クソコラは革命的だったのか? ボリス・グロイス『全体芸術様式スターリン』読書会その1(【闇の自己啓発】アート編)

闇の自己啓発会は、2021年某月某日、ボリス・グロイス『全体主義芸術様式スターリン』の読書会をおこないました(亀山郁夫・古賀義顕訳、現代思潮新社、2000年)。課題本はジョージさんによるチョイス。ソビエト連邦が解体に向かう時期に書かれた、美術作品中心の20世紀ロシア文化史論です。

追記
・「¥500」とありますが無料で全文読めます
・¥500でジョージさんに「課金」できます
・ジョージさんからのメッセージは以下

今回、江永以外は初参加です。江永が林さんに声をかけてもらったのが開催のきっかけで、清水さんとジョージさんも誘い、開催の運びとなりました。

自己紹介
江永泉 noteユーザー。今更だが、永野「ゴッホとピカソに捧げる歌」に思いを馳せる、きょうこの頃。
清水香央理 アーティスト。押上のアートラボ「halflaw」(文華連邦内)を主催。
ジョージ 無職。最近コロナに感染し後遺症に苦しむ。本記事の売り上げの一部はかわいそうなジョージに寄付されます。
美月 アーティスト。東京に住むか京都に住むかで迷っている。

以下に目次と本文が続きます。今回で話した内容の5分の2くらいなので、あと1、2回、記事が続く予定です。それではどうぞ。

記事の後半で、このツイートにあるマレーヴィチの絵の話をしています

イントロダクション:著者グロイスの来歴ーロシア宇宙主義ー美術館と市場ー社会主義リアリズム再考

江永 ジョージさん、清水さん、林さん、今日はありがとうございます! それではグロイス『全体芸術様式スターリン』読書会、はじめていきたいと思います。読んでみてどうでした?

ジョージ 今回この本を読み返して驚いたのは、初読時はあまり印象に残っていなかったのですが、本書の主人公であるスターリンが論じられる第2章がメチャクチャおもしろかったことですね。

清水 けっこう読みづらさがある本でした。
江永 そうですね。いわゆるパラグラフ・ライティングっぽい構成ではない感じ。段落ごとに最初の一文読んで、的な拾い読みはしづらい印象です。
ジョージ この本はもともとロシア語で書かれていますが、彼の英語の著作と比べると構文も複雑で読みにくいよね。
江永 ただ、このタイプの読みづらさは読み手側の習慣が変われば変わるところもありそう。これも、めっちゃ読んでたら慣れるのかな。
ジョージ これが読みやすくなることはないんじゃないでしょうか。
 なので、できるだけみなさんが挫けずに圧倒的におもしろい第2章に到達できるように、なかでもアクロバティックな議論が展開されている序章と第1章については、ぼくは要約の役割に徹していこうかと思います。できるだけ噛み砕いてしゃべるつもりなので、みなさんよろしくお願いします。

江永 今回グロイスのこの本を読むっていうのはジョージさんに提案してもらったんですけど、それに加えて、グロイスという書き手の簡単な紹介も準備してもらいました(本当にありがとうございました)。それでは、ジョージさん、イントロをお願いします。

2017年の展示/カンファレンスでロシア宇宙主義を語るボリス・グロイス。どうして宇宙主義の話をしているのかは、以下のジョージ解説で。

ジョージ  ボリス・グロイスは現代を代表する美術批評家ですが、彼が扱うトピックは非常に多岐にわたります。なので今回は簡単に彼の来歴を紹介してから、彼の全体主義芸術論、ミュージアム論、そしてロシア宇宙主義と3つのトピックに絞ってお話していければと思います。
 グロイスは1947年、東ベルリンに生まれます。ソ連傘下・共産主義体制下の東ドイツですね。生まれは東ドイツですが教育はソ連で受けていて、ドイツ語とロシア語どちらも自在に執筆できるレベルで堪能なようです。大学では哲学と数理論理学を学び、70年代にはハイデガー、デリダ、ドゥルーズなどの現代思想をソ連に紹介する仕事をしていた。また、70年代にモスクワ・コンセプチュアリズムというソ連の非公式アートシーンで批評家・キュレーターとして活動していた経歴も彼のその後の立場を考えるうえでは重要です。
 そしてグロイスは、1981年に資本主義側の西ドイツに亡命します。亡命後は批評家・キュレーターとして西側諸国のアート界に共産圏の作家、おもに彼と交流のあったモスクワ・コンセプチュアリズムの作家を精力的に紹介する役割をになっていた。批評家としては最初ドイツ語やロシア語の著作が多かったんですが、90年代、2000年代と英語で著作を発表するようになり、次第に世界のアートシーンで影響力を持つようになる。『ArtReview』誌による、その年アート界でもっとも影響力を持った人物100人をリストアップする「POWER 100」って企画があるじゃないですか。グロイスはその100人にリストアップされたことがあるぐらいには影響力がある。それでは、なぜ彼はこんなに影響力を持つにいたったのか。
 まず、彼の書く文章には制度論、ないし原理論が多いんですね。たとえば「美術館(ミュージアム)の役割とはなにか」、「キュレーターシップとはなにか」、インスタレーションとは、インターネットアートとは……etc。つまり、ミュージアムの役割などを説明するさいに、美術の関係者などが使いやすい理論を提供していることが、彼の影響力の源泉のひとつなんじゃないか。
 かつ、彼がドイツ語やロシア語で書く文章はその英訳を参照する限りかなり難解なんだけど、英語はあまり得意じゃないのか、彼が英語で書く文章はすごく平易なんですね。議論の展開はあいかわらずアクロバティックで、一読してすんなりと理解するのは少し難しいのでは? とも思いますが。
 まぁともかく、そうした平易な文体で書かれてるからこそ、アート関係者の中でも普段から難解な理論的文章を読みなれていない人、また非英語圏の人でも参照しやすいということは大きいんじゃないかと思います。

 そして時系列は前後しますが、グロイスの理論家としての評価を決定づけたのが、今回取り上げる『全体芸術様式スターリン』です。彼の代表作といってもいいでしょう。本書は最初88年にドイツ語訳で出ていますが、もともとはロシア語で書かれている。冷戦崩壊・ソ連解体が91年なので、その直前ですね。

表紙がポップな『全体芸術様式スターリン』ポーランド語版。マリリン・モンローやチェ・ゲバラや毛沢東をカラー版画(シルクスクリーン)にした、アンディ・ウォーホルの諸作品を連想させる。だが、この本では1970年代以後のソ連のソッツアート(いわばクソコラ作品)がウォーホルのそれといかに異なる意味合いになるかを論じているので要注意。なおポップアート(例えばスクショやコラ画像みたいなのが芸術作品として提示される)とレディメイド(例えば署名入り小便器が芸術作品として提示される)は表裏一体と捉えられたりする。例えばアガンベン『中味のない人間』(初版1970)参照。

