美食家?ええと、試食家です。
Сайн байна уу?
のっけからモンゴル語でゴキゲンヨウ。いやはや久しぶりに使った。
ごくわずかな戦友とともに一年間あの言語の詰め込み教育を受けたのは昨年のこと(記事にもしました)。詰め込みというと、暗記した事柄が次々と脳の働きでトコロテン式に流れ出ていく不毛の営みのように思われがちだが、やりようによっては功を奏する。アタマの処理がぜんぜん追いついていないのに教授に急かされるまま口を動かして発音に努めたり。ときには、モンゴルや隣国の社会主義時代を肌で知っているからこそ語れる体験談を聞いたり。調査時に購入した絵画を手に取って鑑賞したり、消化器の規格がいろいろ違うんじゃないかと呆れたくなる豪放な食文化を聞いて唾腺が弾けたり。まさしく五感をもって関わった言語というだけあってモンゴル語はしっかり肉体に刻み込まれており、そこまで忘れていない。
さて、なぜ開口一番にモンゴル語でご挨拶したかといえば、以下の記事の募集要項にビビッと触発されたからである。モンゴル語でもなんでも書いてヨイとわざわざ特記してあらば、いかに書かでいられようか(いや、書く)。
ポロロッカ西尾氏の投稿にはいつか便乗したいと意地汚く手ぐすね引いていた頃合いだったのでこれ幸いと乗っかります。謹んで明かしましょう、食へのこだわり!
このままモンゴルの食文化について話せたら一番なのだが、かの国を訪れたこともなく、講義を受けて架空の舌鼓をひっぱたいたに過ぎないから多くを語れない。
餅は餅屋と潔く諦め、マイ食文化を原体験まで突き詰めて考えてみよう。
すると、地元のスーパーマーケットで母に付き従ってぽとぽと歩いた幼年期に辿り着いた。食べたいものを問われてもハンバーグかカレーとしか答えられない自分の限界を知っていて、その茶色に執着すると母を悩ませることもまた知っていたので黙っていた。そうかと云って、ウンウン献立を思案しながら店内を巡回する彼女の動きに合わせて律儀についていくには、私の足はあまりに幼かった。
それで、折をみて母を離れることになる。気の赴くまま、神羅万象チョコやほねほねザウルスの並ぶ棚を前にしてウットリしたり、果汁グミをパッケージ越しに揉んだり、たわわな胸を半ば隠し半ば露出した人魚のふるめかしいイラストにどきりとした。それにも飽きて店内を歩く私の気を、試食を配るおばちゃんは強く惹いた。
試食のおばちゃん。
そこはたいてい精肉コーナーである。紅白のチェック模様のテーブルクロスをぴんと張った小型テーブルにはこれまた小さなホットプレートが据えられていて、おばちゃんが箸でウインナーとか豚バラ肉を炒めている。ひと通り調理を終えると手際よくアルミカップに盛り分け、広告の文句を賑やかに唱える。さしずめ焼肉のタレの宣伝をしていたものだろうが、そんなことは関係なく、幼時の私はおばちゃんの周囲に芬々とひろがる芳香に蕩然となり、立ち尽くした。フェルメールも絵筆を執りたくなるほど均整のとれた所作でタレが注がれ、肉の焼ける音もまた私を魅せ、唾腺をいかんなく刺戟した。あれは絶対おいしいものだ。直観した。
しかし財布はおろか、ソプラノの歌声と丹念に蒐めたハナクソしか私有財産を持たない自分には、試食をする資格はない。美味を前にしながら私は尻込みした。
だがタベタイ。おばちゃんの視線はすでに私を捉えている。鷲のごとく。
いっさい購買力はないが食欲はどうしようもないから平身低頭お願いしよう。
十二単でも着込んでいるかのように重い足取りでしづしづと近づく。
「これください」指差すと、
「はいどうぞ」何かを見兼ねて、二つアルミカップをくれた。
おいしいんだ、これが。
資本主義の生み出した等価交換システムに彩られたスーパーマーケットにあって、試食の焼肉は温情コミコミでおいしい。それがミカンだろうがウエハースだろうが柿の種だろうが構わない。あの日、許された無銭飲食に味を占めてからというもの、幼年期を去り一定の収入を得るようになっても試食とあらば目をぎらつかせるようになった。
そう、私は試食家である。厚顔? 無恥? どんな謗りも甘んじよう。
いちおう断っておくが、絶対にビタ一文払うもんか、食べるだけだもんね、とケチを極め込んでいるわけでは決してない。試食、試飲、試聴……そのあと商品の購買があってはじめて店舗の営業が成り立っていることは重々承知している。
試せるものはぜんぶ漏らさず試す、というまでだ。買うときゃ買います。
件のウイルス氏が跳梁跋扈するここ数年はじつに試食がしにくくなった。
できないとあらかじめ考えていて間違いない。それでもたまに、レジ横からそっと爪楊枝を取り出して菓子を振る舞ってくれる老舗などに出合うことがあり嬉しい。飲めども飲めども、褒めても褒めても、すぐに会計に招かず紙コップにいろいろの種類の茶を注いでくれる専門店もあった。好きなだけどうぞと勧められるに甘えて細切れの笹かまを各種食べて文字通り吟味したこともあった。
口では「そんなにしていただかなくても」と謙遜しつつ、あくまで手を伸ばす。
そしてやっぱり、おいしいんだ、これが。
試食を口に運びながら商品説明を受けると、たんにラベルに目を通すだけではきっと理解できなかった事柄もナルホドと合点がいく。無料のサーヴィスはそこだけ切り取ったら損だが、大局的にみると実感の籠もった口コミを知人に喧伝する効果など期待でき、意外とよくできた仕組みなのかもしれない。長々付き合ってもらった後ろめたさに突き動かされて「じゃこれも」と予定になかったものを買ってしまうことも多々あるし。
パクチーさえ混じっていなければなんでも食べますので、ぜひ再開・拡充を!
松茸の炊き込みご飯の試食、お吸い物の試飲、甘栗の試食、さつまいもサラダの試食、おせちの試食。やれやれ、今年も豊穣の秋です。
そうそう、試食にまつわる前科を明かして終わりにします。
あれは確かオレンジの試食だったかしら。相変わらず幼年期のこと。
紅白テーブルのそばでおばちゃんが試食を勧めていたので私は母ともども近づいた。テーブルに置かれた爪楊枝入れから一本取り、オレンジの果肉に突き刺し、食べた。甘味と酸味が手を取り合って鼻を貫く。おいしい。
ここまではよかった。そのあと爪楊枝を元の容器に戻しさえしなければ。
どうもテーブルの下のゴミ箱に気づかなかったとおぼしい。
おばちゃんがエッと目を剥き、母がワーッと叫んだのをまざまざと憶えている。
試食が爆発的に普及しないのはこういう無垢な事故・事件のリスクを想えば仕方ないのかもしれない。気をつけましょう。