その変化を信じられるか -DV加害者向けプログラムに思う

「DV加害者向けプログラムについてパートナー向けの説明会を実施します」

 暴力から逃れるために自宅から離れて数か月、ひっそりと一人で暮らす私のもとにカウンセリング施設からの封書が届いた。自宅住所に発送されたもののようで、郵便局の転送シールが貼られている。

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 夫が加害者向けプログラムに通う意志を示したのは、別居を始める少し前のことだった。
 彼の暴力や暴言には不定期ながらも周期があり、爆発の合間には落ち着いて話し合いをすることができる短い期間がある。そんな時間で私達はどうやって夫婦の問題に向き合うか話し合ってきた。

「性格を変えられないとしても、考え方や行動は変えていける」

 彼は暴力の問題に取り組もうとしていることをこのようにはっきりと話した。自分は暴力を卒業したいのだ、と。
 この思いを受けて彼の主治医(彼は暴力以外の問題で既に精神科の医療の支援を受けていた)は、DVに関する知見のあるカウンセリング施設への紹介状を出してくれた。

 問題は少しずつ解決に向かうように思えたが、彼が再び恐ろしい大爆発を起こして私が身を守るために家を出る決意をしたのは、この紹介状をもってカウンセリング施設を訪ねる前のことだった。

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 私の逃走から数か月が過ぎ、いよいよ彼はプログラムに通うことを決意したようだ。

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 カウンセリング施設で私にプログラムの説明をしてくれたのは、穏やかで落ち着いた雰囲気の女性だった。
 なぜか彼女の左手の薬指のリングばかりが気になった。DV加害者と日々向き合う仕事をしている女性はいったいどのような人と結婚しているのだろう。崩壊する結婚生活の話ばかりを日々聞いていて、その恐怖を家庭に持ち帰ることなく過ごせるのだろうか。

 
 説明されたプログラムは「考え方」に焦点をあてるものだった。プログラムを通じて、暴力的な行動の背景にどのような考え方があったのかを明らかにしていくのだという。おそらくプログラムの参加者はその中で自分の歪み、例えば「妻は自分の言うことにいつも従うべきだ」「妻が従わない時には暴力を使って良い」といった考え方を発見することになるのだろう。歪みを自覚することができれば、その歪みから生じる衝動を避けるべく気を配ることができるようになる。

 信頼できる内容だな、と直感的に思った。単純に暴力的な感情や衝動を飼いならす術を学ぶのでなく、その背景にある考え方にアプローチするというのはとても本質的に感じられた。しかし、すっかり成人している大人の考え方を変えるというのは途方もない挑戦であるとも思うのだ。
 例え小さなことであったとしても、何かを変えようとすることは大きなエネルギーを要するし、容易なことではない。英会話の勉強やダイエットをしようと決心しては、思いを遂げられずに流されてしまうことがこれまで何度あっただろう。ましてや、自分の考え方自体を変革させるほどの大きい課題に取り組まねばならないのだとしたならば、それはどれほど難しいことだろう。

「人は変われるのでしょうか」

私の質問に女性はゆっくりと答えた。
「それははっきりとは言えません。変わったかどうかを決められるのは私達ではなく、奥さんだけですから」 

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 彼の変化を待つということは、「信じる」と「信じない」のせめぎあいだ。変化していく彼を信じられるかということ、そしておそらくとても長い時間を要するであろうその時間を傷を抱えながらじっと耐える自分の力を信じることができるかということ、2つの「信じる」「信じない」の間で心は揺れている。

 常々、信じることは純粋に自分の意志の表明だと思っている。
 100%の確信を持ってそれが確からしいと思うならば、私達は「信じる」ではなく「知っている」と表現することだろう。私達は平行線が決して交わらないことを「知っている」し、猫が哺乳類であることを「知っている」。
 一方、「信じる」というとき、そこには多かれ少なかれ疑いの余地がある。私達は、自分の勤務先の会社が倒産しないことを「信じて」いたり、いつか誰もが宇宙旅行できる日が来ると「信じて」いたりする。
 多少の疑いの余地を感じながら、それを「信じる」と表現するか、「疑っている」と表現するかは、自分自身がそれをどう捉えたいかという純粋な意志の表明だと思うのだ。
 
 私は彼が暴力から卒業することを信じたいと心から思えるだろうか。彼を信じて待つことができればとても美しいストーリーではあるけれど、私も自分自身の心身と人生を守らなくてはならない。
 
 簡単には決めきれずに、離れて暮らす私と彼は同じ苗字を名乗り続けたままで時間だけがじりじりと過ぎていく。

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