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最高傑作になる日まで




その日、初めて家を出た。東京に行く朝。

母ちゃんとの最後の朝。
最後じゃないけど、最後みたいな朝。

その日は伊藤さんとるりちゃんが迎えに来てくれた。薄い桃色のワゴン車から降りた二人の姿が見えた。


伊藤さんとるりちゃんは、通っていた都夢という喫茶店のご夫婦。

数日前に東京に行くことを話したら、駅まで乗せていってもらう事になっていた。

「ごめんな〜!!ほんまにありがとう、お世話になります。よろしくね」母ちゃんと伊藤さんが話しているのを車の窓から眺めていた。

「よし、ほな、大丈夫か?」と運転席についた伊藤さんが私に声をかけた。

私はちょっと待って、と、母ちゃんに駆け寄った。焦りながらも、力一杯、抱きしめた。明日からの勇気を貰うつもりで抱きしめたけど、なんだか抱きしめておかないといけないと思った。すぐに涙が溜まってくるのが分かって、腕に力を込めた。

「行ってくるな」

母ちゃんがどんな表情をしているのかは見えなかったけれど、「頑張っておいでな、気をつけてな」と背中をさすってくれた。

窓から母ちゃんに手を振る。
母ちゃんも手を振ってくれている。


京都駅までの車の中で、るりちゃんがずっと助手席から話しかけてくれた。

伊藤さんは黙っていたけれど、元々お喋りな人ではないし、伊藤さんの気持ちもなんだか分かる気がした。

「お母さん、多分寂しくないとか、強がって言ってるけど絶対寂しいと思う。都夢に来ても変にテンション高かったり、最近様子がおかしいもん。」と、るりちゃんが私に目線を合わせた。

私は少し眠りたくなった。
伊藤さんのいつもとは違う背中をあまり見ないように眠っていたかった。



京都駅にはすぐに着き、二人分の入場券を買ってくれたので、ホームで東京行きの新幹線を三人で待った。

待っている間、都夢で過ごした日々を思い出していた。


毎日朝ごはんを食べに行っていた日もあったし、忙しくしていても、週に一度は伊藤さんや、都夢に来るおじいちゃんやおばあちゃん達の顔を見に行っていた。

扉を開けると、賑やかな声がぶわっと広がり、安心する顔がそこら中にあった。


「さくちゃん、おはよう〜」

るりちゃんの優しい声が聞こえて、伊藤さんが隣でお皿洗いをしている。チンっと気持ちのいい音と共に、ほんの少し焼き過ぎたパンの美味しそうな匂いもする。

みんながみんな「今日は暑いね」とか「今日は雨が凄いな〜」とか、気軽に天気の話をしてくれた。その気軽さが私の心を癒してくれた。

もうすぐ、新幹線がやってくる。


急に焦りが胸まで上ってきて、すぐ連絡するなとか、帰るの待っててなとか、小さな子供に言い聞かすみたいに、出来るだけ寂しい顔をさせたくなかった私は気付けば呪文のように唱えていた。

伊藤さんは「わかったわかった」とか「ほんまに帰ってくるんか」と小さく笑った。
私は酷いと思いながらも、少しそれに嬉しくなた。きっと周りから見たら、お父さんと娘の会話だ。

そんなに慌てなくてもいいのに、すぐに扉は閉まり、車窓に映っていた二人がビルや町に変わってしまった。

平日の夜でも人は多く、一番最初に目に入った席についた。ギターやアンプを持った私を、隣の席のおじさんが、横目でみた後眉間に皺を寄せて嫌な顔をした。


東京駅までは、窓から景色を見たり、友達に連絡を返していたらあっという間だった。

最寄り駅に着いて、夜ご飯を適当に済ませる為に、駅の近くにあったコメダ珈琲に入った。近所のコメダ珈琲は、町のマダム達で昼夜問わず賑わっていたけど、店内はしんとしていて静かだった。

移動の疲れと空腹感で、赤いベロア生地のソファにスーッと深く沈み込んだ。

ぼーっとしていたら、頼んでいたボロネーゼを店員さんが持ってきてくれて、主役以外にもパンとサラダが添えられていて、思っていたより豪華で嬉しい気持ちになった。一気に胃の中に入れていく。こんな時、単純と言うものは、神様からの些細な贈り物だと思う。


ただ何も考えないでいるのは、単純でもアホでもどうやら出来ないみたいで、手を振る母ちゃんの顔や、車窓から見た伊藤さんの顔を急に思い出した。

新幹線の中では浮かんできても、出来るだけ考えないようにしていた。あの隣のおじさんの前で泣くのは惨めだと思ったからだ。

母ちゃん、今頃どうしてるかな。
夜仕事やのに、ちゃんと寝れてるやろうか。
どんな気持ちで部屋に戻ったんやろうか。

修学旅行で三日だけ家を空けた日も、旅行で一週間家をあけた日も、あんな顔はしていなかった。
心配と寂しさが入り混じり、頭の中で繰り返し考えてしまう。私は今、一人だと思った。

