惰性と娯楽

ひますぎる

一限に来たはいいものの、つまんなすぎて寝る寸前だったので、抜け出して図書館で書いています。

自分の好きなことってなんだろうと最近考えています。あるVTuberの配信で、好きなことをして生きていくことについてその人が語っているのを見ました。その人は、はじめ就職したけれど趣味の活動も続けていて、趣味の活動が花開いたときにそちらにシフトチェンジしたそうです。活動を始めるまでは機を伺っていたようです。

私にそのような趣味があるかと言われるとどうかなと思います。ベースを弾いたり、ツイッターでダジャレを呟いたりしてはいますが、それに人生をかけられるかと言われるとまったくそのような気はしません。どちらも、惰性でやっているだけとも感じられます。

学問的興味についても、高校生の頃は生物と化学が好きでやっていましたが、今は科学を行うこと自体に疑念を抱く有様です。科学を発展させることは良いことなのかどうかわかりません。ただ怠けたいからそのように理屈をこねているだけような気もしてきます。少なくとも科学をすることに楽しさを覚えていないことは明らかです。

本を読むことも楽しいことには楽しいですが、昔より集中して読めません。集中して読みたいのに読めないことがフラストレーションを溜める要因となっています。

ただ、やりたいことが見つからず、気持ち悪いです。

このような状態であることの原因は3つほど考えられます。

1つ目は、コンテンツの消費をしすぎていることです。TwitterやYouTubeでコンテンツを消費しすぎて、それに気力を吸い取られてしまっています。

2つ目は、視野が広がりすぎたことです。今まで主体的に行ってきたことを俯瞰できるようになり、他の選択肢が常に頭に浮かぶようになりました。科学の営みを相対的に捉えることができるようになったことで、科学を絶対視していた頃の敬虔さのようなものが失われました。

3つ目は、やりたいことを見つける切迫した理由がないことです。親も別に何をしろとも言いませんし、最悪何もやらなくても死なないように支えてくれそうです。承認欲求もTwitterで簡単に満たせてしまいます。あるいは、Twitterで満たせる程度の承認欲求しか持ち合わせていません。

やりたいことがなくてもいいのかもしれません。しかし、そのように開き直ることへの不安がなくなりません。

やりたいことがなくてよいと仮定すると、どうなるでしょうか

惰性と娯楽で、生きることになると思います。それの何が悪いでしょうか。つまらないでしょうか。

今思いついたのですが、惰性と娯楽で生きるなかで、それ全体の手触り、肌触り、風の匂いのようなものを楽しんでいけば良いのではないでしょうか。それが自分の人生に対する愛なのではないでしょうか。

おわり

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