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トリチウム

最近は原子力発電所からの処理水放出に関する話題でトリチウムという名前をよく聞く。放射性物質というと物理化学分野の担当に思われるだろうが、実は生物系・医療系分野においても重要な事は多い。今日は少し放射性物質について語ってみたい。

トリチウムというのは通常の水素原子(分子量1)よりも中性子数が多い放射性同位体(分子量3)である。この構成は原子として不安定であり、最終的には中性子がβ崩壊して陽子に変化し、陽子が2つの原子=ヘリウムに変化する。このβ崩壊においては中性子が陽子に変化すると同時に電子が放出され、これがβ線という放射線となるのだ。そして、古い生物系研究者はトリチウムと聞くと細胞増殖関連の実験を想像する。

どういう実験があるのか?トリチウムを含む核酸を細胞に取り込ませることで、どのくらいの勢いで細胞が増えているかを調べる実験がある。細胞は分裂の度に核酸=DNAがコピーされて増えるのだが、その際には外部から新しく核酸の原料を取り込むことになる。その取り込む核酸を構成する水素をトリチウムにしておくと、細胞が放射線を出す状態になる訳だ。その放射線量を測定することで、細胞に取り込まれた新しい核酸の量=細胞が増殖した程度が分かるという実験がある。

最近ではより扱いやすく安全な試薬や手法が充実し、この様な実験はあまり行われなくなったので若い研究者は実際に行った事はないだろう。だが、知識としては放射性物質の取り扱いで学んでいるかも知れない。そして、馴染みと知識があればトリチウム自体はそこまで危険な物質ではないという印象を持っているはずだ。β線は放射線の中では遮蔽が容易な線種であり、薄いアルミ板などで容易に遮蔽が出来るし、皮膚も通過しない。放射線として危険性が高いのはγ線やX線といった強力なものだろう。これらは鉛の板でも置かないと防げない。一方で、実験に限らずこれらの放射線はレントゲンや放射線治療などにも用いられる。つまり、きちんと制御されていれば「放射線」そのものはあまり問題にならないのだ。

「放射線」を出す能力を「放射能」と呼び、その能力を持つ物質を「放射性物質」と呼ぶわけだが、大きな問題があるとすれば放射性物質が管理できない状態になることだろう。実験室においても、放射性物質が無くなったり、登録されていない放射性物質が見付かったりすると大問題になる。これが今議論になっている放射性物質の拡散に関する問題ということだろう。

繰り返しになるが、トリチウムについては私は特に問題と思っていない。そもそも水素原子はこの世界で最も多く存在する原子であり、その同位体は自然にいくらでも存在している。当然私達の体内にもいくらかのトリチウムが必ず含まれている。もちろん一定量を局所に集めれば放射線による障害が現れると思われるが、一般的な密度で自然界に存在するだけなら気にしても仕方がない。何しろ、水素原子はありふれているわけなので、トリチウムだけを分離するというのがそもそも難しい。水(水素原子と酸素原子からなる)の中からトリチウムを含む水分子だけを取り除く事の困難さは科学的な基礎があれば想像に難くないだろう。

一方で私が個人的に気になるのは、セシウムやストロンチウムと言った金属の放射性同位体である。これらは通常私達の身の回りには存在しない放射性物質であり、特に体内に摂取すると一定期間蓄積して内部被ばくを引き起こす事になる。ストロンチウムはカルシウムと化学的性質が類似しているため、骨に取り込まれてしまい生物学的な半減期が50年とされている(=基本的にずっと蓄積され、放射線を出し続ける)のが恐ろしいところだ。しかしながら、これらの重金属はトリチウムとは逆に水から分離することは難しくない。適切な処理が行われていれば、自然界に放出されることは無いだろう。一方で、過去に分離用のフィルターを使い回していた時期には処理後の水における残留量が基準を超えていたというデータも存在するようだ。現在もデータは公表されているはずなので、トリチウム自体を気にする前に、これらの重金属放射性物質に注目しておけばいいだろう。

あらゆる科学的現象は、それを制御することで様々な利点を生むものだが、まだ人間には制御・理解が困難な事象も多く存在する。何にせよそれらについて少しでも理解する為には学びを怠らない事が肝要である。

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