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墓地の時間論

今年は"十年に一度の寒波"なるものが訪れていたらしい。俺が寒そうに震えているのを見かねたらしく、優しい人がダウンジャケットをくれた。散歩をするたびに全身が痛くなっていたので助かった。知人にこのことを話したら「お前はハワイから来たのか」と言われた。言われてみれば去年までどうやって冬を越していたのか、ぜんぜん覚えていない。俺は本当にハワイから来たのかもしれないなと思った。ロコモコなんてしばらく食べた覚えがないが、どちらにしろ記憶はないのだからどこから来ていようが大した違いはない。

いつの頃からか現在と過去の繋がりが脆くなった気がする。俺のアイテム欄には無数の"過去に今だったらしいもの"が散らばっているが、それらは今の自分と地続きでなく、バラバラに浮遊しているように感じる。そしてその中には過去の思考や想像の残りカスのようなものも一緒くたに放り込まれているので、どれが現実に起こったことなのかもあまり区別がつかない。"今"が"今"でなくなるや否や、その手触りみたいなものが失われていく気がする。例えるなら小学生の頃理科の実験でやったダイラタンシー現象みたいなものだ。

"今の私"は何かを握っておく手のようなもので、手のひらに固く握られていた片栗粉の塊は、離した指の隙間からドロドロになって落ちてゆく。だから人は過去を過去として、その形と手触りを留めておけるように、そのドロドロの何かを入れておく型を作るのだと思う。墓は豆腐みたいに過去を固めて作るのかもしれない。昼間の墓場の、細い土の道を歩きながらそんなことを考えていた。哲学の授業の単位を落としそうになっていた友達を助けるべく早稲田まで赴いた帰りに、都電に沿って雑司ヶ谷まで歩いてきたところだった。雑司ヶ谷の古い住宅街の細く曲がった路地は、時間の風通しを悪くしていて、並んだ家の軒先にはネバネバとした過去がこびり付いている。きっと墓を作るときに飛び散った液状の過去が風に飛ばされたのだろう。

雑司ヶ谷霊園はノートの罫線のように整備されていて、それぞれの行に割り振られた番号で墓の場所がわかるようになっている。何番の列には漱石がいて、この列には荷風がいて、と図書館の蔵書のように墓が整理されて並べられている。ドロドロの過去が混ざってしまわないように一つ一つ区切り、まとめ、番号をつけて綺麗に整列する。日記をつける作業にも似ているかもしれない。日記とは個人的な墓場である、なんて言ってもいいだろう。

型を作って、区切ってやらなくても形を保っていられるのはこの"今"だけであり、それが"今"というもののしなやかさだ。"今"は流れ落ちた過去の隙間に、草木のように自らの足で立っている。

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