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衝動

昔から感情が昂ると、自分を抑えることが出来ずその場の衝動に駆り立てられてばかりだった。

感情が苛立ちで、衝動は破壊的なもので。

例えば、ゲームが上手く進まず、その苛立ちに手に持ったゲーム機を破壊してしまった。
とか、癇癪に近い衝動になるのだが--。

この例え自体が理解できない人もいるよう。(私としては信じられないことだが……癇癪やそれに近い衝動を体感したことがない人と言うのがいるみたい)

まあ、全く理解できないという人は一部だと思うこととしても、それでも「癇癪なんて大人にもなればそうそう起こす様な物でもないだろう」と考える人は、それなりに多くいるんじゃないかな。

だからこそ、その癇癪に似た衝動を未だに持っていると言うのは、悪い事のように見られやすいのかなと思う。

まあ、はたから見れば「自分の感情の制御も出来ない、未熟で、危険な奴」と言う評価になっても不思議でもなんでもないし。

ただ、それでも、そんな自分をどうにかしようとして、だけどすぐにはどうにも出来なくて、このままじゃマズいと思って、だから大切な人に助けを求めた。大切で一番近くにいるからこそ、一番壊してしまいそうで、それが怖くて、助けを求めたのに--。

「あなたが暴力を振るう人間であるなら、一緒にいられない」

ただただ拒絶された。

そうならない為に我慢を続けてきて、考え続けてきて、それでも、それでも、どうにかそれでも、と、抑えつけてきたのに。

その拒絶は、私の存在そのものの否定に感じられた。


私がまだ十代の半ば辺りの頃、初めての恋で、本気の恋をして、初めてこの癇癪じみた衝動を自覚した。

その頃恋をした相手の子は、そんな自分に怒り、ダメだと叱った。

人を傷つけることも、自分を傷つけることも、ダメだと嫌な事だとそう怒ってくれた。

それがきっかけで、衝動が大きくなっても、殆ど人や自分を傷つける行為はしなくなった。

時間をかけ考え続け、向き合い続けて、モノにも当たらない様にしたりと、自分なりに抑えつける範囲を広げたりもした。

それでも衝動は衝動として残ったままなのは変わらない。

それが手当たり次第、他人に向いていたら良くないんじゃないか。

何も知らない他人にこの衝動をぶつけるのは、いかがなものかと。

そう思い。だから他人に対しては感情を必要以上動かさない様にした。

そしてその分、身内だと、理解者だと感じられた人に、一層の感情を込めた。込めた分だけ衝動が大きくなる事をきちんと理解できたのは、最近になってからだった。


私にとって衝動=感情である。

切って捨てられるものでは無いと考えています。

そして、癇癪やそれに近い衝動を、理解できないと言う人や大人になって制御できていると考えている人は、少し思い違いをしているのでは無いでしょうか。

私の衝動は偶然か必然か、破壊的で暴力的なものが目立ちますが、恐怖や不安感と言った物だって衝動的にくる物でしょう?

多くの人は、恐怖を感じるなと言われたって、感じたらもう怖いんです。

怖がらない様にとその衝動を押さえつけたって、なかなか無くなりはしないんじゃ無いでしょうか。

どうにかなるんだっら。すでにどうにかしている。

そう思わずにはいられません。


あ、因みに破壊的で暴力的な衝動に悩まされていますが、幸い直接手をあげたりといった事は無いです。

せいぜいが、喧嘩の勢いで物を投げつけたり(直接当てた事は無い)、壁に頭突きしたり(自傷)、ロッカーを殴って手首を折ったり(自爆)とその程度です。

でも、いつか自分がこの衝動に飲まれてしまったらと考えると不安でなりません。

きっと、私以外にも同じような不安を感じている人がいるんじゃ無いでしょうか。身近にそんな人がいたのなら、それが大切な人であるのならば、不安でいられるうちに、助けてあげてください。

ひとりではどうにもできない事です。

独りでいれば、そもそも問題にもならないんですから--。

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