家全体を動かしていると考えられていたのだから──スターリンにとって不可能なことなどなかった。(115-116頁)

清水 ぜんぶが意志だけでなんとかなるって、完全に躁状態じゃないですか。

江永 前のめり。ただある方向にポジティブなだけで出口のなさというか、他のものの存在する余地のなさって意味では、すごい今っぽいですよね。

ジョージ 資本主義における「外のなさ」を社会主義リアリズムをもじって「資本主義リアリズム」と定式化したのが、グロイスと同様ポストモダンの出口のなさを理論化したマーク・フィッシャーだったりするわけですよね。
 ここで言うリアリズムというのは、現実(リアル)がいったい何によって構成されているかが問題になっています。社会主義リアリズムは社会主義のみによって現実が作られている世界、資本主義リアリズムは資本主義(市場)のみによって現実が作られている世界であって、どちらも「外部がない」という意味では同じなんですね。いずれにせよもう歴史は終わっているわけだから、これからなにかが新たに到来することはない。

江永 たしかに、フィッシャーによるパーティー憑在論への批判も、枠組みとしてはそうだった気がする。なんでもニセのノスタルジーになってるっていうのは、ここで言う全部都合よく使われちゃうってのと同じですよね。そこから真の(社会批判にも通ずるユートピアへの志向を含む)ノスタルジーを選り分けようとするのが、フィッシャーの議論だった。

清水 なるほど。現代の理論ともそういうふうに繋がってくるんですね。

江永 このへんで「身体の障害による極端な困難の数々をみずからの強い意志によって克服した」主人公がでてくる小説、『鋼鉄はいかに鍛えられたか』の話が出てきますが、そもそもスターリンの名前って鋼鉄って意味ですよね(鉄の人)。当然活動に筆名が必要だったにしろ、キャラ感がすごい。

当時広まっていた「鋼鉄の意思」といった決まり文句や「鋼鉄の翼、そして心臓のかわりに炎のエンジンを」という際限のないリフレーンは、「人間の魂の技師」という人間像にもうしぶんなく合致している。(116頁)

ジョージ もうしぶんはあるだろ。
 「人間の魂の技師」ってどういうことかというと、アヴァンギャルドもスターリンも世界の変革を志向していたわけだけど、最終的には直接人間に働きかけるようになるんですね。世界を作るのは人間なんだから、世界を変えるためには人間じたいを作り変えるのが一番手っ取り早いですから。「パブロフの犬」で有名なパブロフ博士についての記述もありますが、ソ連は人間に対して直接働きかけるための手法をつねに模索していたって文脈ですよね。

技術の力は個人の奥深くに吸収されたようなかたちになり、技術の力に対するかつての不合理なまでの篤い信仰は、人間の隠れた力に対する、やはりおなじぐらいに不合理な信仰に変わった。技術による世界の組織化は、世界の創造者に秘められた内面の力を目に見えるかたちで実現したものでしかなくなった。孤独であり、苦悩し、自分を犠牲にして勝利する芸術家というアヴァンギャルドの英雄はスターリン文化の英雄になったが、それはすでに建設者、スポーツ選手、パイロット、極地検員、工場長、コルホーズの党オルグなど、ようするに現実生活の現実の創造者であって、空想世界の住人ではなかった。(116頁)

江永 ドリームズカムトゥルー。こんなドリームズカムトゥルーはいやだ。

清水 つまり「新しい人間」はすでに存在しているんだってことですよね。

ジョージ もう存在しているからこそ、アヴァンギャルドはすでに用済みだと。

 清水 この破壊分子ってとこもすごいですよ。

「破壊分子」という形象はスターリン神話においてきわめて重要な人間像であるが、「肯定的主人公」の超人的創造力がそうであったように、本質的にこの人物像はにはふつうの意味での「現実的な根拠」はまったくない。スターリン時代の見せしめ裁判において見せつけられたのは、見た目には正常な人がじつは、労働者たちの食べ物に破片を入れたり、彼らに疱瘡や丹毒を植えつけたり、貯水池に毒を混入させ、公共の場所で毒を撒き散らしたり、家畜の疾病死を発生させたりすることがある、ということだった。(117-118頁)

