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イリヤ・カバコフ、ボリス・グロイス『ダイアローグ』


 ここに訳出したのは、1990年代に美術批評家のボリス・グロイスと芸術家のイリヤ・カバコフによって行われた「ゴミ」をテーマにした「対話」である。カバコフ作品は世界中の現代美術館に収蔵され、ビエンナーレなどのフェスティバルに頻繁に登場する。スケールの大きい「トータル・インスタレーション」で見る者を圧倒するが、それを命名し、作品の意義を評価したのはグロイスだった。
 ソ連崩壊後に行われたこの対話では、現代美術におけるコレクションの選別基準、生と芸術の区別、美術館の役割といった問題がすでに語られている。それらは近年のグロイスの著作『流れの中で インターネット時代のアート』にも頻出するテーマである。
 ソヴィエト時代のロシアでは公式の芸術に満足できない芸術家たちが、地下や屋根裏部屋にアトリエを構えて密かに活動していた。彼らは仲間同士で集まり、芸術や哲学について語り合い、お互いの作品を批評し合っていた。カバコフとグロイスの対話も、そのようなアンダーグラウンドでの芸術家たちの活動の延長にある。さらにこの対話からは、「東側」で芸術活動をしていたグロイスや、カバコフら作家たちが、「西側」の芸術をめぐる制度に対して批判的な視座を培った背景を読み取ることもできる。
 モスクワコンセプチュアリズムを中心とするソヴィエト非公式芸術の特徴は、社会体制を批判はするものの、そこからは逃れられず、自分自身もまたそのような体制の一部であり、それに依存して生きているというのではないか、という批判的意識にある。それは体制に正面から抵抗するカウンター・カルチャーではなく、体制から逃れ、距離を取ることのできる余白を探る試みであった。このようなソヴィエト非公式芸術家たちの態度は、現代美術においても特異であり、現在でも注目に値するものではないかと、訳者には思われる。
 ソヴィエトの日常はゴミだらけであり、ソヴィエトそのものがゴミであり、でも西側の「アート」の文脈ではそんなゴミに価値があり、自分自身もゴミだというカバコフの見解は、つい笑ってしまうが、上記に記した独特の批判的意識の表れでもある。カバコフは好きな作家としてゴーゴリをあげている。まるでカバコフ自身がゴーゴリ作品に登場する滑稽さと悲しみをたたえた「小さな人間」の一人のようだ。この点でカバコフは、意外にも、ロシア文学の伝統の継承者でもある。

「ゴミ」
イリヤ・カバコフ、ボリス・グロイス『ダイアローグ』(ヴォログダ、2010年)より
Кабаков И. И., Гройс Б. Е. Мусор // Диалоги. Вологда: Библиотека московского концептуализма Германа Титова, 2010.

グロイス:この生活のくだらないものを、きみはいつだったか不滅の光で照らして一掃しようとしたけれども、1970年代にはきみの芸術的関心の中心になったよね。きみはそれらをゴミとしての総体として明確にしている。20世紀の多くの芸術家たちがゴミで制作し、あるときあらゆるギャラリーや美術館をゴミで埋め尽くした。でもきみのゴミは独特だ。カタログ化されていて、コメントがつけられ、整理されている。これはもはやそれ自体が、カバコフによって研究された文化人類学や民俗学博物館の展示なんだ。

カバコフ:ゴミはぼくにとって三つの意味を持っている。第一に、これはソヴィエトの現実の的確なイメージだ。その現実全体が一つの大きなゴミの塊なんだ。
 第二に、ゴミはぼくにとっては思い出のアーカイヴなんだ。なぜならば、あらゆる捨てられたものは、特定の人生のエピソードと常に結びついているからね。
 そして第三に、ゴミはぼくにとっては、無教養で、形が完成しておらず、無計画で無秩序として特徴づけられる、われわれの文化全体なんだ。

グロイス:ところでぼくはゴミについて、そして現代美術でゴミがどのような役割を果たしているかをかなりたくさん考えてきた。ゴミを散らかすという行為そのものは聖なる犠牲への示唆を秘めている。ただなんでもないものとしてわれわれが拒絶するものは全て、犠牲とみなせるからだ。ゴミは、市場のルールの例外である唯一のものであり、ただ世界空間へと譲渡されている。さらに、ゴミは有用性がなく、それゆえ芸術を想起させる。
 実際ちょうど現代では、エコロジー運動のおかげで、ゴミはふたたび経済システムの中に統合される。エコロジー運動は言葉の上では手つかずの自然を好むけれど、実際はとりわけゴミに関する活動を行なっている。こうしてゴミは交換サイクルの中に入り、芸術にとっては失われる。とはいえ、おそらくまさに芸術家たちは、ゴミを美的に加工することによって技術的に作りなおす道を開いたんだ。

