罪悪感とその逃げ場としての落語

 夫の暴力と向き合うことは正体不明の罪悪感にさらされることだった。 
 彼が暴れる原因は私との生活のストレスなのかもしれない。彼は大声で怒鳴りちらしたり物を投げたりするけれど、この程度の爆発はどこの家庭でも当たり前に起こりえることで、私が過剰に反応しすぎているだけなのかもしれない。
 夫自身も、暴力に抗議する私にこんなことを言い放ってその罪悪感に拍車をかけるのだった。
「人のことを責める前に、自分の身をかえりみてみろよ」
 
 もしかしたら自分はそこにいるだけで周囲の人にストレスを与える恐ろしい人格なのかもしれない。
 精神的に不安定になっている夫を受け入れられない自分は倫理的に間違っているのかもしれない。
 考えるほどに私は罪悪感に溺れていった。この訳の分からない罪悪感は何が原因で生じるものなのかもわからず、それ故に対処のしようもなく、延々とその感情を抱え続けなければならなかった。あまりに辛いことだった。

-----

 渦中にあったある日、力を抜いて笑ってみたいなとふと思い立って友人を誘って新宿の寄席へ落語を聞きに出掛けた。
 そして、桟敷席の隅で膝を抱えて座って落語を聞きながら、私は意外なほどに救われた気持ちになったのだ。

-----

 落語には決して格好の良い人は登場しない。
 まぬけな与太郎、遊び人の若旦那、焼きもちやきのおかみさん、知ったかぶりのご隠居さん。噺に登場する多彩な人の中に誰一人スマートな人物はいない。しかし、誰もが江戸の町の共同体の中に受けれられていて、補いあったり支えあったりしながら日々の生活を紡いでいる。
 与太郎は本当にぼんやりとした青年のキャラクターだが、彼の近くには常に気にかけて何かと世話を焼いてくれるおじさんがおり、良い遊びにも悪い遊びにもわけ隔てなく誘いだしてくれる長屋の住人達がいる。与太郎は当たり前のように皆に受け入れられており、のびのびと安心して生きている。

 自分で自分自身の言動や人間性を批判する罪悪感のループにはまって生活を送る私にとって、個人を個人のままに受けいれる落語の中の世界は理想郷のように思えたのかもしれない。

-----
 
 立川談志師匠は落語のことをこう語ったという。
「赤穂浪士の物語は仇を討った四十七士が主人公だ。でもね、赤穂藩には家来が三百人近くいたんだ。残りの二百五十三人は逃げちゃったんだ。落語はね、この逃げちゃった奴らが主人公なんだ」

 暴れる夫と向き合い続けることは確かに赤穂浪士の物語のように美談かもしれない。それでも、私はそこから逃げ出して自分の身を守りたいと思っていた。(そして、実際に逃走という選択肢を選ぶことになった)
 決して美談にはなれない選択肢を選ぼうとしている私には、落語は人間くささの受容の象徴だったのだと思う。そして自分自身のことを批判し続ける辛い罪悪感からの逃げ場だったのだ。

-----
 
 私は一人でも寄席に出向くようになり、WEB上で簡単に入手できる落語の音源を毎日少しずつ聞くようになる。
 自宅を脱出する直前の私の手帳には辛い出来事や苦しい気持ちを記したメモに混ざってこんな走り書きがしてある。

 「柳家喬太郎師匠の落語が心の支え」

 あまりに場違いで呑気なフレーズだが、本当にすがっていたのだと思う。

-----

再び、談志師匠の言葉を思い出す。

「落語は人間の業(ごう)の肯定である」

その力強い肯定は今も逃走生活を続ける私を勇気づけてくれている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?