 本書のどこがそんなに衝撃的だったかというと、西ヨーロッパやアメリカ、いわゆる西側諸国のアートシーンの常識を逆なでし、引っくり返すような議論を展開していることではないかと思います。
 20世紀のはじめに、マレーヴィチの『黒い正方形』に代表されるロシア・アヴァンギャルドと呼ばれる芸術運動がありました。ロシア・アヴァンギャルドというのは、絵画においては具象から抽象に向かい進行していき、それ以上省くことができない純粋な要素だけで構成された絵画を実現したということで、西側のアートシーン・美術史から見ても、アヴァンギャルドの純粋性を体現していた運動だと目されていたんですね。なんたってそこで描かれているのは黒い四角形だけなわけだから。ところが、その運動はその後スターリン主義・全体主義によって抑圧され、社会主義リアリズムという時代遅れで野蛮な形式へと歪められてしまった。つまりロシア・アヴァンギャルドは、西側からはありえたかもしれない最高のアヴァンギャルド運動みたいに思われていた。ところが、グロイスはそんな認識は大間違いだと言うんです。
 グロイスは、社会主義リアリズムないしスターリニズムというのは、ロシア・アヴァンギャルドの抑圧者などではなく、むしろアヴァンギャルドの理念の完成形ですらあるというんですね。細かい議論は読書会を進めていく過程で検討していきたいと思いますが、ともかく、このように西側の常識をひっくり返すような論理を展開したことによって、美術批評史に衝撃を与えたということだけここでは確認しておければなと。

スターリン2

ボリス・ウラジミルスキー『スターリンに花束を』1949年。社会主義リアリズムを代表するとされる作品のひとつ。なお、同作家の絵画では、内務人民委員部(KGBの前身にあたる組織)の車両を描いたとされる『ブラック・レイヴンズ』(1930年代?)も近年は再び注目され、引用されていたりする。

ポロック2

ジャクソン・ポロック『インディアンレッドの地の壁画』1950年。ウラジミルスキー『スターリンに花束を』(1949年)とほぼ同時代の作品。ポロックはアメリカの抽象表現主義を代表する人物のひとりとされており、同時代から美術批評家グリーンバーグなどによって絶賛されていた。『スターリンに花束を』とこれを同じ判断基準でともによい絵として評して語るのは、すごくしんどそうな気はする。一方だけを激推しし他方をディスる方が楽そうだ。

カンディンスキー

ワシリー・カンディンスキー『コンポジションVII』1913年。カンディンスキーは抽象画の先駆者とされる人物のひとりで、ロシア出身。こういうのをざっと見ておくと「ロシア・アヴァンギャルドは」「スターリン主義・全体主義によって抑圧され、社会主義リアリズムという時代遅れで野蛮な形式へと歪められてしまった」「ありえたかもしれない最高のアヴァンギャルド運動みたいに思われていた」という話になるほど感が出ると思う。この『コンポジションVII』は確かにパッと見『スターリンに花束を』よりも『インディアンレッドの地の壁画』に近い気がする。だが、そうではなく、カンディンスキー『コンポジションVII』やマレーヴィチ『黒の正方形』を創り出した思想のある面での後継また乗り越えこそがウラジミルスキー『スターリンに花束を』のような作品群なのだ、というのが本書でグロイスの展開する議論。

 余談ですが、冷戦崩壊後に旧共産圏からやってきて英語で書くことによって絶大な影響力を持ったという意味では、旧ユーゴスラヴィア(今のスロベニア)出身の哲学者、スラヴォイ・ジジェクと立ち位置が似ていると言えるかもしれない。
 冷戦崩壊後「歴史の終わり」なんて言われたりして、東西対立の終焉、資本主義の最終的な勝利によってイデオロギーの時代は終わったというようなことが言われていた。ポストイデオロギーの時代だと。ところがジジェクは、その「イデオロギーの時代は終わった」という考え方自体がイデオロギーそのものだと言い切り、西側の知識人にショックを与えたわけですね。イデオロギーの終わりや歴史の終わり、そしてポストモダニズムに対する、こうした旧共産圏出身の視点を通した独自の立ち位置が、冷戦崩壊後の彼らの影響力の大きさの源泉のひとつになっているのは間違いないと思います。また、『全体芸術様式スターリン』のドイツ語訳が88年、ジジェクの最初の英語の著作であり主著でもある『イデオロギーの崇高な対象』は89年に出版されている。ちなみに、ジジェクも『ArtReview』誌の「POWER100」に入ったことがあります。

スイス放送協会の教養番組に出演するジジェク(2016年頃)

『マトリックス』シリーズのパロディ風ドキュメンタリ映画『マルクス リローデッド』(2011年)にもジジェクは出演している。

 最後に、今回の読書会でこの本を取り上げようと思った理由について。ひとつ目は、メンバーに美術の実作者が2人居るということ。もうひとつは、今回の読書会が「闇の自己啓発」の一環として開催されているということですね。そこで問題となるのが、「闇の自己啓発」の中心メンバーのひとり木澤佐登志さんが頻繁に言及している、ロシア宇宙主義という潮流です。『闇の自己啓発』の単行本でも少し触れられていましたよね。
 ロシア宇宙主義の端緒として位置づけられる思想家として、19世紀後半に精力的に活躍していた思想家、ニコライ・フョードロフが挙げられます。彼は生前に著作を残すことはありませんでしたが、ドストエフスキーやトルストイなどの著名な作家たちに影響を与えました。
 フョードロフの思想をひと言でいうと、死の克服、そして死者の復活です。19世紀ぐらいのヨーロッパでは、科学などが発達した結果、神はいないんじゃないか? ってみんなが疑いだした。すると、人間の魂は死後復活することができないらしいということになる。そのあと社会主義というものがやってきたけど、それでは未来の人間しか救うことができず、過去に死んでいったものたちの魂は浮かばれない。この二つの状況へ対抗するために練り上げられたのが、フョードロフの思想、いわゆるロシア宇宙主義ですね。
 そこでフョードロフは、科学やテクノロジーを用いて人間を不死にしてかつ、過去に死んだ人間の魂や肉体を復活させれば、全人間を救うことことができるんじゃないか? って考えたんですね。フョードロフは、あらゆる問題はテクノロジーでもって克服しなければならないとの信念を持っていたんです。そして死の克服は、宗教的・観念的な不死の世界においてなどではなく、物理的にこの地上において肉体を伴なった形で実現するべきだと。そして、晴れて全人類が不死を獲得したあかつきには、復活した死者たちが住むための領土を確保するため宇宙に飛びだそうではないか! というわけです。だから宇宙主義と呼ばれているわけですね。宇宙主義という思想は、ソ連における宇宙開発にも大きな影響を与えたようです。
 実はこのロシア宇宙主義という思想は、今のアメリカ西海岸のトランスヒューマニズムの思想に受け継がれているんだ、と木澤さんは指摘しています。トランスヒューマニズムというのは、人間の限界を超えていく、「闇自己」的に言えば「人間を超越(トランス)」しようという考えかたのことです。宇宙主義と近い方面で言うと、魂をどこかにアップロードしたり、人体を冷凍保存したりして永遠の生命を得ようってことを目論んだりしています。木澤さんは現在『SFマガジン』にて「さようなら、世界 〈外部〉への遁走論」というロシア宇宙主義を中心に論じる連載をしていますよね。こちらも完結が楽しみです。