カバコフ:われわれのあらゆる生活実践は、住む場所を清掃し、ゴミをはじや隅っこに動かすという考えと結びついている。われわれは絶えずゴミをかき分け、われわれが生存するための場所をきれいにする。もしそうしなければ、そこは再びゴミで埋まる。これはまるで「永久運動」だ。でも清潔さが最後に勝利することは決してない。汚れとゴミがわれわれの生活の不滅の事実として留まり続けるんだ。これはとりわけわれわれのロシアの生活に特徴的なんだ。
 もしあらゆるものがゴミに変わり、どんな意味一般も整理されず、構築されない限り、われわれの所ではゴミは存在そのものと同義なんだ。われわれの生活のイメージは、ぼくにとってはかき分けられない巨大なゴミの塊に思える。

グロイス:でも、きみが制作に使うゴミは、いつも厳密に構築されて整っているよね。そしていつもきみの個人的なゴミであって、ゴミ一般じゃない。

カバコフ:このわれわれロシアの帝国的な意識————つまりあらゆるものについてそれぞれ考えること————の産物は、ゴミでありガラクタなんだ。でもこのあらゆるガラクタは、研究され、番号をつけられなければならない。人間も含めてすべてに対し倉庫では番号が与えられている。カオスは秩序化される。絶え間ないカオスとゴミは、同時に絶え間ない秩序に相当する。
ゴミがいつも自分のゴミであるということに関してだけれど、ここではぼくによって基本的な人物、つまりゴミ人間が創造されている。その人物はゴミを全て集め、思い出を記したカードをつける。自分の人生、自分の歴史を理解しようとする試みは、決して自分の人生において重要なこと、存在の重要な目的を選び出すことにはならない。あらゆるガラクタと結びついた様々な意識の閃きが残るだけなんだ。そしてそれらもまた、これらすべての様々な種類の思い出を秩序立て、番号付けることができる大量のストックを形成しているんだ。

グロイス:きみのゴミのコレクションは美術館のコレクションを思い出させるよね。現代美術館もまたなんらかのよくわからない物体のコレクションだ。それらはなぜそこにあるのか明らかでないし、なんのためにそこに保管されているのかわからない。それらは明らかに、美術館の訪問者には理解できない、なんらかの魔術的な秘密の手段でそこに保存される許可を受けたんだ。それは神秘をもって保存される前に宗教的な興奮の中に存在しているだけだ。疑わしい事物を集めても、それらは決して美術館の中には入らないし、保管もされないだろう。

カバコフ:もちろん、きみは絶対的に正しい。それは世界の残滓ための小さな美術館のようだ。そこでは自分自身のためではなく、訪問者のために蒐集が行われる。そして、もしかしたら、検査官や管理人のためにさえ蒐集されているのかもしれない。彼はぼくがある日に何をしたか報告を求める。すると、それに相当する記録が入っている18番目のファイルが開かれる。それは何か自分自身の摘発、懺悔のようなものだ。検査官は観客とは全く別物だ。観客はうっとりして、驚き、こういうに違いない。「ああ、これは本当に感動的だ」。しかし検査官は事態の美的な側面には興味がなく、これによって隠されていることすべてに興味を持っている。
 しばしば、市場や古物市に人々が立って、鉄のかけらのようなあらゆるガラクタを売っているのを見ることがある。するといつも疑問が生じる。これらのゴミに誰が関心を持つのか?これは誰にとって必要なのか?おまけに人々が、まさにそういったゴミの隣に座っている。すべてを並べ、そして待っている。これは全く非合理的な身振りではないか?すると誰かが近づいて関心を示す。そして尋ねる「この鉄のかけらは何ですか?サモワールのかけらですか?」彼に答える。「はい、サモワールのかけらです。マリヤ・ワシリエヴナが誕生日に私に持ってきてくれたんです。」

