「ふれる」(作:紀野しずく)感想(ネタバレ注意)

 付箋が意味を失った。
 好きな表現に付箋を貼りながら何度も読んだらどんどん増えて、付箋部分を読み返すのと全文再読するのと大差なくなった。気が付くと読者のわたしはそれほどまで、主人公の私に寄り添いたくなってしまっていたのだった。

 状況設定はありきたりではないが斬新とまでいえるものでもない。しかし私の苦悩は真に迫り、いつしか引きずり込まれてしまう。聞くところによると、ノンフィクションではないが作者の実体験をベースにしたものらしい。だからこそのリアリティーだろうが、一方でこれほど冷静に文章に落とし込めるようになるまでに、作者はどれほどの苦悩を乗り越えまた今も抱えているのだろうと想像して胸が熱くなった。

 私は免疫異常のため二回の流産を経験し、三回目の妊娠をした女性。胎児を守るため一日二回の自己注射を打たなければならない。
 子を望む夫婦には嬉しいはずの妊婦健診の呼び出し番号が、私には
「病院と囚人は等しく番号で呼ばれる」と感じられる。
 私を囚人のように捕らまえるものは何だろう。それは命を全面的に私に負っている胎児であり、一度でも飛ばしたらその命を失ってしまうかもしれない注射であり、「注射ぐらい」も打ってくれない夫であり、子供を持つことが幸せだという有形無形の圧力だ。しかしもっとも強く私を縛るのは、失った二人の胎児の命であろう。夫婦はその喪失体験を他の誰とも共有できず、二人だけで抱えている。
 その閉塞感は、夫婦にとっては紛れもなく大切な命が、社会的にはまだ人と認知されないもので、正当に悲しむ権利さえ認められていないかのような圧迫感によるものでもある。しかも子を得るためには十分に悲しむ間もなく、前へ前へと向かわねばならない。立ち止まって失った命を悼むことさえ許されない。そのことがまた二人の疑念と孤立感を強めていく。
 夫婦間とて例外ではなく、私の視点で書かれたこの文章では、夫に対する両価性とそれに苛まれる私の心情がシーソーを使って描かれる。その描写が秀逸だ。
 しかしそれがストールの下の二人だけの世界で、夫と私の不安がシンクロするところから大きく変わる。いくら言葉を尽くしても溶けることのなかったであろう夫へのわだかまりが、震えを共有することで溶け出していき、シーソーにのせた重荷を運び去ってくれる。これが二人の家でなく、公園でもなく、顔や体は衆目に晒されている待合室で、視覚も聴覚も及ばぬストールの中だけで触覚を頼りに起こったことに大きな意味を感じる。本作の山場であろうこの部分は実に感動的だ。そしてストールの空間で分かり合う経験をした私は「注射ぐらい」もしてくれない夫に歩み寄り、「頑張ったねって、声をかけて」もらいたいと言葉に表し、夫もそれに応える。言わなければ分からないという当たり前のことだが、それは単に行動の問題ではなく情緒的な体験であることを改めて教えられる情景だ。

 しかし物語はただのハッピーエンドで終わらない。ひとたび幸せに振れても、次の瞬間には不安に傾く。とはいえ物語の初めでは完全な安心を求めて次々と不安の側に重りを載せていた私が、この中間位で揺れるシーソーそのものを受け入れるようになったという変化が大きい。不安側に振れかけてももはや私は完全に傾かず、心に触れてもらえたぬくもりを「カイロみたいに腹巻に仕舞い込む」ことでシーソーのバランスを取る。カイロのぬくもりは、そこにある注射痕で青黒く変色した傷だらけの腹を少しは癒してくれるだろうか。
 話の展開はこの後に続くであろう出産、子育ての喜び(あるいは苦痛)を暗示するが、決してそれでめでたしめでたしとはしない。私は失った二人の名もない子どもの命を生涯忘れずに生きていく。生と死は互いに変換可能なものではなく、それぞれをありのまま受け止めるべきものなのだ。
 作品の主題は夫婦、親子、生と死、あらゆるものが両価性を内包したものであるという現実を受け入れ、生きていく決意であるとわたしは感じた。

 婦人科疾患や流産、不妊の経験者にはもちろん心に浸みる作品だろう。しかしそれらすべてに縁を持たずに生きてきたわたしに何が分かるのか。そう思うと分かったような感想を述べるのに一抹の気後れを感じた。一方で経験者ほどには感情移入しづらいであろうわたしの(ある人によると冷徹な視点の←結構気に入っている)感想を述べることも、多視点からの評価という意味では無駄ではないだろう。
 ありきたりだがひとことで言うと、この作品は好き。


作品はこちら。
https://www.amazon.co.jp/dp/B081J5KSZZ/
https://bccks.jp/bcck/161736/info

作者のnoteはこちら。
https://note.com/buriburiko/n/nea76f416ac99?creator_urlname=buriburiko#aa1rb

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