江永 その連載の第4回(2021年8月号)で、木澤さんは明治期の日本の宇宙主義とかトランスヒューマニズムなどのことも紹介されていましたね。例えば"神類"への進化を語った北一輝や、他惑星の超人の存在まで語った三宅雪嶺による、日露戦争(1904-1905)後に出た著作が取り上げられていました。この前後の時期、帝政ロシアの写実主義や象徴主義が明治期日本にどう受容されたのかは気になっていましたが、宇宙主義の脈絡もあったんですね。考えてみたら明治後期から大正期って、ちょうどロシア・アヴァンギャルドと同時代だし。いろいろ照応を感じました。そして、いまでも(いまだから?)ホットなんですね。

ジョージ そうなんですよ。で、実はこのボリス・グロイスは近年、ロシア宇宙主義の精力的な紹介者として活動しているんですね。彼はロシア宇宙主義の主要な論考を集めた論集を刊行していて、自身で序文も書いている。その序文は『ゲンロン2』に上田洋子さんの訳で訳出されているのですが、今度河出書房から論集の全訳も出るらしいです。

 グロイスとロシア宇宙主義の関わりについて考えるうえで重要なのが、冒頭で少し触れた彼のミュージアム論です。
 グロイスにとってミュージアムとはどういったものか。20世紀を通して急進的なアーティストたちは、ミュージアムなんて旧弊な権威にすぎない、アートを美術館の外に開いていくべきだと主張してきた。ところが美術が流通する場からミュージアムを締め出した結果、流通の場として残ったのはマーケット・市場だけになった。つまり、すべての作品は商品となり、マーケットに包摂されてしまった。市場の論理が支配的になると、作品は当然売れなきゃ話にならないわけで、すると良し悪しを判断する基準が「流行り」だけになる。流行りを作り出すためには作品には「新奇さ」が必要になり、すると作家は「今」や「現在」に囚われることになってしまう。ところが、マーケットの中の「今」が世界のすべてになってしまうと、観客は「今」の「新しさ」を測るために参照するための「過去」も同時に失なってしまう。つまり、「新しさ」を追い求めていたはずが、なにかが新しいと判断するための基準も喪失してしまうわけです。
 そこでグロイスは、すべてが商品として流通してぐるぐる回っていくだけの世界の中で、過去の遺物を収蔵・アーカイブする役割を担っているミュージアムこそが、逆説的に新しさの価値を担保するんだと主張します。というのも、過去を刻み込んで収蔵することで、それらの過去との差異によって新しさを測ることが可能になり、本当の意味の新しさが現れる。要するに、古い作品と新しい作品がどちらも展示されていれば、現代の作品の新しさを発見しやすいよねってことですかね。簡単に見比べられるので。
 冒頭でも触れたことですが、こうした制度論的な話ができることがグロイスが人気のある理由のひとつなんだと思います。「ミュージアム、だいじ!」なんて言われると、そりゃ美術館関係者はよろこんじゃいますよね。

 ロシア宇宙主義の話に戻ります。フョードロフの至上命題である死の克服、そして肉体を伴った形での死者の復活というのは、グロイスによるとミュージアムと同様アーカイビングの問題だって言うんですよね。というのも、フョードロフにとってミュージアムとは、あらゆる作品を保存し生き長らえさせ、不死にするものだからです。そしてミュージアムと同様、死を克服した人類はみずからを永久に保存する必要があるんだ、と。ちなみに、フョードロフは実は博物館に勤めていたこともあります。
 グロイスがロシア宇宙主義に注目する理由としては、フョードロフに影響を受けた後続の世代の宇宙主義者たちの活動と、革命後ロシアで活躍していたアヴァンギャルド芸術家たちの活動の時期がかぶっているということもあるようです。そして、どちらも旧世界の秩序を破壊し、テクノロジーによって新たな世界を作り上げる、という目的も共通していたと。

グロイスによるロシア宇宙主義論集。

 最後にグロイスの全体主義や社会主義リアリズムに対する関心と、彼のミュージアム論とのつながりについて指摘してからイントロを終えたいと思います。
 すべての作品がマーケットに包摂されてしまう世界の、その外側を思考するためにミュージアムが必要だったわけですが、じつは20世紀美術の中でマーケットに包摂されない潮流がもうひとつあったんだってグロイスは言うんですね。『アート・パワー』の序文で書いていることですが、それは社会主義リアリズムであると。当時のソ連は計画経済で市場がなかったから、という身もふたもない理由ではありますが。グロイスが社会主義リアリズムやミュージアムを取り上げるのは、どちらもアートマーケットの外を志向するためなんですね。

清水 グロイス、結局は社会主義リアリズム芸術を市場に包摂するのに加担してしまっているのではないでしょうか?
ジョージ 社会主義リアリズムやソッツアートを西側のアートシーンに紹介しているという意味では、東側のアートを西側のマーケットに包摂することに加担してしまっているとは言えるかもしれない。ただ、これは『全体芸術様式スターリン』の序文にも書いてあることだけど、社会主義リアリズムはスターリンの死後、ソ連国内ですらタブーとして抑圧されてい運動なのね。引用してみましょう。

なによりもまず現在スターリン時代の芸術は、公的にはアヴァンギャルド芸術におとらずタブー視されている。(引用者註:本書執筆時はまだソ連は崩壊していない)当時の新聞、書籍、雑誌はその大部分が特別のセクションに保管されており、一般の研究者にはなかなか閲覧が許されない。スターリン時代の絵画もまたアヴァンギャルド絵画とともに美術館の保管庫にあり、実際に見ることがむずかしい。これらの絵画の多くはのちに作者らによって描きかえられ、スターリンと当時の要注意指導者の肖像が削除された。
(『全体芸術様式スターリン』21頁)

 こんな状況下だったから、まずは言説として社会主義リアリズムをいったん救い出す必要があった。もちろん西側からは時代錯誤の産物として馬鹿にされているし、ソ連国内でもスターリン時代の遺物として忌み嫌われていた。そんな状況がこれ以上進行してしまう前に、いったん社会主義リアリズムってなんだったの? ってことをやりたいと。