グロイス:きみのゴミのプライベート・ミュージアムは、たぶん、ソヴィエト連邦に現代美術館が存在しないことに対するリアクションなんだろう。そして、ゴミのための美術館はあってもきみのゴミはそこにはない、西側に対するリアクションでもある(ちょうど今、きみのゴミはそこに現れ始めたところだ)。
 別の側面では、価値あるものと価値のないものの間の境界を取り除くことは、現代美術の教えであり、客観的にはどんなものでも捨てることは不可能だということになる。アヴァンギャルドが美術館の芸術の価値を否定しはじめた時代、彼らは、美術館の事物を生活の事物と比較するために美術館を破壊することを要求した。しかし、アヴァンギャルドそのものが美術館に入った今となっては、生活のゴミ全てが美術館に入るという真逆の傾向が現れた。次第に、われわれのすべての生活は「美術館化される」。世界が、知らない全ての訪問者のための美術館に変わる。何も消滅させてはならず、捨ててはならない。あらゆる破壊は、この極めて神秘的な訪問者の神聖な権利を破壊する、神聖冒涜として受けとめられる。何かを破壊し、消滅させることの不可能性に対する、堪え難い恐怖症が生じる。
かつては教会で何かのフレスコ画が時代遅れになったり、単に好まれなくなったり、古びても、それは修復されず、洗い流されたり手を入れられたりした。同じく、聖堂は簡単に破壊され、その場所に新しいものが建てられた。今では、そのようなことは野蛮な行為とみなされ、ひどい非難が起こる。かつては魂は不死と考えられていて、おのずから神の審査に到達しうると考えられていた。今では、あらゆる証言、証拠、資料を集めて保管しなければならない。しかしこれはわれわれの世界においては、いずれにせよ不可能な仕事だと分かりきっている。

カバコフ:そのようなゴミの美術館を創設することはアンビバレントだ。それはある部分では、保存という概念そのものを笑うためのたんなる陽気な冗談なんだ。ぼくはこれは全くのガラクタだと知っているからね。ここには純粋な形での芸術的イヴェントの場がある。ぼくはそれをあなたたちが片付けるためだけに配置したんだ。つまり、私はちっとも真剣ではないんだ。
 ぼくの意見では、ぼくのゴミの美術館は、今日の、価値あるものと価値のないものの間のそのような遊戯の理想的なモデルなんだ。そこには、例えば水道の栓のような醜悪な物体が展示されている。でもぼくの美術館で重要なのは、栓のコレクションにあるのではなく、栓一つ一つにラベル、つまり説明がついていることにあるんだ。そこには言葉とイメージ、もしくはテキストと絵画の場合におけるのと同様の問題がある。つまり、鑑賞者は物を見て、ガラクタを目にする。その時鑑賞者は考える。よし、そこに何が書いてあるか読んでやろう。なぜこれが展示されているのかきっとわかるだろう。けれども、この栓は純金でできているとか、レーニンの書斎から取られたということを伝える代わりに、そこには、ボトルを買いに行くフョードル・イワノヴィチと散歩していたときにぼくがこの栓を道で見つけたことが書かれている。すると鑑賞者は、この物の価値が特定の思い出によって決定されていると理解する。けれども思い出そのものがガラクタなんだ!ガラクタの上の、あるガラクタという積み重ねがあるだけさ。
 人は、ゴミ箱の近くに立ち、手に物を持って、捨てるべきかとっておくべきか考え、ためらうことがよくある。この引き伸ばされた短い時間、ためらいの瞬間が僕の興味をひく。この瞬間捨てるか残すかのチャンスはほぼ同等だ。残すか、捨てるかの揺らぎはね。。。

グロイス:つまり記憶と忘却の間ということだね。そしてこれはどうしても決して退けることはできない決定的な死の神秘だ。

カバコフ:そう、怪奇だ。消滅の怪奇。生そのものが消滅の怪奇なんじゃないかな?この血の繋がりのない物に関してためらう瞬間に、ぼくは半分神として、それの運命を決定する。そしてぼくは自分の運命を決める。ぼくは思い出がぼくの机の引き出しの中で生き続けることを決めることができるし、それを汚水の桶の中に入れて運び出し、消すこともできる。ぼくはこの物の主人だけれども、この物に美術館で生を与え、永遠もしくは反対に死を贈る出来事の奴隷でもある。

グロイス:今日、われわれは保存か廃棄かのあらゆる基準を欠いている。

カバコフ:これはまさに現代美術館だ。

グロイス:そう、これはまさに現代美術館だ。実際に、現代美術館ではわれわれは、これらを全てコレクションし保管するという決定が、決定的に根拠がなく、理解できないということを前にし、ある神秘的な動揺を経験する。想起し鑑賞するための何らかの合理的な土台を欠いていることを前にした動揺。通常芸術家自身が口実にする、お金、事情、コネクションすら実際のところ全く説明にならない。
 一体それは何なのか?ニヒリスティックな絶対的な無根拠なのか、あるいはわれわれの脇に突きつけられ、何らかの決まった選択をするよう迫る、ある共感と繋がりの隠された論理なのか?

