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あゝ「推し」よ

「不幸な時じゃないといい文章が書けない」とはずっと思っているのだけれど、下降傾向があまりにも酷いとそれはそれで何にも書けないんだなあとここ数日ぼんやりと考えた。

わたしは、何かの『オタク』になったことがない。

アイドルでも、俳優でも、アーティストでも、二次元にも。「推し」というのか、「自分の中の絶対神」のような存在ができたことがない。どうしてあんなふうに盲目になって何かを好きになれるのか全然わかっていなかったし、別にそういう存在が欲しいなとも、出来たらいいなとも思ったことはなかった。

「もう恋愛なんてしたくないよ〜」と呟いたわたしに友人が

「わかる、推しのライブが毎週あればいいのになあ」と答えた。

その言葉に、わたしは人がなぜ誰かの『オタク』になるのかすこし解ったような気がしたのと同時に、わたしがどうして恋愛脳から抜け出せずに手近な人々に依存してしまうのかにも気がついてしまった。

健全な『オタク』は、推しを尊み、応援し、とにかく好きでい続ける。けれどあくまでも推しは「商業的な活動の上で笑顔を振りまき、ファンのために崇高な存在で居続けている」のであり、『オタク』もまたそれを十分に理解した上で、彼らがこれからもあの世界で活動し続けられるように応援し続ける。

所謂現実世界で我々が遭遇する人間(もちろん、推しも多くの場合生身の人間ではあるが)との人間関係とは、まったくもってその人間関係のあり方が違う。

推しはいつだってファンに優しくて、格好良くて、キラキラした存在だし、オタクフィルターも相まってとにかく素敵な面しか見えない。推し側も、そういう面しか見えないように努力をしているだろう。自分がどれだけどん底に居ても、推しは今日も地球のどこかで自分に笑いかけてくれる。携帯があればいつでもどこでも推しになんて会えるし、ライブや舞台なんかが有れば生で動く推しを見に行ける。そんな予定がカレンダーに入っていもすれば、その目標までの日々もその事後の日々すらも「推しに会える/会えた」喜びを胸に生きて行ける。

「もう会えるかもわからない」「いつ嫌われるかも分からない」「わたしとは付き合ってくれないのかもしれない」「こんな恋は実らない」

わたしが現実世界の男に万年抱くそんな不毛な悩みは、推しとの間には起こり得ない。自分にとって一番格好いい存在がいつだって自分に向かって笑ってくれている世界線がどれだけ尊いものなのかをわたしは知らずに生きてきた。

今こそ、わたしは推しをつくる時なのではないのか?

というか、推しってどうやってつくるの?

『オタク』未経験のわたしの素朴なこの疑問に、「作るとかじゃなくて、推しのことを気付いたら好きになってるんだよ」と一蹴されてしまいそうだけれど、わたしだって推しが欲しい!推しに救われて今日も生きていたい!『オタク』ってなんて素晴らしい文化なのだろうか!

未来の推しよ、早くわたしをこの恋愛脳地獄から救い上げてはくれないだろうか。人生を捧げてみせるよ。あゝ推しよ。

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