江永 言ってみれば"黒歴史"の掘り起こしだったわけですね。もっとまがまがしいニュアンスが強いかもしれないですが。こんなところで、頭から順々に読んでいきましょう。

芸術=生活を作り上げた男、スターリン?(「序にかえて」+「はじめに」)

ジョージ ここらへんの内容はイントロで紹介したところとかぶっているので、サラッと読んでいきましょうか。基本的には本書の意図を述べているところです。
 まずは「序にかえて」から引用してみましょうか。

今世紀初頭のロシア・アヴァンギャルドは生そのものを変えてしまおうとするもっともラディカルな試みのひとつだった。生を変えるためにロシア・アヴァンギャルドは、周知のように、世界を説明するのではなく、やはり世界を変えようとしたマルクス主義と連帯した。さらに当のマルクス主義もまた、芸術的理想を生活のなかで実現することをめざしていたドイツ・ロマン主義を源としていた。したがってどの労働者も、事物と自分の生活をまるごと創り出す自由な創造者すなわち芸術家とならなければならない。
(『全体芸術様式スターリン』7~8頁)

 ひとつ押さえとかなきゃいけないのは、ロシア・アヴァンギャルドが常に政治=ロシア革命と伴走していたことですね。アヴァンギャルドの最初の最盛期が1917年の革命と時期を一にしていたことで、芸術家たちも革命の熱狂を共にし、世界=生を変えるために政治に介入するようになっていった。マルクス主義と連帯したというのは、具体的には共産党政権に接近していったということですね。左派アーティストが政治に介入することはそんなに珍しく思えないかもしれませんが、先進国においては左派芸術家が体制内で権力を掌握した例は歴史的にもほとんどないですよね。だからたいていの場合、西側の芸術家は政治=革命を挫折として経験し、左派は反体制に留まることになります。よって、左派芸術家たちが党の中枢部=体制に入りこみ権力を握ることになったロシア革命は、美術史においても未曽有の出来事だったと言えるわけです。
 そもそものアヴァンギャルドの目的は、それまでの伝統を否定しつくし芸術の領域を押し広げ、芸術と芸術でないものの境界をなくすことでした。ここで言う「芸術でないもの」とは「生一般=生活」のことです。それまでは芸術と生活は対立していたんですね。そして、「芸術」と「芸術でないもの=生活」の境界がなくなるということは、生活のすべてが芸術的に作りあげられるべき領域になるわけです。

 ということはスターリン、つまり生活を作り上げた男こそ、最強なのでは?

 と、グロイスは問いかけます。なんたって、全体主義的に国家=生活を作り上げちゃったわけだから。ここらへんの話題を掘り下げることが本書の意図であり、また本書の過激なところです。

スターリン

イサーク・ブロドスキー『スターリンの肖像画』1933年。社会主義リアリズム絵画の例。ブロドスキーは1910年代から、レーニンやトロツキーなど、ソ連の様々な政治家や著名人の肖像画を描いていた画家。

 そして、グロイスが評価する70年代以降のソビエトの芸術──モスクワ・コンセプチュアリズムやソッツアート──のことは、スターリニズムの経験抜きに読み解けないぞ、というわけです。ソッツアートというのは、社会主義(ソッツ)リアリズムとポップアートをかけ合わせた造語ですね。ポップアートが大衆的な広告をパロディしたように、ソッツアートはソ連のプロパガンダ広告や社会主義リアリズムの絵画をパロディしてみせている、なんて一般的には思われているが、そんな簡単な話じゃないぞと。ここらへんは第3章の主題になっていきます。

コマールメラミート

コーマル&メラミート『ヤルタ会談』1982年。『全体芸術様式スターリン』英訳版の表紙でもある一点。コーマルとメラミート自身は、作品や活動を見る限り、どうも権威を茶化す――体制側や世間から見て望ましいやり方で扱うべしという有形無形の圧に逆らう――というスタンスで制作活動を続けていったんじゃないかという印象に落ち着く。実際、1970年代にはソ連でアングラ展示会を企画し、当局にブルドーザーで作品を破壊されたりしていた。

レーニン2

コーマル&メラミート『ニューヨークで万歳してタクシーを呼ぶレーニン』1993年。原題はLenin Hails a Cab in New York。手を伸ばしながら演説するレーニンはいわばミームとしてソ連とその影響下に置かれていた国々で流通していたもの(各地のレーニン像でもよく見られたポーズのひとつ)。ソッツアートは、思うに権力者(と目される人物)や芸能人でコラージュをつくるアングラ文化と地続きである。例えばドミトリー・ヴルーベリが1990年にベルリンの壁に描いた『神よ、この死に至る愛の中で我を生き延びさせ給えMy God, Help Me to Survive This Deadly Love』は、1979年の報道映像(当時のソ連書記長と東ドイツ大統領が親愛のキスをす交わす場面)を壁画化したもので、ソッツ・アートの一種とみなされてきた。そして2016年にはリトアニアでこの構図を借りたと評されるウラジミール・プーチンとドナルド・トランプのキス壁画『Make Everything Great Again』が描かれて、同年のイギリスでも国民投票の時期にドナルド・トランプとボリス・ジョンソンのキス壁画が描かれたりしている(イギリスの場合、2004年にバンクシーが発表した警官同士のキス壁画『キッシングカッパーズ』と関連付ける向きもあったようだ)。こうしたクソコラ(画像)、またマッシュアップ(音楽)に基づくアングラコンテンツ制作文化は、80年代以降のシュミレーショニズムとも90年代悪趣味サブカルとも、そしてオタク文化とも、地続きなものとされてきた(2002年頃のムネオハウスムーヴメントなどを念頭に置いている)。

清水 生活と芸術というと、19世紀イギリスのアーツ・アンド・クラフツ(美術工芸)運動なども思い出します。この運動を代表する人物のウィリアム・モリスも社会主義者でしたよね。
林 現実自体を制作するものとして扱う芸術観は、今では当たり前のもののひとつですが、当時は新しかったんですかね。

アヴァンギャルド芸術が否認されたことで、その作者たちはアウトサイダーの地位に追いやられたわけだが、だからといって彼らみずから進んでそうした地位に赴いたわけではなく、また彼らが権力への意志と無縁であったわけではけっしてないということである。彼らのテクストと実践とを注意深く調べれば、事実は正反対であったことがわかる。素材を獲得し、芸術家みずからが確立した法則に従って素材を組織しようとする芸術的な意志は、ほかならぬアヴァンギャルド芸術のなかに権力への意志と直接の紐帯をみいだしたのであり、このことがまた芸術家と社会とのあいだの軋轢の種ともなったのである。
(『全体芸術様式スターリン』23頁)