このまま「さらにこれがまったく非人間的で、想像さえできない規模でおこなわれたことになっていた」と続くんですが、このあとがさらにヤバいです。

つまり、彼らはおなじ時間にまったく異なる場所に出没し、巨人にも比すべき破壊的な狼藉をいちどにはたらいたとされ、そこには他人の力添えがあったわけでも後盾の組織があったわけでもまったくなく(そうしておかなければ、彼ら個人の罪が相対的に小さくなってしまうからだ)、事実上彼らは意志の力を強めただけで(なぜなら彼らはつねに管理され、党の仕事についていた以上はそれ以外にありえないのだから)そうした狼藉をおこなったとされていた。(118頁)

江永 パワーワード満載。

清水 ほとんど魔女狩りですよ。

 マヤコフスキーの「レーニンはいまなおどんな生者よりも生きている」って言葉が出てきますが、よく考えるとかなりヤバいこと言ってますよね。

ジョージ 126ページですね。その手前のこの発言もすごい。

トゥーゲントホリトはこう言っている。
「レーニンが死んだとき、誰もがこう感じた。なにかが見すごされている、いますぐにでもいっさいの「主義イズム」を忘れ、レーニンという形象を後世の人びとのために守りぬかなければならないと。レーニンを心に刻みつけたいという願いのもとにすべての流れが結集した(…)。」(126頁)

原文では「レーニンが死んだとき~」以降はブロック引用。

江永 実際、遺体が保存されたわけですよね。AI美空ひばりって賛否両論で存在しましたがAIレーニンもありそうですね。ありそうですが、そんなデジタル・レーニンはいやだ。

清水 今の世界でもありそう。

 真顔で書いているの面白すぎる。

こいつはゲーテのファウストより強いぞ。愛が死に打ち勝つんだから

ジョージ これもこの章を通して言われていることですが、現実を無化することにかけてスターリンの上に立つものはないんですよね。スターリンの肖像画の話が出てくるんですが、

スターリンはみずから築きあげた芸術作品〔ソヴィエト体制〕のなかに自分の反映を見いだすことができた。というのも、新しいソヴィエト人としての芸術家は「スターリン精神に駆り立てられた」者、スターリンによって創造された者であるほかになかったからである。この意味で、社会主義リアリズムの精華たるスターリンの肖像画とは、デミウルゴスがおのれのなかに映し出したデミウルゴスであり、弁証法的発展の完成段階なのだ。作家たちや芸術家たちにスターリンが課した「真実を書け」という有名な課題はこの意味において理解されねばならない。(131頁)

 言ってみればソ連の国民はぜんいんスターリンの脳内の産物なわけですよ。スターリンの肖像画というのは、脳内世界の記述者たる芸術家──彼らもまた脳内存在者の一部です──がみずからの創造者の肖像を描くことで、自分が誰の(スターリンの)の脳内に存在しているのかを国民が自覚できているかどうか、スターリンが確認できるようになるわけですね。脳内で自分の姿を見いだして喜んでいると考えるとちょっと笑っちゃいますが。

江永 最近ロシアってナショナリズムの高まりに合わせてスターリン再評価の兆しあるらしいですね。スターリンが強い指導者のイメージとして内面に浸透してしまったのかもしれない。さいきん、集団に共有される記憶とアイデンティティが政治的諸々にどう結びつくか論じるのはホットみたいです。

https://www.keio-up.co.jp/np/detail_contents.do?goods_id=5216

小森宏美による立石洋子『スターリン時代の記憶』2020への書評↓

 近年では、攻撃的なナショナリズムの口実として、どの国にも自分たちが犠牲になった出来事を強調する「犠牲者ナショナリズム」が見られることがあるらしいと議論されてもいるらしく、アニメや漫画の愛好家が迫害されていたという伝承を誰かを攻撃する口実に使ったら、これになってしまうのかと思ったりもしました。とはいえ私も10代の頃に「あんなカバーの本を読んでいるやつら、気持ち悪いよね」と言いあう人々を日常で目撃したりもしていたはずなので、神話扱いされても困るんですが。いや細かいセリフ覚えていなかったのを補って話しているから、紋切型に寄せちゃってるかな。声がでかいやつと空気掴んでるやつ次第で、同じ特徴ですら抑圧できる側と抑圧されてしまう側と、いずれの目印にもなる。オタクは民族でも国家でもないんだからこんな類比そもそも使わない方がいい、と思う一方、特定ファンダムを「話の通じない人種」みたいに扱うのは今でも結構あるからな…。

