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建築基礎~蓮沼執太の場合

※これは、批評再生塾の課題として2019年に書かれた文章を再掲したものです。

蓮沼執太の音楽は建築的である。
などというと不思議に響くかもしれない。確かに古くから「建築は凍れる音楽である」と言われてきたようにその両者の関係は深い。しかしこの言葉を放ったのは西洋人(ゲーテかシェリングか不詳だが)であってその念頭に置かれていたのは、ソナタ形式やロンド形式という強く形式に規定されていたクラシック音楽と、ゴシック様式やバロック様式といったこれまた強く様式に規定されていた西洋建築だ。「形式=様式」を媒介とした両者の強い構築性に西洋人は類似性を見て取ったのである。
しかし多くの論者が語るように時代が下るにつれてこうした「形式=様式」を破壊しようという動きは多々見られる。例えばジョン・ケージは音楽におけるこの構築性を徹底的に排除しようとしたのだし、そもそも建築においては中谷礼仁が語るように「様式」という概念自体が近代建築の始まりと共に消えてしまうのである1。
そのような状況の中で蓮沼執太の音楽をもって「建築的」であると表現することは有効であるのだろうか。
端的に言って私はそれが有効だと考えているし、蓮沼の音楽ほど現代において建築的であるものはないと思ってさえいる。むしろ建築と比較することによって蓮沼の音楽自体に新しい観点を開くことが出来る、いや建築的に見なければ捉えきれない蓮沼の音楽があると断言しても良い。
では一体蓮沼の音楽がどのように建築的であるのか、蓮沼の初期から現在に至るまでのいくつかの作品とプロジェクトを参照しながら「音楽」という枠組みでは零れ落ちてしまう蓮沼の活動を捉えていこうと思う。

蓮沼執太は大学4年の時に初めてのソロアルバム『Shuta Hasunuma』をリリースして以来、現在の蓮沼執太フィルでの活動まで度々プレイスタイルを変えてきた。そのような多岐にわたる活動の中で『Sunny Day in Saginomiya』という曲は最初期のソロアルバム『OK Bamboo』(07)から蓮沼執太チームでのライブ演奏を再編集したアルバム『wannapunch!』(09)、蓮沼執太フィル名義の『時が奏でる』(15)まで録音が繰り返され、ライブでも多く演奏された、蓮沼の音楽活動を捉えなおすには格好の素材である。
ある曲を演奏するという行為は音楽を建築物として自立させる。そしてその演奏された曲を再度演奏し直すことは、その建て替えに他ならない。もちろんこれはライブに限らず(蓮沼はライブ活動をメインにしている)録音においても同様で、『Sunny Day in Saginomiya』は演奏されるたびに建て替えられると言えるだろう。
もちろん当然のことながら――可視性と不可視性という根本的な違いを除いても――音楽における建て替えと建築における建て替えは異なる部分も多い。建築では同じ土地に建造されても全く異なる形の建造物が出来ることが多々ある。しかし音楽の場合には基本的にほぼ同一の建物が建ち上がる。それは音楽に程度の差はあれ楽譜があり、おおまかな構造が規定されているからだが、同じ外観を持ったチェーン店舗を建てていると形容出来得るかもしれない。どのライブハウス、コンサートホール(=土地)で演奏(=建造)を行おうがそこに出現するのはほぼ同じ演奏である(=チェーン店舗)。もちろんこれには異論が持ち上がるだろう。例えば、ジャズやインプロはどうかと。確かにこれらは即興を旨としており、毎回違う演奏が出来上がるかもしれない。とはいえこれらの演奏はインプロを演奏していたら突然クラシックのように楽譜に忠実になる、というようにジャンルを超え出ることはないし、根本の部分では変化が無いのである。
しかし蓮沼の『Sunny Day in Saginomiya』のそれぞれのバージョンを聴いてみると驚くべきことに、その3種類ともがそれぞれかなり違う様相を呈していて、そこでは音楽におけるジャンルさえ様変わりしているのだ。特にエレクトロニカとして制作されたソロワークと、蓮沼執太チームとしての録音は1年しか期間が隔たっていないにもかかわらず、その構成やメロディが大きく様変わりしている。今や『Sunny Day in Saginomiya』はフィル向けのポップスとクラシックを融合したかのような曲になっている。
だから蓮沼の音楽はチェーン店舗ではない。いや、チェーン店舗では無いと言いつつもその『Sunny Day in Saginomiya』という名前は同一なのだから、形を変えるチェーン店舗とでもいえる微妙な立ち位置にあるだろう。事実、蓮沼は多くのインタビューで自らの曲が奏でられる場所や、それを奏でる人間によってその形が大きく変化するということを述べている。

建築物は設計者、施工主、周辺住民、土地、周りの環境など様々な諸要素に影響を受けやすい。なぜならば一度建ってしまった建築物は向こう何十年そこに建ち続けると想定されるものであるからだ。そのために建築家の夢想は実際的な問題に影響を受けて多くの場合、縮小や変更を迫られることになる。建築は確かに芸術作品ではあるが、絵画や彫刻といった制作者個人の意向がダイレクトに反映されやすいジャンルに比べれば不自由さが付きまとうジャンルであると言えるだろう。逆に言えば、建築とは複数のファクターが絡み合うことで最終的な形が現出する対話の芸術ともいえよう。しかもその対話は、人間だけでなく、土地や周りの環境までをも含むのだから厄介である。
蓮沼の音楽は、誰によってもどこで奏でられても同じような音楽を現出するチェーン店舗のような音楽(上手い下手の違いはあるが)に対し、周りの環境や共にプレイする人によって同じ曲であっても大きく異なる様相を呈する。
なるほどこう考えると蓮沼が大学で環境学を学んでいたことと、その後の音楽活動のある一貫性が理解できる。蓮沼が興味を持っているのは、ある音楽を主体的に作り、どこでも同じように演奏することではなく、その演奏者以外の要素がその曲に及ぼす影響である。
だから蓮沼はその演奏を取り巻く「環境」というものに興味を抱き、フィールドレコーディングという環境の音を聴くという作業を行っていたのである(蓮沼の曲には『Meeting Place』という示唆的なタイトルの曲もある)。
展覧会として企画された『音的』でもこの興味は持続している。『音的』で展示されたサウンド・アート(本人はそのように呼ばれるのを嫌うが)はその作られた作品だけでなく、会場の音をも取り込んで1つの作品になっているのだと蓮沼は語る。

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