ジョージ もともとリアリズムというのは、現実(リアル)を写し取るべきものだったのが、社会主義リアリズムにおいては現実(リアル)は作り上げるべきものになるんですね。
清水 なんだかDIY(Do It Yourself)の精神っぽくもありますね。DIYって言うと、日曜大工みたいな余暇を使う趣味の一種だと思われたりもするけれど、DIYには、非営利で自主的にやっていくとか、既に規定された日常空間へと反抗するというニュアンスが込められもする。そういう立場からのDIY論もあるらしい。
江永 たしか毛利嘉孝『はじめてのDIY』(2008年)が、そういう感じの本だったはずです。ただグロイスの議論だとそのインディーズでの現実制作がメジャーに採用されることでどうなったか、みたいな話になっていくわけですね。美術史の更新と新社会の建設が重ねられながら、さながらユートピアを作るにはまず更地をつくらなければならないとでも言わんばかりの芸術と政治の運動が展開していく。
清水 それでロシア・アヴァンギャルドから地続きに社会主義リアリズムが出てくるという。この時点でグロイスは通説批判をしているけど、それをさらに敷衍していきます。スターリン死後に社会主義リアリズムが反省されて、それをパロディ化して批判するソッツアートが出てきたという(西側諸国での)通説も、グロイスは批判する。それらはリアルから距離をとる意志じゃなくて、リアルを獲る意志が芸術にあることを示している。グロイスはそう論じています。

ジョージ スターリンの死後勃興してきたひとつの文化、ネオ伝統主義に対していらだっていたということも「はじめに」で語られていますね。

この文化は第一に、「時間的連続性の回復」を目指している。つまり十九世紀にロシアが経た文化経験と、どちらかといえば伝統主義的なミハイル・ブルガーコフやアンナ・アフマートワといった二十世紀の作家や詩人の作品を範と仰ぐネオ伝統主義である。
(『全体芸術様式スターリン』27頁)

 ブルガーコフやアフマートワはスターリン時代に当局から弾圧されていた作家ですね。犠牲者化された作家を無批判に英雄視することを疑問視しているということでしょうかね。

江永 犠牲者化と英雄視という問題だと、ロレンツォ・ベルニーニ『クィア・アポカリプスQueer Apocalypses』(英訳2016年、初出はイタリア語)を連想します。ある種の非-英雄的(non-heroic)な政治主体を考えようとする本でした。ただ一方で、身体を張っている人々の、身体を張って活動した重みをどう考えればいいんだろうというのもあって。もちろんその重みを真に受けるべきという姿勢が、特定の公認された解釈に従って扱う態度しか許さないみたいな話に陥るなら、それはそれで違うのかな、とも思うんですけど。

ジョージ たしかに。僕はブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』──ローリング・ストーンズの『悪魔を憐れむ歌』の元ネタということで高校のときに読みました──なんかはとてもおもしろい小説だと思いますけどね。少なくともキリストの処刑が描かれる前半部までは。

江永 ブルガーコフだと『犬の心臓』とかも、日訳冒頭の文章から破壊力あって、持ってかれた記憶があります。

ジョージ 同じく70年代の話ですが、ロシア農本主義復活を目論むソルジェニーツィンにも相当いらだっていたようです。西側のインテリからはスターリンの圧政を耐え抜いた不屈の反体制ヒーローみたいに受容されているソルジェニーツィンですが、グロイスに言わせると(そもそも存在したのかもわからない)失われたロシアの全体性を取り戻そうとあがく、頑迷な保守主義者にすぎないからです。東ベルリン出身で都会っ子のグロイスからすると、田舎者が「ロシアの魂」とか言い出してなんなん? ってことなのかもしれません。

江永 たしかに、例えば『イワン デニーソヴィチの一日』を書くソルジェニーツィンと、『青い脂』を書くソローキンとが同じ意味で反体制かといったら、違う感じはします。

ジョージ ちなみに、本作の邦題に入っている「全体芸術」という言葉ですが、おそらく原題の『Gesamtkunstwerk Stalin』の「Gesamtkunstwerk」を翻訳したものでしょう。「Gesamtkunstwerk」というのはワーグナーが自分の理想とする作品を名指すために用いた言葉で、一般的には「綜合芸術」や「総合芸術作品」と訳されるものです。だから原題を直訳すると『総合芸術作品スターリン』となるわけですね。おそらくスターリン体制下の全体主義芸術と連想が働くように「全体芸術」と訳したのだと思います。
 ワーグナーのいう「総合芸術」とは、音楽・詩(台本)・踊りなど、作品内のすべての要素が有機的に絡みあっているような芸術のことです。音楽や台本が作品内で孤立してしまい、バラバラになっている当時のオペラ作品などにワーグナーは苛ら立っていたんですね。そしてワーグナーは近代の行き過ぎた個人主義と、要素がバラバラになっているような芸術のことを、どちらも近代のエゴイズムの産物だと見なしていました。ワーグナーについて語るとき、作品内におけるすべての要素が溶け合っていることによって生まれる陶酔感と、その作品を需要する観客同士が感じる溶け合うような陶酔感、2つ陶酔感が語られますよね。じっさいそれらはワーグナー自身が意図していたことで、個々バラバラになってしまった近代人たちを、自らの作品によって一つに溶け合わせることで、かつての全体性ある芸術的生を取り戻そうとしました。こうしたワーグナーの構想は、のちのニーチェによる「明晰なアポロン的なものからデュオニソス的な陶酔へ」という図式に大きな影響を与えることになります。ちなみに、ワーグナーもニーチェと同よう芸術の範例をギリシア悲劇に見ています。

 こう見てみると、ワーグナーの「個から全体へ、そして芸術的な生へ」という枠組みは、ロシア・アヴァンギャルや全体主義芸術による「芸術から生の全体的な創造へ」という枠組みともすごく近く思えますね。スターリンもワーグナーも、「生活をまるごと創り出す自由な創造者」たろうとしたという意味では、どちらも「全体芸術」を志向していた、ということでしょうか。そう考えると、「Gesamtkunstwerk」を「全体芸術」と訳した『全体芸術様式スターリン』、いいタイトルですね。もう一つの全体主義国家であるナチスドイツがワーグナーの影響下にあったことを考えると余計に。

江永 ワーグナーだと『ニュルンベルクのマイスタージンガー』を、思い出します。白状すると、最初に読んだライトノベルが上遠野浩平のブギーポップシリーズで、メインキャラのブギーポップが、口笛で『ニュルンベルクのマイスタージンガー』を吹きながら登場する、って設定だったので。
 また高山明の演劇論『テアトロン』のなかでワーグナーの話がかなり紙幅を割かれていて(というか締めの話が高山明/Port Bの公演『ワーグナー・プロジェクト』の話だったんですが)、印象深かったです。

ジョージ 「個から全体へ、そして芸術的な生へ」という枠組みについて語るとき、ワーグナーがコミュニストという単語を使っていることも興味深い点です。彼はマルクスを読んでいたわけではありませんが、社会主義者・アナキストであるプルードンから強い影響を受けていましたし、革命家のバクーニンとは個人的な親交もありました。そしてなにより、「総合芸術」を構想していたころのワーグナーは、マルクスと同様、フォイエルバッハの強い影響下にあったんですね。当該箇所を引用してみましょう。

