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土砂日記 一

noteはじめ、創作・発信活動がまったくできなくなるのは、僕の場合、「本業」がぼろぼろの時期だ。やるべきことも全うせずに喋ろうだなんて、逃げ、そして怠慢に他ならない、そんな者の述べることなど一顧だに値しない、と自責してしまい、結果、投稿から身を遠ざけることになる。が、虚心になって考えてみると、喋りたいように喋ったり、好きなだけ歩くのを禁じると、その途端に息ができなくなって結局「本業」どころか何もできずウツウツとしてしまうのが僕の常である。少しでも窮屈な感じを覚えたが最後、頭の芯が酸欠したように痺れ、黙りこくる。内心ではままならぬ現状に腹を立て「動け自分」と叫んでいるのだが、甲斐があったためし・・・がない。周りを見渡すと「ツラいけど」と口々に洩らしつつも各々の「本業」に従事する人びとの姿ばかりが目につく。努力は誰しもできるもので、自分ができていないのはただ怠けているに過ぎないのだと思い知らされて、必死に机に向かうのだが、小一時間、机の木目を見ているだけだったりする。それは極論だとしても、やっぱり集中が続かずネットサーフィンや徘徊はやめられない。


(『新世紀ヱヴァンゲリヲン』より画像引用)

僕は文学部の学生で、「本業」は論文の執筆である。12月中旬といえば論文の初稿ができていて当然の頃合いで、推敲を重ねて第二稿以降に仕上げていく時機に違いない。僕は、少なくとも今月は、一文字も論文を書けていない。少なくともというのは、春や秋に研究の経過発表の機会があり、そのタイミングに合わせて論文の卵のようなものは書いてあるからだ。発表会に際して向けられた質疑や批判をもとに、そして順次読み込んでいるはずの文献をもとに、論文の最終形態をこしらえていくのが順当な流れである。しかし僕はそれを辿れずにいる。質疑で何を聞かれたのか想い起こせない。問題点も改善すべき点も分からない。教官や先輩に薦められた文献も読めていない。管轄が頭か心かを問わず、僕は研究にまつわる一切を拒否している。教官から叱咤するメールが連日舞い込むが一通も開いていない。

ここまで書く上で、なんど副詞の「恥ずかしながら」を挿入しようとしたか知れない。みなが苦しみながらも手がけている(ように見える)論文作業をまえに呆然と喘いでいる罪悪感がぎりぎりと胸を締めつける。noteを書くなと声がする。それが正しいですと僕は答えてしまう。そうなのだけれど、と私は重い十指を操って入力する。そうなのだけれど。

こんなにも、書いていて自責の念を覚える文章はない。

論文から落ち延びて、僕の生活は、皮肉なことに華やいでいる。
映画館に出かけて映画を観た。『未来惑星ザルドス』復刻上映と『THE FIRST SLAMDUNK』。アマゾンプライムを利用して観る映画も含めると、日々結構な数になるだろう。『戦場のメリークリスマス』『万引き家族』が面白かった。
読書量はかつてないほどに膨れ上がっている。もともと書棚にある本を改めて手に取るのと並行して、ほとんど毎日図書館に通っている。大学附属図書館に籠もる、あるいは市立図書館を練り歩く。秋ごろまで自分の研究に関わらないとして振り落としていた本たちがただならぬ輝きを帯びて迫ってくる。演劇、音楽、言葉、心理、詩集、紀行文、漫画、書評、小説、呼吸、仕草、穂村弘にみうらじゅん。無理強いしてパソコンに向かっていたからやってしまっていたネットサーフィンが奪っていた時間や集中力の奔流が本来あるべきところに収まったという気がしている。

こんなにも、振り返って楽しい日々もない。
文章を書いている点では同じなのに、論文よりも、ブクログに投稿するレビューのほうが気安く、また容易く言葉を書き連ねることができる。noteとどう違うのかは分からないがブクログにはこの冬もずっと投稿できている。

「恥ずかしながら」と書きそうで書かないのは、悪気がないからである。
しょげてみせたって論文に向き合うわけじゃなし。学歴の問題を考えると胸は痛むが、頭の痺れを無視してても論文を上梓できるほどできた人間じゃないもので。
冬を終える頃に僕が悩ましき「本業」とどう折り合いをつけたものか、とくとご覧じろ。留年したらソレを果たせるかというと、ウーン。

さて、息継ぎをするために、新しく日記を始めたいと存じます。
号して土砂日記。人もすなる日記というもの、イモもしてみんとてするなり。
土砂は集積して何かを造立したり、あるいは排除した跡地に何かを造立したりするもので、あまり「そのまま」の状態は注目されない。しかし、未生の何かが生じる土壌たりえる土砂の粗さにこそ、僕が僕たる所以、そして生きる(イキをすル)道がある。ざらざらで不定形のまま自然の摂理に従って流れて参ろう。

きょうこうして開き直るきっかけを与えてくれたのは、坂口恭平『躁鬱大学』だ。
「努力は敵」そう言い切る彼の口調に、僕は天を仰いで笑いこけた。
「しっかり」やら「ちゃんと」やら大仰な副詞を掲げて、到底できもしない努力をして、頭の痺れを感じているものの真面目そうな顔つきを取り繕うくらいなら、いっそ喜ばしき阿呆の尖兵となろう。



I.M.O.文庫から書物を1冊、ご紹介。 📚 東方綺譚/ユルスナール(多田智満子訳)