「ロメオとジュリエットやカルメンなどがスターリン文化のお気に入りのヒーローになり、ゴーリキーのロマンティックな短編小説の一つ『死と乙女』に対してスターリンが「こいつはゲーテのファウストより強いぞ。愛が死に打ち勝つんだから」という有名な裁可を下したのもうなずける。」(132)とかを見ているとどこまで美的感覚あったんだろうと本当に謎になってきます。こういうロマンティックなものたちが悪いというわけではないのですが…。

江永 こういってしまえば、エモ的なものの一番禍々しくなる瞬間ですね。

ジョージ こうしてグロイスが引用しているスターリン等の文章をひろっているだけでも、めちゃくちゃ草がはえる引用集として楽しめちゃいますよね。

江永 「アヴァンギャルドというデミウルゴス像が、かぎりなく善良な「爺さん」ことレーニンと、かぎりなく非道な「破壊分子」ことトロツキーとに分裂していったのに対して、スターリンその人は、その疑いようもない温情にもかかわらず、悪魔的な特質の大部分を保持するスターリンのままだったこともまた特徴である。たとえば彼は基本的に「ふつうの人びと」が眠っている夜中に活動し、彼の長い沈黙はひとを怯えさせた」(133-134)。 なにがいちばん怖いというか、インパクトあるかというと、これが本当に実践されていたってことですよね。

清水 そうですね。いまからみると草しかはえないけど。

江永 こういうのって、いわば(文字通り?)黒歴史として、世界に起こってなかったことにして議論する方が多いと思うんですよ。それをグロイスは堂々とぜんぶ持ってきて、それだけでなく外の議論、具体的には西側の現代思想の議論と(最悪といっていいかもしれない)つなぎかたしているわけですよね。これが本当のポストモダンだって。えげつない論じ方。
 定期的に出てきているんですが、アヴァンギャルの超人=デミウルゴスって書いてるのもすごいパンチきいてる。

 言葉使いが強いですよね。

江永 やってることと使っている言葉のガチャガチャしたギャップが(こういうと申し訳ないですが)すごい中二病っぽくて執着を抱いてしまう。そのような仕方でないと記述できない人生のことも、何だか考えてしまう。理論的な言葉と実践的な言葉、現実を記述する言葉が同じ言語で書かれている。

ジョージ グロイスがこの言葉使いができているのも、理論によって現実を構成することに成功した国、ソ連についての記述だからこそですよね。
 理論(マルクス主義)がそのまま国家建設につながっている国だから、その国を記述するときの言語がそのまま理論の言語で書かれている。グロイスはそのあたりを利用して、ソ連についての記述するときもあえて言語の水準をごっちゃにしているわけですよね。

江永 外野が思うような意味では上滑りにならないですよね。現に使われてたから。大塚英志は『「彼女たち」の連合赤軍:サブカルチャーと戦後民主主義』で言葉の上滑りと身体性(またセックスやジェンダーやセクシュアリティ)と暴力の噴出がどう結びついてしまったか論じて上滑りを批判していた気がしますが(あと山本直樹『ビリーバーズ』とかを思い出しもしますが)、私は現に世界をがちゃがちゃな言葉で喋ろうとする場合とか、それでしか喋れないという場合の話をしたい気持ちにもなります。

 ジョージ 第1章でアヴァンギャルドを代表する詩人、フレーブニコフの超意味言語ザーウミ詩の話が出てきたけど、スターリン体制下のプロパガンダのスローガンこそが超意味言語ザーウミ詩を完成させたんだって話も、メチャクチャ性格が悪くて最高でした。
 ソ連のプロパガンダ・スローガンは同一の単純な内容のメッセージを「大衆の意識に叩き込む」ことが目的だったわけですが、当然そのことをアヴァンギャルドの理論家(フォルマリスト)は批判するわけです。フォルマリズムのもっとも有名な理論家のひとりヴィノクールは、スローガンについて「一発目はよい。二発目もよい。だが感覚喪失になるまで打ってはならない」と言っています。
 何度も繰り返し同じ言葉を聴かされ続けると、だんだんと言葉の意味が頭に入ってこなくなってしまい、単なる音としてしか知覚できなくなってしまうことってあるじゃないですか。

