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六本木的な、あまりに六本木的な

※これは、批評再生塾の課題として2019年に書かれた文章を再掲したものです。

この文章はAからQまでの一定の流れを持った17つのブロックから成り立っているが、それぞれにおいて不自然に脈絡が無い部分がある。もしくは唐突に過去の話題について参照される場面がある。その場合には語の横にカッコで付けたブロックの番号にハイパーリンクを飛ばして読めば、全体の構造を把握することが出来る。もちろん、最初から最後までを流れに沿って読んでも理解することは可能である

 またべつの話から始めようと思う。
 (『三月の5日間』の)「街区」について考えるなら、やはりここでもまた、なぜそれは渋谷だったか疑問が浮かぶ。六本木で出会った男女がセックスを目的にホテルを探すなら、そもそも六本木にもホテルはあったのではないかと奇妙に感じるし、少し歩けば、赤坂まで行っても円山町の距離とは大差がない。しかし、渋谷でなければならなかった。六本木という街区もまた、「東京の中のアメリカ」という文脈で語ることができ、やはりセクシーな街区、ストリートの魅力を備えているものの、それはまたべつの話になる。

(宮沢章夫「渋谷が語るもの」、『表象・メディア研究 第7号』所収)

 つまり、べつの話とは、「なぜ、それは六本木でなくてはならなかったのか」という問いだ。「東京の中のアメリカ」という特別性(K)。もしくは「六本木ヒルズ」という特異点(F)(G)。これらは確かに六本木という街を特徴づけている。しかしなぜ『三月の5日間』が六本木から始まるのかということについては答えてくれない。

B

『三月の5日間』は演劇団体チェルフィッチュの岡田利規が2004年に上演した演劇作品だ。
渋谷、円山町のラブホテルに閉じこもるミノベとユッキー(C)、ミノベの友達であるアズマと、アズマとたまたま映画館で知り合うことになるミッフィー(Q)、そしてイラク戦争反対のデモに参加するイシハラとヤスイが過ごすそれぞれの3月の5日間が描かれる。
そしてもう一人スズキ(N)という人間がこの戯曲には登場する。いや、登場という表現はどうだろうか。スズキは劇中で確かにしゃべっているのだが、最終的には話題の中心にならない、不思議な存在だ(N)(O)。

C

チェルフィッチュの演劇は「超口語」と呼ばれ、日常会話の中で実際に有り得る言い間違いや、脈絡のない話題などがそのまま台本になっている。例えば『三月の5日間』の冒頭。

男優1 それじゃ『三月の5日間』ってのをはじめようと思うんですけど、第1日目はまずこれは去年の三月の話っていう設定でこれからやっていこうと思ってるんですけど、朝起きたら、なんか、ミノベっていう男の話なんですけど、ホテルだったんですよ朝起きたら、なんでホテルにいるんだ俺とか思って、しかも隣にいる女誰だよこいつ知らねえっていうのがいて、なんか寝てるよとか思って、っていう、

 「ですけど」や「っていう」、もしくは同語の反復など実際の日常会話では十分にあり得る言葉を大胆に台本に導入する。従来の演劇台本では排除されていた、本来の会話に含まれるノイズをそのまま取り入れるこの形式はまた、その身体演出においても同様である。岡田利規は普段の会話の中で何気なく人間が行ってしまう動作を拾い上げ、極端に反復させ、コンテンポラリーダンスのような身体を表出させる。
 岡田が言葉や身体に対して行うこうした操作は、日常生活の中で、確かにそこにあるが忘れ去られているものを拾い上げ、強調するという手法を取っている。

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