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古代の名前を理解するための基礎講座2

現代人は名前をつける時、響き漢字の両方を重視する傾向がありますが、上代人は漢字表記のことなどほとんど考えていませんでした。

古代のコミュニケーション手段は、ほぼすべて音声です。
漢字が伝来するまで日本に文字はありませんでしたし、漢字が伝わってからも、日常的に文字を記すのは役人や写経に従事する人などに限られていました。

今の日本は高い識字率を誇り、すぐ手に届くところに辞書やネット検索がありますが、古代の一般庶民にとっては文字自体がそもそも慣れ親しめる存在ではありませんでした。そんな状況で漢字にこだわることなどできるはずもありません。
なので、上代人の名前は響き(読み)こそが重要であり、名づけ親が込める意味は響き(読み)に終始したと言っても過言ではないでしょう。
簡単に例えを挙げれば、表記が鎌足であっても加真多利であっても、そこに優劣はなかったということです。

前回、女性の名前によくついている「め」について、「女」が本来の意味でありながら大半は「売」と書かれていると述べました。これは逆に言えば、表向き「売」と書かれていても、本来の意味は「女」であったと言えます。

冒頭に述べた通り、現代では漢字の意味も重要視されるため、名前の響きそのものには意味がないことがあります。例えば未紀(みき)という名前に必ずしも「幹」という意味が込められているわけではないでしょう。由佳(ゆか)という名前に込められた意味が「床」とは思えませんし、梨恵(りえ)という名前に対して「りえ」ってどういう意味?と聞いたところで、困惑させるだけでしょう。

このように、現代では個人名以外の意味を持たない名前もよくあります。しかし、古代人の名前は、たとえ万葉仮名による当て字で書かれていたとしても、その読みに相当する本来の意味が存在します。
名前が多智波奈だったならば橘(たちばな)曽乃茂理ならば園守(そのもり)が本来の意味となります。このように名前の本来の意味を推測することが、当時の命名文化を知る重要なヒントになるのです。

ところで前回、この講座は古代人の名前を読むのに特化した内容であり、古代の日本語一般を解説するわけではない的なことを言いましたが、名前も国語の一部であるため避けては通れない箇所もあります。古代国語の一般則について少しでも知識を持てば、万葉仮名で書かれた名前の本来の意味を推測することに役立ちますので、解説致します。

まず、歴史的仮名遣いについて。

歴史的仮名遣いは、旧仮名遣いとも呼ばれます。一例を挙げれば、言う言ふ植え植ゑ水(みず)水(みづ)葵(あおい)葵(あふひ)であるようなものです。
当然、古代人の名前はこの歴史的仮名遣いで表記されています。なので、万葉仮名で表記された名前の本来の意味は何であるか推理する時、これを念頭に置いておく必要があります。
例えば伊比与理という名前があったとしたら、読み方は「いひより」となります。「より」は前回説明した人名接尾語の「依」とまず想定されます。前半の「いひ」について。歴史的仮名遣いを考慮すると、これは「飯(いひ)」ではないかと推測が立ちます。すなわち、この名前を意味通りに表記すると飯依となります。

歴史的仮名遣いを常に意識するのは非常に大変です。しかし、少しでも知識を持っておけば、元の意味の推理に役立つことがあります。
今度は麻都恵という名前があったとしましょう。万葉仮名は漢字の漢音よりも呉音が用いられることが基本ですので、この名の読みは「ま と けい」ではなく「ま つ ゑ」となります。現代仮名遣いで「まつえ」となるので、響きから「松江」あるいは「松枝」なのではないかと考えます。ところが「江」「枝」も歴史的仮名遣いで書けば「え」となりますので、「ゑ」と整合しません。なので次に歴史的仮名遣いで「ゑ」と書く語彙を調べることになります。ここから本義は松植(まつゑ)なのではないかと再考することが可能になります。ただしここで、言葉の区切り方が「まつ」「ゑ」ではなく、「ま」「つゑ」である可能性に気づくことができれば、真杖(まつゑ)がさらに有力な候補として挙がってきます。もし本当に「麻都恵」という名前を資料中で見かければ、私はまず「真杖」の意を想定します。

ところで先程、説明もなくさらっと漢音呉音と言ってしまいましたので、これが何かも述べておきます。これは漢字の音読みの種類です。私もさすがにすべてを網羅しているわけではなく、典型的な数個例を知っているだけです。上記の都(つ)恵(ゑ)の他、気(け)豆(つ)努(ぬ)なんかがよく見られます。呉音の方が古い音であり、仏教関係の言葉によく見られます。

例えば、「弥」の漢音は、弥漫(びまん)、弥縫(びほう)といった熟語にあるように「び」ですが、万葉仮名としては呉音の弥(み)として使われます。阿弥陀(あみだ)如来や弥勒(みろく)菩薩の弥(み)です。
漢音で「び」、呉音で「み」と読むのは、実は「美」も同じです。美人(びじん)、華美(かび)、美意識(びいしき)など、日常で使われる「美」が含まれる言葉ではすべて「び」であり、美(み)を含む熟語は一つも思いつかないのではないかと思います。美(み)は固有名詞にのみ現れる特異な読みなはずなのですが、女性の名前によく使われるという理由でスタンダードな立場を獲得している不思議な存在です。

さらに輪をかけて面倒なのは、万葉仮名の中には、現代では同じ仮名で表される響きに二種類の区別があるものがあることです。

……この説明じゃさっぱりわからないと思いますので、具体例を挙げます。

前回説明した通り、女(め)という言葉は売(め)という漢字で表されることがあります。そして、目(め)という言葉は万葉仮名の米(め)という漢字で表されます。ところが「女」を「米」と書いたり、「目」を「売」と書くことはありません。それぞれの言葉に対し、使える万葉仮名が決まっているのです。こういった二種類の区別を甲乙で表現し、のグループをめ甲類のグループをめ乙類と呼称します。(私が勝手に呼んでいるのではなく、ちゃんとした学術用語です)

とは言っても、五十音すべてにこの甲乙の区別があるわけではありません。甲乙があるのは、に限られます。また濁音がある、も同様となります。き甲類が濁ったは同じく甲類になるというのが通説ですが、稀に異なるものもあるようです。

具体例などさらに詳しく知りたい方は「万葉仮名 甲乙」で検索すれば、解説サイトが山ほど出てくると思いますので、そちらをご覧になってください。

この中で、古代の人名を読む上で特に重要なのが、です。古代人名中に特に多く見られるためです。
たとえば、公(きみ)「き」は甲類「み」も甲類なので、両方とも甲類の万葉仮名で書かれた「岐美」という名があれば、これは「公」の意味であろうと推定できます。しかし、乙類で書かれた「紀未」であったなら「公」の意味とするわけにはいきません。それぞれの音に適合した「木実」などの意味を想定しなければなりません。

このようにややこしい様相を呈している万葉仮名ですが、人名に用いられる一部だけでも知識を入れておけば、真実への接近へ非常に役立つ武器と化すのです。

【今回のまとめ】
・古代人の名前は響きが実体を担っていて、万葉仮名による当て字で表記されていても、本来の意味が存在する
・歴史的仮名遣いや万葉仮名の甲乙は理解するのが難しいが、本来の意味を推定するのに役に立つ

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