清水 ゲシュタルト崩壊みたいなもんですよね。

ジョージ 「労働者階級とその最前衛たるロシア共産党に万歳!」というのがソ連の典型的なスローガンだったらしいのですが、こんなの繰り返し聴かされたらたまったもんじゃないですよね(笑)。
 ヴィノークルは、そうなってしまうとスローガンは「使い古しの紋切り型(クリシェ)、すり減ったヒール、反古の紙幣」になってしまうと批判するのですが、「おいおいちょっと待てよ」とグロイスはツッコミます。
 というのも、ヴィノークルはアヴァンギャルド=フォルマリズムの達成として超意味言語ザーウミ詩を高く評価していたんですね。
 超意味言語ザーウミ詩ってようするに、ぼくたちが日常的に使用することによってすり減ってしまった言語の詩的側面を復活させるために、ことばの意味伝達的な側面をはぎ取って音声的・音響的な側面を強調したいわけじゃないですか。
 だったら、言葉の意味的な側面がはがれ落ち、音の響きだけになってしまうスローガンこそが超意味詩の理想を体現しているじゃないか! とグロイスは言います。しかも当のヴィノークルはスローガンを批判するときに、「超意味言語ザーウミ、音の響きの寄せ集めであって、それはあまりにも聞き慣れてしまったしまったため、これらのアピールに反応するのはもはやまったく不可能に思えてくる」と、自らが最も評価する超意味言語ザーウミ詩の超意味言語ザーウミという語彙を使ってしまうんですね。こちらも、「皮肉にもアヴァンギャルドの理想を体現してしまうスターリニズム」というグロイスのお得意のパターンですよね。

江永 紋切り型こそが究極の無意味(超意味)ってことですよね。
 この章に関しては、最後のほうで章のまとめをしてくれているところもいいですよね。このあたりです。

原始的で直截なるものを党は当初から社会的実践のレベルで操作してきたが、スターリン文化はその経験を生かし、原始的で直截なものをこそ、公然と芸術的組織の一部門にすえた。それと同時に、党はデミウルゴスすなわち新たな現実の創造者そのもののイメージを自律的な芸術活動において主題化したが、それはアヴァンギャルの手に余ることであった。この点で社会主義リアリズムは、シュルレアリスム、魔術的リアリズム、ドイツのナチ芸術など、前衛芸術における創造的かつデモーニッシュなるもののメカニズムを心理学的レベルで露わにした他の多くの省察=反映に連なっている。アヴァンギャルドの歴史的な枠組みを克服し、アヴァンギャルにとって本質的な、芸術的なものと非芸術的なもの、伝統的なものと新たなもの、建設的なものと日常的なもの(あるいはキッチュ)の対立を止揚したスターリン時代の芸術はドイツのナチ文化と同じように、人類史の外で新たな永遠の帝国(過去にあったあらゆる善を最終的にとりこみ、ネガティヴなものはいっさい拒否できる黙示録的王国)を建設しているという自負を前面に押しだしたのである。アヴァンギャルディストたちのユートピア的企てを、非アヴァンギャルディスト的、伝統主義者的、「現実主義者的」手段で遂行するというこの自負はまさしくこの文化の本質をなすものであって、したがってこれをたんなる見せかけのポーズと見すごすことはできない。「生活の建設」にかけるスターリンの熱情は、みずからを過去へのたんなる退行とする評価を斥ける。なぜなら、この熱情が主張するのは、未来と過去を区別すること自体意味のない絶対的な黙示録的未来だからである。(138-139)

「人類史の外で新たな永遠の帝国(過去にあったあらゆる善を最終的にとりこみ、ネガティヴなものはいっさい拒否できる黙示録的王国)」って、いわば社会的包摂(包摂に値しないものは除く)っていう悪い冗談みたいな感じで、でも、すごみがありますね。
 このあとのは外からの視点に対する批判です。

ソヴィエトの作家にとっては、ソヴィエト芸術の自由は西側市場の偽の自由も高い次元にある。それは新しい人間ひいては新しい民衆を(民衆の趣味を加味せずに)創造するための、国家のための創造の自由だ。だから社会主義の建設という最高目的は美学的な目的であって、社会主義そのものがまた美しいものの最高の規範として了解されているが、当のスターリン文化においてこの目的はほぼ例外なく、倫理的、政治的なかたちをとっている。だからスターリン文化がまず不首尾に終わり、過去へと立ちさるまで、それは真に美学的な視点からは検討されえなかったのである。(140)

そんなわけで、ソッツアートやスターリン文化を美学的に検討するグロイスたちが出てきましたよ、ってことですね。それが第3章です。

to be continued...

[了]

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