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「場所」の声を聴く〜「空間」から批評を立ち上げる

チェーンストア研究家・ライターの谷頭和希が、いろいろな「空間」を批評していきます。街のこと、田舎のこと、郊外のこと、チェーンストアのこと、テーマパークのこと。さまざまな空間をめぐ…
月4回以上、更新します。2〜3日に一回更新が努力目標です。それぞれの記事は単体でも購入できますが、…
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#批評再生塾第3期課題

建築基礎~蓮沼執太の場合

蓮沼執太の音楽は建築的である。 などというと不思議に響くかもしれない。確かに古くから「建築は凍れる音楽である」と言われてきたようにその両者の関係は深い。しかしこの言葉を放ったのは西洋人(ゲーテかシェリングか不詳だが)であってその念頭に置かれていたのは、ソナタ形式やロンド形式という強く形式に規定されていたクラシック音楽と、ゴシック様式やバロック様式といったこれまた強く様式に規定されていた西洋建築だ。「形式=様式」を媒介とした両者の強い構築性に西洋人は類似性を見て取ったのである。

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六本木的な、あまりに六本木的な

A つまり、べつの話とは、「なぜ、それは六本木でなくてはならなかったのか」という問いだ。「東京の中のアメリカ」という特別性(K)。もしくは「六本木ヒルズ」という特異点(F)(G)。これらは確かに六本木という街を特徴づけている。しかしなぜ『三月の5日間』が六本木から始まるのかということについては答えてくれない。 B『三月の5日間』は演劇団体チェルフィッチュの岡田利規が2004年に上演した演劇作品だ。 渋谷、円山町のラブホテルに閉じこもるミノベとユッキー(C)、ミノベの友達であ

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全てはすずの存在のために?――まだ見ぬ数多くの『この世界の片隅に』に向かって

1、 精神科医である斎藤環は、批評再生塾第3期に寄せた「『この世界の片隅に』を批判せよ」と言う課題文で次のように書いた。 この文章を読んでまず疑問に思うのは、何故この作品は現段階で批評を敗北させ得る力を持ったのか、ということだ。 『この世界の片隅に』は数多くの批評家をも黙らせしめた。辛口と言われるキネマ旬報の採点では3人の評者がそれぞれの観点から満点を付け、前述の斎藤も試写会の段階で「120年に1度の傑作」と評したのである。 その斎藤は「美術手帖」の2017年2月号に掲載さ

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祈りのテロリズム――『猫に時間の流れる』をめぐって

 結論を言います。  保坂和志とはテロリストである、と。  もちろんこの2つの言葉は、その小説の表層を読むだけではつながりを持てません。それどころか、保坂和志と共に1990年代を代表する作家の1人である阿部和重が露骨にテロを取り扱ったのに比べれば、保坂はむしろそうした暴力的な表現からは程遠く、対極にいる作家であると認識されることが多いのではないでしょうか。  というのも保坂の作品においてはそもそも――しばしばそれが非難の対象になるように――物語らしい物語が起きないのです。

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「物語」を生き抜くこと~『ニッポニアニッポン』をめぐって~

17歳の少年鴇谷春生。彼は自らの名前から、「トキ」(学名「ニッポニアニッポン」)に異常な興味を覚える。現在の「トキ」に対する日本国民の態度に怒りを感じた彼は「トキ」のためにそれを密殺することに決め、佐渡島での「トキ」暗殺計画を練る。しかしそれは失敗し、自らの人生の目標を失い絶望する。 その物語に、彼が好意のあまりストーキング行為をした本木桜と、佐渡島で出会う本木桜に似た少女、瀬川文緒との物語が絡む。 この阿部和重の小説、『ニッポニアニッポン』を語ることについて、社会学者で

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