いまや彼がなおも求めるのは、ひとえに共同普遍的なるもの、真実なるもの、制約されざるものである。つまり、あれやこれやの対象への愛ではなく、愛そのものに自己自身を投入することである。こうして、エゴイストはコミュニストとなり、単独者は万人に、人間は神に、芸術の種類は芸術そのものになる。
(ワーグナー『友人たちへの伝言』所収「未来の芸術作品」より。93頁)

 ワーグナーの革命的芸術構想において、コミュニズム(共産主義)からスターリニズムまでの線がすでに引かれていたのかもしれない、なんて言いたくなっちゃいますよね。

ロシア・アヴァンギャルドはオーパーツか踏み台か(「第1章」+「第2章」)

江永 ここは、まずロシア・アヴァンギャルドに関する通説をひっくり返すってのが大筋ですよね。
ジョージ そこで、イントロダクションで言及したマレーヴィチの『黒い正方形』の話が冒頭で出てきます。第1章はマレーヴィチだけでなくロトチェンコ等のロシア構成主義者たちなど、日本でもある程度知名度のある作家や作品が出てくるので、ちょっとは親しみやすい内容なのかなと思います。ちなみにマレーヴィチって美大ではどんな感じで習うんですか?

マレーヴィチ

マレーヴィチ『黒い正方形』。1915年開催の「0.10」展で発表。その後、3度、同じものが描きなおされている。黒い面がビキビキになってるが、後年発表された他の3バージョンでは、黒がベタ塗りに近い形で残っている。

清水 正直、習った記憶があんまりないです。
林 個人で影響を受けた人は今も昔も見かけます。関西の卒展とかで。
清水 自分の居た地域だと、写実系のひとが多くて、だから触れるのもそういうのが多かったです。
江永 アートシーンはローカルに流派と言うか、何に影響受けるかが分かれている感じなんでしょうか。
 古いですが東京だとネオダダ、関西だと具体美術協会、九州だと九州派みたいな感じで分かれていますね。今だと美大の影響があるのかアートシーンが各地方でくっきり分かれていますね。SNSで主にお互いを観測しあっている状況だと見ています。そのせいか、SNS上で観測できないとその地方にはシーンがないように見えてしまっているのが現状です。

ジョージ なるほど。この作品は、伝統的な絵画であれば本来何らかの対象=像が書き込まれるべき場所に、黒い正方形だけが書き込まれているわけですよね。要するにマレーヴィチは、絵画から具象的内容を消し去ることで伝統を否定しつくそうとしたわけです。
 そして、すべてをさら地にした上に新たなユートピアを築き上げるという、のちの全体主義ないしスターリニズムにつらなるような志向が、アヴァンギャルドの端緒であり極北でもあるマレーヴィチにおいてすでに胚胎されていたんだ、ってのが第1章の内容ですよね。
 で、ロシア・アヴァンギャルをひっくり返すという話だけど、そもそもマレーヴィチなんかは、西側のアートシーンからもモダニズム芸術の一つの極のように思われていたんですよね。
 モダニズムとは何なのかというのを、アメリカの美術批評家クレメント・グリーンバーグの理論に則って簡単に振り返ってみましょう。グリーンバーグは20世紀の批評的言説でヘゲモニーを握っていた人物ですね。
 かつて芸術は、基本的にすべて再現芸術だったわけです。世界は偉大なる神によって作られたため、その偉大な世界を絵画やその他の手段によって写し取ることに専心することが芸術家の目的だったわけです。グロイスの記述を借りるなら、

画家がその持って生まれた芸術的天分を神々しいものに可能なかぎり近づけようと望むなら、彼は神に学ぶ以外になかった。一九世紀に入り、技術がヨーロッパの生を浸食し、一貫性のある慣れ親しんだ世界像を分解していくにつれて、神の死(正しくいえば、技術化された新しい人間による)が経験されるようになっていった。
(『全体芸術様式スターリン』35頁)

 そのため、現代の芸術家はしだいに世界を写しとることを放棄することになります。もちろんカメラなどの発明によって、世界を写しとるだけなら写真でもいいじゃん! ってみんなが思い始めたということもあると思いますが。
 まぁとにかく、たとえば絵画であれば、他の媒体では表現できない、絵画にだけ可能な表現を追求することが現代の芸術家の使命だ! ということになります。それぞれの媒体における固有の原理を追求すべしという、こうしたモダニズムの原則のことをグリーンバーグは「媒体固有性(メディウム・スペシフィシティ)」と呼んだりしていますね。
 この原理を追求するためには、絵画以外の方法でも表現可能な内容は、事前にすべて捨て去る必要があります。たとえば、物語的な内容であれば小説や映画などの絵画以外の媒体でも表現できます。だから絵画から物語的な内容を廃しよう。また、3次元的な物体であれば、彫刻でも表現可能ですよね。よって3次元的な再現、つまり具象を目指す必要がないので、作品はどんどん抽象性を増していきます。そして最終的に残される絵画の絵画性とは、それが平面であることを隠さないような作品になるに違いない、ということになります。というのも、絵画から絵画以外でも表現できる内容を締め出した結果最後に残るのは、それが「四角いキャンヴァスに描かれている」という事実だけになるから、というのがグリーンバーグのモダニズム絵画論です。たとえばポロックの抽象表現主義などがその典型ですね。またグリーンバーグの立場は、描かれている内容でなくその形式を重視するということで「形式主義(フォルマリズム)」と呼ばれたりもします。

ポロック

ジャクソン・ポロック『Number 1(ラベンダー・ミスト)』1950年。グリーンバーグは、ポロックの絵画には塗料が具体的な像を結ばずにキャンバス一面を覆うという「オールオーヴァー性alloverness」を感ずるとも評した。

 そして、冒頭で触れたマレーヴィチの『黒い正方形』で描かれているのは単なる黒い四角形なわけで、それが四角いキャンヴァスであることを隠そうともしていませんよね。だから、マレーヴィチは西側のアートシーンの基準と照らしても、アヴァンギャルド芸術・モダニズム芸術の精髄のように思われていた。グリーンバーグにはその名もずばり「アヴァンギャルドとキッチュ」という文章がありますが、そこで媒体固有性を追求しているアヴァンギャルドの成果としてグリーンバーグが称揚しているのが、カンディンスキーなどの平面的な抽象画等です。そして、キッチュ、俗悪なものとしてやり玉に上げられているのが、社会主義リアリズムの絵画などなんですね。グロイスはこうした西側から見たロシア・アヴァンギャルド観をひっくり返すために、アヴァンギャルドから社会主義リアリズムまでが地続きであることを明らかにしようとしているわけです。