カバコフ:いいや、どちらとも違うと思う。重要なのは、まさに選別の戦略だ。生か死かの選択は全く無根拠で、なんの動機もない。そしてこの意味で公平ではない。現実も芸術作品も、まさにこれらの不必要なもの、ロザリオみたいな選択と設定なんだ。コレクションの要点は、それが全てを保管していることではなく、常にそれらが全て遠くに捨てられる可能性を持っているということだ。全ての人生は「イェスとノー」のような決定の長い連なりなんだ。

グロイス:つまり、きみは破棄するか保管するかの決定は本質的にはドラマティックではないと言いたいのかい?

カバコフ:そう、その通り。

グロイス:その決定はあらゆる情熱を欠いている。なぜならばそれを消滅させるという決定は真の喪失だが、それほど価値があるものは何もないからだ。全ては等しく無価値で、そしてこの意味で相互に交換可能だ。生それ自体が廃棄を運命付けられたゴミなのだから、生か死かの選択は本質的には極めて些細なことだ。

カバコフ:そうだね、われわれの人生は空っぽの言葉と空っぽの文章で満たされているから、本質的に最も面白いこと、聴くことができるのは、この紙を選択あるいは破棄する、かさかさと鳴る音なんだ。そのような官僚的な紙の選択をあざ笑うこともできるけれど、実際にそれは現実に存在している唯一の仕事なんだ。

グロイス:きみのゴミのコレクションは、社会学的には1970年代から80年代のモスクワで唯一の現代美術館だった。現在ヨーロッパでは、現代美術館はキリスト教に代わる新たな信仰の聖堂だ。かつてキリスト教会そのものが異教の聖堂を統合したように、現在キリスト教会がますます美術館として機能しているのは偶然じゃない。現代美術館が宗教的機能を持つのは、人々は「理解できない」ため、秘密に参入するためにそこに行くからだ。それは「時代精神」の作用の秘密であって、それは、まさにこの事物をそれらと同じような大量のものから選別する動機には全くならない。これらの選別の前では、それを裏付けるものを選びながら、沈黙して崇拝していることしかできないんだ。
 きみのゴミのコレクションはモスクワの地下のようなところにあって、だからこそ、この新しい信仰の極めて禁欲的な聖堂だったんだ。

カバコフ:スレチェンスキー通りの屋根裏部屋にずっと住んでいたぼくの芸術家としての運命は、人目に付くように展示されていて、ぼくにとっても他の人にとっても美術館として機能していた。モスクワに来た外国人にとっては、たとえば、あらゆるものは展示品だった。外国人は驚いて、モスクワの中心の素晴らしい家が、ゴミやいろいろなものの山に変えられている何らかの意味を探す。ソヴィエトの人間が私のところに訪れると、階段全体に汚水や他のものがかけられていて、通ることができずに、その人は恐怖を覚えるんだ。外国人にとってはこれは完全に美術館だった。それぞれの隅にゴミのバケツがあって、共同キッチンのドアの向こうからひどい叫び声がする、あのおぞましい階段を覚えているかい?それはそうと、外国人の多くは、これは芸術的効果のために私が自分で汚い水をかけ、箱や新聞や、臭いぼろを投げ捨てたと思っていたんだ。そのあと、訪問者が屋根裏部屋を歩き始めると、ただ大惨事や崩壊の中心にいるとわかるんだ。きみはそれを全部覚えているよね?そのあと、訪問者がこの地獄を全て通り抜けて、長い間ふいていない窓があって、またもやかなりゴミだらけの場所である、芸術家のアトリエにたどり着くと、訪問者はついに真の芸術作品を目にすることを期待する。そこで親切な芸術家は、異常な熱狂と笑みを顔に浮かべて、訪問者のために箱を開ける。するとそれには、すでにそれまでにモスクワの通りや階段で目にした同じゴミが詰まっているんだ。
 でも驚くべきことに、カタルシスが生じる。鑑賞者は自分が来るべき場所に来たことを理解し、実際に芸術を見せられていることを理解する。かつて起こったことは、いまやこの美術館に来るための前兆とみなされ、全ては選択、鑑賞、説明といった過程を通る儀式に変わる。これは、何を見せるかが重要ではなく、デモンストレーションの行為そのものが重要であることを幾度も証明しているんだ。

