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記録 -1月-

書いて、しゃべって、しゃべった1月。まだ20日ですが、最近のことをつらつらと。

6日から、なにか私の身体を重くしていたおもりが落ちたように、いきおいよく予定に向かった。ひとつなにかに解き放たれたような気がして、目の前の景色が急にくっきりとしだした。

2月にポッドキャスト「はらっぱラジオ」にて公開収録イベントをやる。打ち合わせがてら長岡でランチし、お茶し、橋の上で撮影大会をした。雪と淡い青の低い空と、キンと冷えた空気が気持ちよかった。脊髄反射で言葉をキャッチボールできる2人。「てかさ、雪降りすぎじゃない?」から始まる会話がどこまでも楽しくけらけら笑いながらできる人たち。

久しぶりに初めましての場でワークショップの進行をした。こういう進行役をやるとき、目的にあった内容が言葉としてその場に残ることもだけど、最後の空気が前向きな一体感で満たされているとき、成功した感じがする。そして私自身の心を打つ言葉が出されたときも。今回がまさにそうで、なんだか久しぶりに自分の仕事で感動した。山のふもとの小さな地域で、農家のおっちゃんや今は東京で働く地元出身の若者たちが心をちゃんと開いてくれた。「五感が共鳴するからこの地に住んでいる」と強面のおにいちゃんが出した言葉におお、と衝撃。

寒い日に会った、障がいとアートのディレクションをしている友人は、作業の合間にふと始まった雑談の中で本来の自分の職業は「写真家」だと言った。直接写真を撮ったり展示したりしていない今も、広い意味で写真家なんだと。自分個人の欲求と社会にとっての良い変化は微妙に違っていて、どちらも満たせているのが理想だよねという話もした。私の職業はなんだろう。私の欲求はなんだろう。問いかけられた気がする時間。

映画「THE FIRST SLUM DUNK」を見に行った。見る前に少しもやもやする出来事があって、映画館で買ったクレープもなんだか凍りすぎててブルーだったのだけど、映画が良すぎてぶちあがった。なんじゃこれ。2回くらい小声で「かっこよ…」とつぶやいたし、開始20分のタイムアウトでの安西先生の言葉で涙でた。理屈じゃない。言語化できない。とにかく湧き上がる興奮。年始に見た「ケイコ目を澄ませて」につづき、私の中で「頭を空っぽにして集中したときにあらわれるホンモノの何か」こそ大事なのかもしれないという感覚が膨らんだ。そしてマイナスにとらえていた中学校のバスケ部時代を少し捉えなおせた気がした。

ZINE「あじさい」第三弾の原稿を書いている。書き始めて1000字程度まで来て止まって、次の日読み返してやっぱり書き直そう、を繰り返している。去年の9月から自分のために書いている日記やこういうnoteと違って、あじさいの文章は、本当に最近の数日・数週間のことを書くというよりは「この1年くらい」で感じ考えてきたことを「今の言葉でまとめ、残す」という感覚で、印刷して製本して…と読者に届くまでが長いので、どうしても慎重になる。重くなる。本当に残すに値する内容だろうか?と思う。いつかはえいや、と決めなきゃいけないのだけれど。
自分以外の人のエッセイも提出されはじめたので、わくわくしながら読んでいる。そうすると、自分のエッセイは置いておいて、ZINE全体の編集へのモチベーションが沸きあがってくる。やっぱり自分の文章を書く脳と他人の文章をどう見せるかを考える脳は違うんだな。
今回は2人とも歯をくいしばるような、少し重めの内容となっております。笑 仕方がない、そういう時期なのだからそういうZINEしかつくれない。あじさいは「今の私の言葉をのこす」がテーマだからね。
それにしても、夜はけっこう暇なのに9時くらいから12時くらいまでの時間があっという間だ。何も進んでないのに1日が過ぎて、少し焦る。そして12時過ぎに寝ると、最近は朝が起きられない。冬の身体なんだろう。朝8時でもうす暗いことが多い、新潟の冬。

この2週間で、1対1でごはんやお茶をしながらわりと深めにしゃべった人が6人くらいいて、その度に私の最近の問いと発見を投げかけてみている。微妙に角度と言葉を変えながら、歯の矯正で滑舌が悪くすぐ唇が痛くなるくせに、やめられない。のめりこむように話してしまう。それはその人達がちゃんと受け止めて、自分の考えを返してくれて、一緒に考えたりできる人達だと感じているからなのだろうけれど。帰ってくる言葉たちが面白くて、私は水を得た魚のように生き生きとしながら、またぐるぐる思考する。
1対1でしゃべるとき、時差で相手の言葉が心にしみてくることが多い。受け取った時は返す言葉のことも考えてしまっているからちょっと気がそれているのかもしれない。あとからそういうことかも!そういうことだったのか!となることがしょっちゅう。

「美学」を持っている人になりたいと思う。そしてそれを行動と実践で示していけるようになりたい。会うとまだ少し緊張する友人が、自分の美学の話をしていて、そう思った。

「大人になればなるほど、誰にもなんも言われなくなるから、自分で気がついちゃうんだよね」というのは、「選択した道が意外と孤独だった話」をフリーランスの友人としていて出てきた言葉。たしかに!と思った。前にはてなブログでも書いた話と近いことですが。マイノリティだと分かりつつもむしろ望んで選んできた、進んできた道が、急に不安になる。住む場所にしろ結婚にしろ家の購入や仕事にしろ、結局みんなマジョリティの道に行くんじゃん!と。「あなたの道は孤独だね」なんて誰かに言われたことはないのに、自分が自分で言っているだけ。勝手に感じているだけ。言われている気がするだけ。

自分が危ういなと感じるのは、「理性」の自分が「ある種の正しさ」「優しさ」「あたたかさ」「意義や意味」を大事にしすぎて、「感情」の自分が過激な時とのギャップがすごいという部分。自分の中にある暴力性や怒りや破壊衝動みたいなのを感じることがあって、昨年の気持ちの落ち込みを経験して以来、自傷行為のように自分のその状態を発散させようとしてしまうことがある。結局自分がめちゃくちゃ辛くなるってわかってるのに、その状態になっては泣いたりふてくされたりしている時がある。ここらへんはまだ言語化できてないな。

日々の大事なことを全部覚えているのは無理だから、焦らない、焦らない。またきっと思い出すし、しかるべきタイミングですべてのものはやってきて去っていく。ゆたんぽと、お香と、夜の散歩と、お笑いの動画と、山と、本と…私を救っている、つくっているアイテムはちゃんとそばにある、大丈夫。(大好きな銭湯は休業していて本当に悲しい)


どんど焼き、燃えていく瞬間が良い。







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