江永 ロシア・フォルマリズムというと劇作家ブレヒトが使う「異化効果」の元になるアイディアを出した(例えば描写を引き伸ばしたりして普段通りでない知覚を体験させるというような意味で「異化」を論じた)文学理論家シクロフスキーとかを私は思い出すんですけど、ここの記述、視覚芸術の一環に文学も含まれていて、なるほど感があります。現代日本でもコンクリートポエトリー系の作品はいろいろありますが、散文とりわけ小説と視覚芸術って、あんまり地続きだと思われていない感じがするので(もちろん、なろう作品やボカロ作品など、メディア横断的に物語が享受されるものも色々あります)。
清水 この本だと、いわゆるアートっぽい詩とかだけでなくドストエフスキーとかも同列に出てくる。そういえば超意味詩ザーウミって出てきたと思うんですけど、詩の話みたいだし、翻訳なのでピンとこなかったところもあると思うんですけど、これ、どんなやつなんですか?
ジョージ たまに江永さんがする変なツイートみたいなやつです。

ワワはいくワらいラ止らりりせしせワれかサわたな霊はオしとうクす走す走走くたクなるらな!はままえでつバわ感ク止らいク止まらいく止止のわてもれわ腸たスるそたがなんけがお、ワワワいワないワ止ら止はせワまりクわ語いたみくもごれだすワラいワ止ら水つイたこつワいワワラいは。りたりりシタすワセ
https://twitter.com/nema_to_morph_a/status/1347877930790121472

 日常的な言語使用においては、ことばの意味(内容)伝達の側面が優位になっていますよね。超意味詩は、言語を何かを伝えるための手段ではなく、ことばそれ自体が目的になるような詩を志向しています。そのためには、日常的な言語使用によって覆い隠されていることばの非意味的側面、具体的には音声的・音響的な側面を強調することになります。意味を超えているから超意味詩って呼ばれるわけです。詩の内容よりもその形式(音など)重視しているので、こちらもフォルマリズムという、アヴァンギャルドの条件を満たしていますよね。ことばから慣れ親しんでいる側面をはぎ取り、異質性を際立たせるという意味ではシクロフスキー的な「異化作用」も備わっていそうですよね。

フレーブニコフの言語作品は、内容を伴なった古典的な詩などに秘められている、話しことばの響きの側面を裸出させた作品として了解しえた。この理論は、芸術形式ををつねに更新し、芸術をつねに「異化」し「転位」することによってそれを異様な目新しいものにし、鑑賞者に与える芸術の作用をよりいっそう衝撃的なものにすることをねらっていた。
(『全体芸術様式スターリン』84頁、引用太字は原文傍点)

江永 ザーウミは、ナンセンスをつくろうとかいう次元でなく、既存の文法から言葉を解放して超意味を顕現させるんだ的な情念の強さがあって、圧倒されます。その観点で言えば言語実験というより、ある種、宗教における言語の扱いに近い気もしています。浅知恵で、信仰に内在するのとは別の視点で言いますが、例えば専修念仏ってあるキャラクターを思い浮かべることだし、唱題行はあるブックタイトルを唱えることですよね、しかもいずれにせよ初期仏教コミュニティとはかなり毛色の異なるグループ、コンテンツに根差しているはずです。でもそのキャラクターなりタイトルなりで、救済なり真理なりに到達するとにされており、そこにはマジな念が込められているわけで。ロシア・アヴァンギャルドもそういうマジ感がありますよね。それこそマレーヴィチも、窮屈な伝達手段以上のものとして色と形で戯れていこうとかでは全然なく、自分のこの創作によって歴史を終わらせるんだみたいなマジ感がある。(無)意味というものの重みが、すごい。もしかすると、祝詞とか呪言とかと引き比べるべきなのかもしれないとすら、自分は思います。

ジョージ ロシアは伝統的にかなり文学至上主義なんですよね。3章で詳細に論じられている作家、イリヤ・カバコフとかも図面とテクストのどちらが主で従かわからない。じっさい社会主義リアリズムも、最初に範例とされていたのは文学みたいです。

スターリンは社会主義リアリズムをソヴィエト芸術全体に必須のスローガンとして承認し、標榜した。そこで考慮されていたのはなによりもまず文学であり(中略)その後、社会主義リアリズムの方法はそのままなんの変更もなく文学以外の芸術分野にも適用されていった。
(『全体芸術様式スターリン』72頁、引用太字は原文傍点)

 ロシア・アヴァンギャルドや社会主義リアリズムだけでなく、モスクワ・コンセプチュアリズムにしても小説家のソローキンや批評家のグロイスがいたわけで、文学運動と芸術運動の距離が近いですよね。そもそも、モスクワ・コンセプチュアリズムの命名者はグロイスだそうですし。

清水 現代日本だと文学運動と芸術運動の距離はどんな感じなんだろう。
江永 最近だと、ゲームや写真、ブックデザインなどと、詩歌小説演劇などの交流をつくりだしている、いぬのせなか座みたいなグループもあります(制作と経営・経済のテーマでも問題提起や試行錯誤をしていて、アクチュアリティある実践をしているグループだと思います)。
 
 スターリンとの関係で言えば、アヴァンギャルドを代表する詩人、マヤコフスキーの人生が面白かったです。死因が他殺か自殺かまだわかってないみたいで。自殺するのは不可能な角度で拳銃が握られていたみたいで。小笠原豊樹さんの『マヤコフスキー事件』に、ポロンスカヤの回想記にてマヤコフスキーのことを詳しく語っていました。とても良かったです。
清水 マヤコフスキーは作品もとがってて、いいですね。
 マヤコフスキーの葬儀にはたくさんの人が参列したみたいですね。そしてなぜか死後、マヤコフスキーはスターリンにとても気に入られてしまったようです。スターリンにどこまで美的なものを評価する感覚があったのか謎ではありますが。
ジョージ むしろ、美的感覚が欠けていたからこそ既存の「美」を無化しようとしたアヴァンギャルドの衝動と合流できたという側面もあると思う。
清水 アヴァンギャルド側もスターリンや党を利用しようとしていたところはありますよね。
ジョージ 当初アヴァンギャルド側は芸術の素養のないスターリンや党を利用するつもりだったんですが、すでに国家建設に着手していたスターリンに思い上がりはなはだしいとして排除されちゃうんですね。
江永 レーニンは、その意味で言えば、"素養がある"人物だったわけですね。例えばレーニンが愛好したのはベートーベンのピアノソナタ23番『熱情(アパショナータ)』で、文化に関しては反前衛とまで言わないにせよ、漸進的改良主義だった。トロツキーも、そう言えそう。文化の改良は考えているけれど、ダンテやシェイクスピアなどの古典も擁護する。その意味で、旧い文化は即刻全て廃棄する、みたいなところまで過激になるわけではない。
ジョージ レーニンやトロツキーと違って非常に趣味の悪かったスターリンこそが、アヴァンギャルドを完成することに成功したんだ、というのがこの本の主な主張ですからね。