グロイス:そこでは芸術は、価値のないものを、独自の聖なる空間に変化させるメカニズムとして現れる。これによってものは価値を獲得する。かつてこのものは単に気にとめられなかったが、今ではそこに注目が集まり、ものは美化される。だから、訪問者がきみのところにやってくると、その人は階段のあらゆるその汚れを単なる邪魔なものと受け止めるけれど、きみのところから去るときには、それを壮大なインスタレーションとして知覚し始めるんだ。おまけに、きみの芸術作品であるゴミそのものも、でたらめではなく、それ自体に注目を集められるよう、組み合わされ、配置され、調整された特別なイメージなんだ。

カバコフ:一般的に、美学的なアクションは本来注目を集める行為だということができる。注目を集めるゲームは美術館で生じていることだ。

グロイス:かつては基本的に、すでに社会的に注目される範囲に存在するものが人に見せられていた。今では、それ自身では注意を引き付けないであろうものを見せる傾向にある。

カバコフ:おまけに、現代の知識を持った鑑賞者は、文化に関する手法、裏付け、基準などの既存の歴史についての膨大な知識の蓄積を記憶の中に持っていて、自分にとって新しい芸術作品を見ると、すぐさまこのすべての以前の歴史を想起し、この観点から評価する。偉大な芸術家によって釘にかけられた紐は、普通の人によって釘にかけられた紐とは区別される。なぜならば、後者はあらゆる文化史が考慮されていないからだ。これは二つの異なった釘と二つの異なった紐なんだ。ところで、これは、私もまた釘と紐を持っていて私にも同じようにそれらをかけることができるという、芸術家に対するありふれた異議の答えだ。芸術家は、知識のない一般の人間は持っていない、文化的経験に支えられている。

グロイス:そう、それはもちろん、芸術はわれわれの知覚の領域を広げると考えること、つまりリベラルな幻想だ。最初は風景が導入され、現在ではゴミが導入されている。こうして完全なヒューマニズムに至るまで、ひとりひとりの人間が芸術家に変わる。実際、芸術をゴミにまで拡大したことによって、われわれはもはや多くの風景画をキッチュとしての流行外れの、アクチュアルではないものと評価する。毎回新たに感覚を錯乱させることとは、単に何かあるものを見て取ることではなく、注意の領域から何か他のものを脱落させることなんだ。芸術はヒューマニズムによっては全く動かない。芸術はかなり厳しく、受容したものよりも、少なくとも多くのものを放棄する。こうしてきみのゴミのコレクションは誰か他の人に、何か別のコレクションを提供している。

カバコフ:そう、その後もっとラディカルな選別が生じるんだ。その弾圧をつうじて時間がこれらすべてのコレクションを認め、新しいコレクション、新しいゴミの山を形作るんだ。誰がこれらのコレクションの中にいるのかは、もっとも謎めいた疑問だ。

グロイス:きみはこの疑問を自分にとって重要だと考えているのかい?

カバコフ:うん。なぜならばこの疑問は不滅だからね。

グロイス:でも、きみは歴史的な不滅について真剣に取り組む力があるんじゃないのか?だってわれわれは、実際にどこかの小さな土地の上の虫のようなものだからね。これらのもの全ては、芸術作品と呼ばれていても、われわれと同じように死すべきものなんだ。これは全てモノ以上でないから、それらはどうせ絶対に滅びるんだ。どんなものでも不滅ではありえない。

カバコフ:そう、そのとおり。でもなんらかの象徴的な、トーテム的な不死は存在する。芸術家もしくは作家にとっての不死は、それでもやはりその人の作品が、美術館もしくは図書館の中に常に存在しているということだ。もちろん美術館は規範化されていない。一般的にたくさんの文化が美術館から放り出され、その後再びそこに戻った。でも、なんらかの超美術館的なもの、なんらかの一般的な歴史的記憶を補完するものはある。

グロイス:僕の意見では、それは単に幻想だ。幻想のような神の記憶は、たとえば、キリスト教信仰として理解される。それは地上に生れたどんな物質的プロセスにも依拠しない。同時に、芸術作品の保管は、それらの価値には無関心なプロセスに依拠している。たとえば、あるエジプトやギリシアの文書や芸術作品が保存されていたとしても、それらはその内容には全く関係がなく、偶然の理由で保管されていた。もしかしたら、ちょうどもっとも興味深く深いもの全てが消滅してしまっっていて、われわれがいつも感心しているもの全ては、たんにその時だけのバカバカしいものなのかもしれない。

カバコフ:もしかしたら、それはナイーヴさかもしれない。でも宗教の歴史以外にも、美の歴史があり、ある者は犠牲者と、そこに花を供え管理をする墓を受け入れた。もちろん、その間人類は生きているのだけれども。

グロイス:きみはそれは重要だと考えるのかい?

