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日本テーマパーク史研究ノート6〜富士ガリバー王国について6:原武史『地形の思想史』を読む

はじめに(この記事を書こうと思った理由が書いてあるよ!読みたくなければ飛ばしてね!!)

日本にはかつて数多くのテーマパークがあった。

それらはバブル期を中心として全国に作られたが、多くはバブル崩壊といった経済的な危機や他の娯楽に押され、閉園に追い込まれる。一方で一部のパークは現在でも営業を続け、日本における代表的な観光地として知られている場所もある。
その数の多さにも関わらず、日本においてこれらのテーマパークを「1つの文化」として包括的かつ通史的に扱った言葉は、今のところ、まだ、ない。

このNoteでは日本のテーマパーク史について、研究ノートのように書く。あらかじめ断っておくと、筆者は専門でテーマパーク史を研究しているわけではない。いくつかのサイトで記事を書くライターでしかない。
ただ、ライターとしてデイリーポータルZLOCUST+などで書く機会があり、今後そうした媒体でテーマパークについて書くと思うから、そのための研究ノートだ。取材ノートでもいい。したがって小さな事実誤認や、思い違い、調査不足などは多めに見て欲しい(というよりそもそも、日本のテーマパーク、特に閉園してしまったテーマパークについては資料そのものが残っていないことも多いのだが)。ここに書き記すのはあくまでも調査の過程だと思って欲しい。もちろん修正点が見て使った場合は適宜修正していくが、それも含めて一つの調査の過程だと思って欲しい。

タイトルは「日本テーマパーク史」。ちょっと範囲が大きすぎるのではないかとも思ったが、とりあえず全体のテーマはこうした。大きく構えていても、一つのテーマパークについて、少しずつ回数を分けて書いていくことになる。いきなり日本のテーマパークについてその見取り図を書くことなどできないし、そもそも「テーマパークとはなにか」という定義さえ、私の中でも決まっていない。
おそらく、少しずつ個別のテーマパークについて書きながら、徐々にその全貌が見えてくるのだと思う。

したがって、その調査の過程を楽しんでくれれば、と思う。

幻の富士ガリバー王国を求めて6

昨日はガリバー王国を考えるにあたってそれが立地する「富士山麓」という土地に注目することの重要さについて考えてみた。

富士山麓には、サーキットや霊園、あるいは宗教施設、そして遊園地など多様な施設が集まる不思議な磁場を持っている。この磁場について考えるのにちょうど良い書籍を発見した。

それが原武史の『地形の思想史』だ。KADOKAWAから出版されているが、説明文からしてすでに面白そうである。

なぜ、皇太子一家はある「岬」を訪ね続けたのか?
なぜ、「峠」で天皇制と革命思想は対峙したのか?
なぜ、富士の「麓」でオウムは終末を望んだのか?
なぜ、皇室の負の歴史は「島」に閉ざされたのか? 
なぜ、記紀神話は「湾」でいまも信仰を得るのか?
なぜ、陸軍と米軍は「台」を拠点にし続けたのか? 
なぜ、「半島」で戦前と戦後は地続きとなるのか?

7つの「地形」から日本を読み解く。
「空間」こそ、日本の思想を生んでいた――。

そしてこの中の「第四景「麓」と宗教」に富士山麓と宗教施設の関係性について書かれてある。

宗教施設と富士山

原によれば、富士山麓には多くの宗教施設が集まっている。

「世界人類が平和でありますように」と書かれたピースポールでおなじみの白光真宏会(びゃっこうしんこうかい)、また多くの創価学会員がある時期に多く参拝した日蓮宗大石寺、そして何度も繰り返すように麻原彰晃率いるオウム真理教のサティアンもまた富士山麓にあった。

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    ▲白光真宏会のピースポール(出典:https://d.hatena.ne.jp/keyword/白光真宏会)

原の議論で面白いのは、それぞれの宗教団体がどのようにして富士山というシンボルを自らの宗教施設に用いたのか、という観点からこれらの施設について解説しているところである。

原の議論は多岐にわたっているが、ここではその中でも対極に位置する2つを取り上げよう。

富士山=機能説(=モダニズム建築)としてのサティアン

原は麻原彰晃の証言を引きながら、オウム真理教のサティアンにとって富士山が世界最終戦争が発生したときに信者たちが逃げ込み「山籠りする」という機能を果たすものでしかなかったと語る。

麻原にとって富士山とは、きたるべき世界最終戦争の後に自分たちが生き延びるための「岩間の陰」になりさえすればよく、いわば方便にすぎないものであった(原武史『地形の思想史』、p.138)

この証左として原は、サティアンの距離が年代を経るごとに富士山に近づいていることを挙げる。サティアンが富士山に近づけば近づくほど、富士山とサティアンが並んだときには、遠近法でサティアンと富士山は同じぐらいの大きさに見えるようになる。そうすることによって錯覚であったとしても、麻原はサティアンの大きさを富士山と並ぶぐらいの大きさだと信じようとしたのではないかーーそれが原の見立てである。

ここには麻原にとっての非常に興味深い富士山観がうかがえる。

つまり、富士山=単純な機能なのである。ある建物なり物体が徹底的に人間にとって合理的で機能的なものであろうとする態度は、ある意味でモダニズム建築家がモダニズム建築に求めたことに等しい。モダニズム建築では、建築の装飾といった人間が活動をするのに不必要なものは徹底的にとりさらわれ、最小限の構造で最大限の効率が生み出せるような建築が求められた。

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▲ミース・ファン・デル・ローエの「ファンズワース邸」。これが、富士山だ(出典:https://hash-casa.com/2019/06/17/farnsworthhouse/)

高名なモダニズム建築家ミース・ファン・デル・ローエの「Less is More(より少ないことはより豊かなことだ)」を思い出せば良い。

徹底的に不必要な要素を削りとり、合理性を追求した機能として富士山を見据えること。これが麻原のある意味での革新だったのかもしれない。それはサティアンのあの、無機質で装飾や不必要な要素が一切ない倉庫のような外観にも通底しているのかもしれない。

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▲サティアン。無機質な外観。機能としての建物(出典:https://kaeuta-tarou.at.webry.info/201903/article_9.html) 

普通、宗教施設は豪華な装飾を施すものだが、サティアンはそういうことをしない。

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           ▲幸福の科学小田原支部。装飾が豊かだよね
           (出典:https://twitter.com/hs_odawara

これと対極的な富士山観を持っていたのが、先ほども書いた白光真宏会(びゃっこうしんこうかい)の五井昌久(ごい・まさひさ)である。

彼はどのような富士山観を持っていたか。

それは、また、明日、書くことにしよう。


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