「女はお腹は冷やしたら絶対にあかんで、服ちゃんと入れときや」

体調が悪くなった時や、お腹が痛くなった時に必ず歌ってくれた歌を呟いてみた。

私の長袖をズボンに入れながら、それからお腹をさすりながら、「うんこ、うんこ、うんこにな〜れ、うんこ、うんこ、うんこにな〜れ♪」

絶妙にクセになるリズムで、この一節だけが繰り返される。自作で作ったオリジナルみたいだった。これがAメロで、Bメロで、サビだ。大サビはちゃんと転調されて、一応ちゃんとドラマティック。

その歌が、可笑しくて、下品で、大好きで、独自の音楽療法で、不思議と体調はいつも良くなっていた。

お腹をさすってもらいたくて、「ちょっと咳がでてきた」とか「なんか頭がおかしいかも」とか何でも理由をつけるようになったけど、私の嘘を信じてくれていたのか、母ちゃんは楽しそうに音符をつけて歌ってくれた。

悲しい事があった時は、おんぶおばけというアニメの主題歌をよく歌ってくれたりもした。

あるおじいさんの背中に、取り憑いたみたいに、ぴっとりとくっつき離れないお化けと、優しいおじいさんの物語で、よく見ていたらしい。

ご機嫌にフライパンをひっくり返す背中に、私はぴっとりとくっついた。

「あんた、おんぶおばけみたいやな」と言って「おんぶ、おばけ、おんぶおばけっけっけっけ〜♪」と、体を揺らすだけで、学校に行かない理由は訊いてこなかった。


今までの事が、目の前のボロネーゼにも、静かな店内にも、全てに急に散りばめられ始めた。窓に映る自分を見た。もっと上京ってかっこいいもんじゃなかったけ。もっと、こう、揺るぎない強い目やったらいいのに。そう思った。

その瞬間、心臓がぎゅっとなり、目の前のボロネーゼが二重に見えた。

あの家で、母ちゃんともう一緒に生活をする事はないのかもしれない。

今まで、自分のことしか考えてこれなかった、
たくさん怒られて、ぶつかって、分かり合えなくて、そして、誰よりも甘えてきた。全部遅すぎると思った。遅すぎたら、と思うと、胸が張り裂けそうになった。

そして、本当は出来ることなら離れたくない。そんな事は言えないし、言っちゃいけない気もするし、言わないけど、本当はずっと一緒にいたい。

残りをフォークに巻きつけながら、ご飯を食べてる時ってなんでこんなに涙が溢れるんやろうとも思った。

でも、悲しいからといって、ご飯が味しんてことはないし、あの映画の主人公の、「失恋ってご飯の味がしなくなるわ」という台詞は、やっぱり大袈裟だと思った。

そんな事を考えながら、店が空いててよかったとまたソファに深く沈み込んだ。




両耳につけてるイヤホンから、少し眠そうな母ちゃんの声が聞こえた。

きらめく新宿のネオン街、持っているキャリーケースや、ギターが邪魔にならないようにと駅まで歩きながら、「今までごめんなぁ。情けないなぁと思う。これからは、自分のことも、音楽も、もっと向き合って前に進みたい」と、ほとんど泣きそうな声で言ってしまった。

「何が情けないねん。情けないなんて、全部やりきってから言ってくれるか。今はまだどうなっても、笑い話になるねん。笑い話になるうちに、好きなこと、しときや」と、いつもの叱り口調やけど、優しい方のだ。

その言葉にまた心が焦った気がしたけど、そうじゃない、ちゃんと聞こうと思った。


母ちゃんは、優しい。
本当に優しい人だ。

今必要な言葉の置き場所というものをよく分かっていて、私の声色を聞き分けて、そこに青を置けばいいのか赤をおけばいいのかきっと考えてくれていると、私は知っている。

母ちゃんは考える人だけど、それでも、何も考えていなくても、体にエネルギーを持っている人だと思う。勝手に誰かを抱きしめてしまうような内側から溢れ出すものがあるような気がする。


だから、母ちゃんの手はいつも暖かくて、
背中は、いつも優しい音がする。私は本当にそう思った。

その手や背中にいつも守られて、塗りつぶされた黒い穴の中から、いつも照らしてくれたのは母ちゃんの手だ。

これからも、照らし続けてくれるのは母ちゃんかもしれない。

でも違うと思った。

私は強くなりたいんや。強くて優しい人。

誰かを照らせる、あんな風に音や言葉を鳴らす、そんな生き方をしたいとずっと思って生きてきたんだと、今動き始めたとばかりに心臓がどくどくとした。

小さい頃からずっと言い続けてくれていた、「あんたが辛い時は、みんなも辛いってこと、絶対に忘れたらあかんで。それだけ忘れんかったら大丈夫。」という言葉を、もう全く関係のない、明日の天気の話をする、母ちゃんの声を聞きながら思い出していた。


時間は戻って来ないけど、今の自分は違う。
きっと、負けないでいれる。叶えれることがたくさんある。
本当にそう思った。



近づいてるようで近づいてない日々
3月27日
音が草花に色をつけた日
絶対に忘れない目
いつかの笑い話のために

























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