カバコフ:僕はそれは重要だと思うよ。それはある「生命の樹」、「幻想の樹」だけれども、それらの幻想はよくわからない理由で人々にとっては食用となり、不可欠でさえあるんだ。

グロイス:でもきみにとって人間以前というのは全般的にどんなものなんだ?しかも人間はみんなすぐには絶滅しないというのは事実ではない。

カバコフ:その問いには答えることができない、と言わなければならないね。なぜならばその問いは完全に論理的に与えられたものだからだ。私の血液循環システムや膀胱がどのように機能しているのか議論することができないのと同じだ。これは私の存在条件で、それらを議論することはできない。
 私はたんに「文化夫人」のようなもの、美術館、図書館、コンサートホール、そして文化を愛することができる個人に惚れ込んでいるだけだ。これはまるで、昔から宿無し子が、その向こうで人々が座って本を読んでいる、灯りの灯った窓を慕うようなものだ。それは、今まで私が持ち続けている子供の夢の領域に属することだ。

グロイス:西側では、そのような文化に対する態度はもはやどこにも残っていないと思うよ。そこでは文化は、いわゆる「生活の質」なんだ。つまり、それが私にとってたんに心地が良くて興味深いという理由で、まさにそのような成功と名声の形式に私が惹かれているという理由で、まさに私がそのような人々とそのように時間を過ごすのに満足を感じるからという理由で、もしくは私がたんに他のタイプの時間の過ごし方ができないという理由で、何らかの形の文化生活に参加する。いいかえれば、特別な超越的な迂回なしに、全ては生活実践として使い尽くされるんだ。

カバコフ:もちろん、文化の中で暮らしていれば、文化を愛することはできない。それは自明の理のようなものだ。それは若い頃の欲望と結婚のようなものだ。もしある時結婚を破棄しさえしなければ、結婚している人間は若い頃の欲望を思い出すことはもはやできない。これは「私と文化」の関係の優れたモデルにもなると思うよ。

グロイス:きみがソヴィエトのゴミに対して注意を向けるのは、まるで、文化とさらにもっと情熱的に結びつくために、一時的に結婚を中止するようなものだ。でもぼくには、部分的にはこの策略の意味は、孤立してではなく、きみを取り巻くものすべてと一緒に、きみのつながりすべてとともに文化の中に入っていくことにある気がしている。だからそこではゴミは、かつては触覚性(テクスチュアリティ)やモニュメント性という意味だったものの、たんなる別の名前なんだ。

カバコフ:もっとも。内臓全て、自分の汚れた下着全部と一緒に文化の中に入ってゆくという願望は、全く不安に思うことはない。そして、われわれは皆ソヴィエト連邦では、ゴミの中、別の文明の廃墟の中で暮らしている。われわれの文明は機能不全で醜い。国境を超えて運び込まれたものは全て、われわれのところでは機能しない。みんな故意に壊されていたり、何かが足りなかったりする。ゴミはそういう機能しない文明の優れたメタファーなんだ。

グロイス:でも重要なことは、ゴミでもゴミでなくても、機能しても機能しなくても、どんな違いがあるのか、ということだと思うよ。

カバコフ:その通り、実際にどんな違いがあるというんだ?なんの違もないね。ゴミの溜まった隅で暮らすのは暖かくて快適で、そこからは追い出されない。中心では追い出されるが、隅っこは静かだ。隅っこのボタンもタバコの吸い殻もまた、そんな静かな存在のメタファーなんだ。

グロイス:それはある意味社会経済的な隠れ穴だね。そこでは追い出されないから生きながらえることができる。

カバコフ:うん、僕自身が掃除されないゴミだよ。

グロイス:うん、非公式芸術全部がそんなもんだね。

カバコフ:とうぜん。

グロイス:それは長い間掃除されなければならなかったけれど、怠惰のせいで全く掃除されなかった。

カバコフ:もちろん。もし僕が優れた作家だったら、逮捕されて捨てられただろう。もし僕が良いモノだったら、僕は壊されて、捨てられただろう。僕はこんなだから、隅っこにいて、誰にも必要とされず、まあなんとかして無意味に生きて、生きながらえたんだよ。


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