清水 活動って意味だと、レフ(芸術左翼戦線)も面白いですね。
ジョージ いちいちコレクティブというか、徒党を組むのがおもしろいよね。
清水 私はアーティスト・イン・レジデンスっていう、海外に短期滞在して作品を制作するプログラムで、インドネシアの都市ジョグシャカルタに滞在していたことがあるんですけど、政治と芸術の距離感が日本よりずっと近かったのが印象的だったんですよね。
 美術自体が反政府的な運動とつながってて。インドネシアってムスリムが人口統計的に多数派なんですけど、宗教政策的にもイスラム教をナショナリズムと結びつけてそれで国を統一しようとしているみたいで。それで美術が、それに抵抗したりしています。
江永 確認しておくと、インドネシアは地域的に長らくイスラム教がほかの諸宗教とともに根付いていたわけですが、1998年まで30年ほどスハルト大統領を中心とした開発独裁体制が続き、そこではイスラム教が弾圧されていた。で、スハルト体制以後は民主化や自由化が進んだとされる一方で、イスラム至上主義というか、排他的な原理主義、また保守派のような動きも強まってきて、場所によっては宗教的多元主義を否定するような勢力が強かったりするらしい。なお、アジア経済研究所のWEBマガジン『IDEスクエア』で2019年のインドネシア大統領選の特集が組まれてまして、例えば川村晃一「インドネシア大統領選をどう見るか」や茅根由佳「大統領選挙におけるイスラーム主義指導者の「闘争」」などの記事を読むと、このあたりの雰囲気が把握できるように思います。

「至高」から「歴史の終わり」へ(「第2章」)

ジョージ 話をもどしますが、伝統を無化する特別な任務をになっていると自任しているアヴァンギャルディストたち自身こそが、じつは最も伝統に依存していたことが指摘されています。

アヴァンギャルドは、イーゼル造形絵画の時代の後にまったく新しい芸術の時代が到来するのだと声高らかに宣言してはいた。しかしその実、みずからの作品を伝統的な作品とひき較べ、そうすることでまた自分たちの出現によってすでに終焉を迎えた当の芸術史に自分たちを組み込んでもいたのだ。アヴァンギャルドの還元主義は、伝統を拒否してゼロから始めようとする志向に発するものだったが、この「拒否」が意味を持つのは、伝統がまだ生き長らえてアヴァンギャルドの背景をなしているかぎりにおいてなのだ。
(『全体芸術様式スターリン』80~81頁)

江永 「さら地にするぞ!」って主張していた人は、さら地になった後だと邪魔になるんですね。

マレーヴィチ2

マレーヴィチ『白の上の白』1918年

ジョージ しかも、「すべてがさら地になった」という認識は、革命後のロシアにおいてはアヴァンギャルドによる特権的な認識などではもはやなく、すでにロシアの民衆にとっても自明なものになっていたんですね。グロイスの記述がすばらしいので見てみましょう。ここで「ゼロ状態」と呼ばれているものが、さら地のことです。

マレーヴィチにとってそうした絶対的なゼロ状態への到達はいまだ芸術的想像の域を出ることはなかったが、一九一七年の十月革命と内戦の最初の二年間がすぎた時点では、ロシアのアヴァンギャルディストのみならず、事実上かつてのロシア帝国のすべての住人が、現実にこのゼロ地点がやってきたと考えた。それもまったく無理ならぬことだった。ロシアは完全に崩壊し、日常の暮らしは壊滅し、住居は生活の役に立たず、経済はほとんど原始段階に引き戻され、伝統的、社会的な暮らしはばらばらになり、生活はしだいに万人の万人に対する闘争の様相を呈しつつあった。
(『全体芸術様式スターリン』45~46頁)

清水 すべてを無化すると言って居たけど、けっきょくマレーヴィチらアヴァンギャルディストたちはスターリンに排除されちゃうわけですよね。

江永 荒っぽく言うと、ほんとうに過去をゼロにするんなら、(否定するという形で)過去を引きずる自分たちも消し去れ、と外野から迫られてしまうわけですね。
ジョージ そのことが描かれている第1章の最後の記述も本当にノリノリで最高ですよね。

だが、マレーヴィチが自分の芸術を「至高主義スプレマティズム」と呼んでいること自体にすでに、マレーヴィチが他の作家に関して批判した<完全>という理念への志向に彼自身もけっして無縁ではなかったことが表れている。アヴァンギャルドの凋落は、芸術家を観照者ではなくデミウルゴスという支配者にしたマレーヴィチ自身によってあらかじめ仕組まれていたものだった。(中略)その意味でマレーヴィチの立場はまことに「至高」であった。というのもマレーヴィチの立場は、被造物によせる創造主の信頼が、最高点をマークしたものだったからだ。だがこの最高点は瞬間のものでしかなく、「新しくも神秘的な啓示」という真理に浴することを「過去の遺物」によって妨げられている人びとに対しても「旧習の暴力的再建」が適用されはじめた。
(『全体芸術様式スターリン』65頁。英訳を参照して一部訳文改変)

マレーヴィチは後続の構成主義者たちとは違い、積極的に政治に関わることはありませんでしたが、自らを「至高」と呼んでいる時点で、「歴史の終わり」を宣言する特別な役割を自任しているわけですね。その時点においては「歴史の終わり」を外側から眺めるためのメタレベルに立つことに成功しているわけですが、じっさいにスターリニズムという名の「歴史の終わり」が到来すると、メタレベルに立って「至高」ぶってるやつなんて邪魔者でしかないんですよ。だから、積極的に政治に関わりを持ち党の方針と競合しようとした構成主義者たちもろとも、歴史の闇に葬り去られてしまう。それも、自らが仕組んだプロジェクトの進行にしたがって、とグロイスは言うわけです。

江永 「歴史の終わり」の終わり、みたいなフレーズが頭にうかんできました。ここではロシア・アヴァンギャルドを、ある種の終末論者として扱っていると言えそうですね。ロシア宇宙主義者は不死の達成や死者の復活といった形で、やがてくる遠い未来、つまり終末のことを考えていた。ロシア・アヴァンギャルドの人々は、自分たちの作品を現在進行形の終末の体現だとみなし、到来する終末そのものだと自らをもって任じた(「絶対的なゼロ状態への到達」)。その後には、もはや了解済みの終末(「新しくも神秘的な啓示」)を生きる中で、応答すべき歴史なんか知らない人々の、どこか車輪の再発明めいてもいる"サンプリング"活動が始まる(社会主義リアリズム)。

ジョージ さて、第2章ではとうとう本書の主人公であるスターリンが登場します。この本の白眉と言ってもいいでしょう。

to be continued...

[了]

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