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わからないカラオケ

カラオケがなにをする場所なのかわからない。行ったことはある。端末を使って曲を選んだのちマイクを握って唄う、という基本も理解している。だが、ふたり以上で連れ立って訪れるといつも曖昧になる。場に複数人いる以上、唄うだけでなく、ひとの歌を聴く必要が生じる。この「聴く」がわたしには繊細微妙な問題である。全身全霊を俵星玄蕃に重ねて絶唱しおおせてソファにくずおれるとき、興奮は絶頂を極めているのであって、つづく誰かの歌を楽しむ余裕などありはしない。不快だとさえ感じる。およそ5分刻みに祝祭が開かれては閉じられるような目まぐるしさがある。が、不快をやすやすと外部出力してしまっては軋轢のもととなる。それは個人間の関係においての障害でもあるし、誰かが捧げる全身全霊を打ち砕く爆雷にもなりうる。教室の床を箒で掃きながら唄っていたら同級生から「音痴なんだね」と言い放たれたあの日深々と刻まれた諦念があればこそなおさら慎重になる。音痴だと直截に告げないまでも、自分が多少なりとも歌声に魅せられている素振りを欠いたことで相手を躓かせたくない。そうして「素振り」をべたべたと顔に、全身に貼りつけていく。口角をきゅっと上向きに引き絞り、目は周りのひとと同様テレビスクリーンに向けつつも時折陶酔したように細める工夫を怠らない。聴き慣れない曲でも果敢にリズムに身を這わせて左に右に揺れ、ときどき拍子に合わせて手を打ち、ときどき感激したようにウンウン頷く。こうして、感情の急激な切り替えに伴う不快感が臨界するのを抑えるわけだが、無論、体内を渦巻く不快の毒性は弱まるばかりかいっそう凶暴化する。曲が代わる5分おきに素振りを更新していれば、日替わりで複雑に作動する暗号機エニグマに手を焼いた英軍にも似た疲労が鬱積する。時間が経過するほどカラオケに「Enigma」の側面を見つけずにはいられなくなる。唄い終えたばかりの三波春夫や山口一郎の音楽からなんとか即座に身をもぎ離し、ほかの列席者による歌を楽しみつつも、全身全霊の宛先をまたすぐに端末から選び出さなくてはならない。ひとに聴かせるものだと思えば生半可なセレクトはできない。しかし、もしかするとそもそも前提が誤っているのかもしれない。カラオケはひとの歌を聴く場所ではなく、あくまで自分の思い思いに唄う空間であるのかも。列席者の存在を忘れ去ることで、楽曲を旋律があるだけの独り言に劃定する。身振りの工夫の必要性はここまでくれば消え失せるような気がしてくるが、ほかでもない誰かと同道した意義も併せてなくしてしまいそうで、薄ら寒い。もしかして、採点システムは人間が消えるための装置か。うまいか、うまくないか、不安も不快も最終スコアに解決を求められる。大いなる客観の視線のもとで喉を引き絞り、独り闘いを挑まなければならないのだとしたら。
ひたすら変転しつづける謎を際限なく解くか、謎という発想をばっつりと断ち落とすか。そんな単純な二者択一ではないはずなのだ、問題は。

音楽ってなんだっけ?



I.M.O.文庫から書物を1冊、ご紹介。 📚 東方綺譚/ユルスナール(多田智満子訳)