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カルピスグレナデン割で

家族から距離を取り、私のことを誰も知らない地で、人生をリスタートするために、私は北陸で独り暮らしを始めた。憧れの「オレンジデイズ」とはかけ離れた大学生活だったが、かけがえのない友人を得た。

「人との距離感リハビリ中」だった私は、友人たちにも沢山迷惑を掛けたし、沢山涙を流したが、大学4年間、寝食を共にした(寮生活だったので)友人が2人居た。彼女達は、時に私を面倒だと思っただろうけれど、程よい距離感で見守り、励まし、叱ってくれた。彼女達のお陰で、リハビリは順調に進み、私は産まれ育った地元に帰ってくることが出来た。

毎晩のように居酒屋が閉店するまで居座り、焼肉屋に席を移し、そこから屋台のラーメン屋まで行ったりした。ママチャリで。

毎日、同じテーブルで朝・昼・夕食をとり、それぞれの部屋に帰るのも面倒になって、シングルベッドで3人で眠ったりもしていた。バイトだーと、抜けても、バイト先も同一建物内の別店舗だったり、バイト先まで押しかけてきたりして、結局四六時中、一緒に過ごしていた。

(追い出されたのは、それぞれの部屋に彼氏が遊びに来た時ぐらい)

あの頃の3人の時間は、『密』以上の『密』だったと思う。

それでも、病的な共依存とは、どこか違って、特に気にせず他の友人とも遊ぶし、課題もこなすし、選択する授業に差もあったし、互いに互いのバイト先やサークル活動で、別の友人の輪も持っていた。

私達3人は、まるで姉妹のようで、バラバラなのだけど一緒で、一緒だけどバラバラで居た。


*

1人は、困っている子が居たら、助けずにいられない子だった。
騙されていたとしても、身銭を切っても助けてしまう。
大らかで、優しくて、大胆だった。
彼女の周りには、いつも笑顔が溢れていて、明るく光がさしていた。年齢、学部問わず、大勢の仲間が集まっていた。

私も、そんな彼女の優しさや大らかさに救われた。

もう1人は、直感で生きているような子だった。
「おもしろそう!」と思ったら、パッと飛びついて行ってしまうし、その場に留めておくことは到底できない、綺麗で希少な蝶のような子だった。
そして、その瞬発力や直感による行動に、自分自身でも疲れてしまって、静かに休むことも度々あった。

私自身も、彼女の瞬発力に振り回されることも多かった。
彼女の代わりに、年上の彼氏――私達の寮を担当していた配送業者だった彼が、彼女の他に別の部屋の子と浮気していたり――彼女と同じバイト先の7つも年上の彼が、彼女からお金を借りたまま返さなかったり――を叱りつけたりすることもあった。


*
姉妹のように密に過ごしていた私達も、別々の道を進むこととなったのは、大学卒業時のこと。

卒業にあたって、沢山泣いて、沢山笑って、所縁の場所を回って、縁のあった方々に挨拶して回って、山ほどハグして歩いた。
そして、私たちは解散した。

ひとりは大学卒業後上京し、シングルマザーになった。
妊娠検査薬で陽性判定が出た途端、彼氏は逃げ出し、彼女も追わなかったが、なぜか彼氏のママが出てきて「アンタのせいで、うちの大事な息子クンの将来が」というような言葉をぶつけられ、絶縁し、その彼は今頃、自分が女子中学生の父親になっていることも知らないかもしれない。

そして今年、彼女は再婚した。
行くはずだったバリ島への新婚旅行へは、行けていない。

もうひとりは、大学卒業後、地元に帰り、大恋愛を経て結婚した。
元々、婦人科系の持病があった彼女は、やっと妊娠したかと思えば、出血が多くて安静のために入院したり、前期破水で人工羊水注入したり、症例が少なすぎてどうなるか分からない、と言われながらこの春出産した。

コロナ禍の最中、臨月になっていない週数での帝王切開。
産まれた子は、超低体重児で、産まれてすぐに手術を受け、NICUに入院となった。
彼女の両親は、未だ、孫に会えていない。


彼女達の大変な時に、傍に居たかった。駆け付けたかった。力になりたかった。なによりも、直接「おめでとう」が言いたい。

あの頃みたいに、チャリでどこまでもは行けないけれど、あの頃にはまだ開通していなかった北陸新幹線に乗って、会いに行こうと思う。あの頃と同じ食事は、もうとても摂れないけれど、あの頃と同じカルピスグレナデン割で、乾杯させてもらおうと思う。

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